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2010年4月16日 (金曜日)

詩人・尾崎喜八の自註詩集

 普段、詩集なるものに目を向けることは殆どない。
 それが数日前、尾崎喜八が立川市ゆかりの人と紹介した手前、少し読んでみた。 http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-0554.html

 白樺派の詩人・尾崎喜八(明治25年1月31日~昭和49年2月4日)は東京市京橋区生まれだが、父親の尾崎喜三郎は立川・砂川村生まれだ。
 砂川村の尾崎家は本家にあたり、空襲で家が焼失してから21年6月に信州八ケ岳の麓、富士見村に転居するまでの約1年、砂川村の尾崎家に住んでいた。
 富士見の分水荘には7年間住み、晩年は鎌倉で暮らし鎌倉で亡くなる。享年82歳。あじさい寺で知られる北鎌倉・明月院に眠る。
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 立川市若葉町3-54−5蕎麦屋「おざき」の店主・尾崎好司氏は尾崎喜八の甥に当たる。
 同居していた当時のことをいろいろ教えてくれた。
 下段に掲載した詩二点は、「自註 富士見高原詩集」の冒頭に載せているものだが、尾崎喜八が砂川村(現・立川市)に身を寄せていたときに詠んだものと思われる。
 「自註 富士見高原詩集」は1969年(昭和49年)発刊のようだが、「自註」というタイトルのとおり、作者自身が注訳をつけて、その時々の心境を告白している。Dscn3818
 右の写真は、著者撮影とあるが立川や小平付近の玉川上水沿いの山林と酷似している。父親の生家・尾崎家の屋敷森の可能性が高い。カラー写真は最近の写真だ。
 この「告白」と「本国」の注訳には
 「私は元来人間の幸福と平和とに捧げるべき自分の芸術を、それとは全く反対の戦争というものに奉仕させたおのれの愚かさ、思慮の浅さを深く恥じた。」
 と戦争に奉仕し協力したことを反省している内容だ。
 これには若干の説明がいる。
 尾崎喜八は、戦時中発行した詩集、「同胞とともにあり」、「この糧(かて)」のほか軍歌も何作かあり、詩という文学を通して日本軍人を激励したことを反省しているのだ。
 これにも前置きが必要で、当時、軍歌や小説、漫画などで戦争を支援した人達は殆どが、GHQから戦犯扱いされたことにある。
 ただ、尾崎喜八が戦犯に指定された形跡は全くない。
 なにも、反省し、自己懺悔(ざんげ)する必要は全くないのだが・・・・・・
  
  尾崎喜八文学館http://kihachi.at.infoseek.co.jp/

■尾崎喜八 自註「富士見高原詩集」から抜粋   
 告白
若葉の底にふかぶかと夜をふけてゆく山々がある。
真昼を遠く白く歌い去る河がある。
うす青いつばさを大きく上げて
波のようにたたんで
ふかい吐息をつきながら 風景に
柔らかく目をつぶるのは誰だ。
鳥か、
それとも雲か。
疲れているのでもなく 非情でもなく、
内部には咲きさかる夢の花々を群らせながら、
過ぎゆく時を過ぎさせて
遠く柔らかに門をとしている花ぞの、
私だ。

 祖国は戦争に敗れた。
 物質の上でも、精神の面でも、無数のもの、さまざまなものが崩壊した。いわゆる「銃後」の国民の一人として、詩という仕事によっていささかでも国に尽くしたいと思った私の念願も、『此の糧(かて)』や『同胞と共にあり』の二冊のささやかな詩集と一緒に今はむなしい灰となった。
 その無残な荒廃の跡に立って、私は元来人間の幸福と平和とに捧げるべき自分の芸術を、それとは全く反対の戦争というものに奉仕させたおのれの愚かさ、思慮の浅さを深く恥じた。
 私は慚愧と後悔に頭を垂れ、神のような者からの処罰を待つ思いで目を閉じた。そしてもしも許されたなら今後は世の中から遠ざかり、過去を捨て、人を避けて、全く無名の人間として生き直すこと、それがただ一つの願いだった。
 そんな時、終戦の翌年の春の或る夜、ふと私からこの詩が生れた。起死回生の勢いも潔さも見られないが、それはこの場合当然な事であり、むしろ悪夢から覚めた詩人の良心の、まだどことなく頼りない、音をひそめた最初の歌のしらべだと言うべきであろう。
本国
私には ときどき 私の歌が
何処かほんとうに遠くからの
たよりではないかという気がする。
北の夏をきらきら溶ける氷のほとりで
苔のような貧しい草が
濃い紫の花から金の花粉をこぼす極北、
私の歌はそこに生れて
海鳥の暗いさけびや 海岸の雪渓や
森閑と照る深夜の太陽と共に往むのか、
それとも空一面にそよかぜの満ちる
暗い春の夜な夜なを
天の双子と獅子とのあいだに
あるとしもなく朧(おぼろ)に光るペルセペの星団、
あの宇宙の銀の蜂の巣、
あそこが彼の本国かと。

 この詩も本質的には前の作品と同じ種類のものと言えよう。
 誰からも離れて、おそらくは誰のとも遠った現在の心境で、たった一人、ふと湧いたこんな思いを筆にするのが、はかない喜びでもあれば慰めでもあった。
 進んで交わる友は無くても、昔ながらの「詩と真実」の自然だけは私のために残っている。出来た詩が自分でも住い物のように思われる時、そこにはいつでも愛する自然がその本国として遠く横たわっているような気がするのだった。
 第二聯に見られる「北」と「きらきら」、「氷」と「苔」、「海鳥」と「海岸」、「森閑」と「深夜」などのような類音は、半分は私の癖としてひとりでに、半分は意識的に出来たもの。
 また「天の双子と獅子」は、両方共に冬から春にかけて晴れた夜空を飾る美しい星座の名である。  
 戦災で家を失った私は、妻を連れて一年間、親戚や友人の家から家へ転々と居を変えた。どこでもみんな親切にしてくれたが、それでももう生れ故郷の東京に住む気はなく、どこか遠く、純粋な自然に囲まれた土地へのあこがれがいよいよ募った。
 ところがちょうどその時、或る未知の旧華族から、長野県富士見高原の別荘の一間を提供してもいいという好意に満ちた活か来た。私の心は嬉しさにふるえ、思いはたちまちあの八ガ岳の裾野へ飛んだ。

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