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2010年4月25日 (日曜日)

基地の街「立川市」の秘話 Ⅲ

 フロムカム 今も昔も 楽しませ

 JR立川駅北口の一級地にある「フロム中武」は、平成20年11月、「立川屋台村パラダイス」をオープンさせた。
 この屋台は、若者にも「レトロ感覚がいい」と人気があるという。

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 立川市は 昭和52年(1977年)に立川基地が帰還されるまで「基地の町」と言えば聞こえはいいが、実際はアメリカの占領下にあったような街だ。
 現在では、基地跡地や立川駅周辺は近代的に開発が進み、返還前の面影を見つけることは難しい。
 このような中、市民の中には戦後の混乱期から昭和30年代の「立川らしさ」を懐かしむ声が上がり、これを聞いたフロム中武は近くに「立川屋台村パラダイス」を開店させた。
 この屋台村は、立川市教育振興会理事長・中野隆右氏が経営に携わっているが、かつての「立川パラダイス」は米軍相手のキャバレーで、中野家の養子・中野喜介氏が経営していた店だ。
 このパラダイスは「特殊慰安施設協会」指定の店だった。Tachikawa_2
  簡単に言えば、米兵向けのパンスケ(売春婦)がいる慰安所だ。
 ようするに、「立川屋台村パラダイス」は、養子に入った中野喜介(朝鮮名・孫應)氏が経営していた「立川パラダイス」を懐かしんで付けた名称だ。

 中野隆右氏は著書、「立川」(昭和20年から30年代)の中で、
 「中野喜介氏は別名・川辺応棟、本姓は、孫。名は應棟。
 出身地は忠息清南道。父の名は、孫海成、母の名は雀達山。つまりは生粋の朝鮮籍の孫應であり、立川にやってきたのは成人してのちのことで、喜介氏が妻(朝鮮籍)とともに養子として中野家の養子となったのは、敗戦から4年後の昭和24年1月のことだ。立川パラダイスが開業した旧陸軍獣医資材廠の土地は、砂川の大地主であった中野家の地所であった。中野家と川辺応棟(中野喜介)氏とは、以前より親しく往来があり、のちに川辺氏は中野家と養子縁組を結び、喜介を名乗ることになる。」
 と暴露している。
 ここでは、「まえがき」と「駅前に広がる闇市」を紹介する。

『立川(昭和20年から30年代)中野隆右著
 まえがき
 私は、戦後立川の激動の中に生きた異色の男・中野喜介の軌跡を追ってみたい。
 1905年、日本統治時代の朝鮮・忠清南道に生まれ、来日して工業学校に学び、その後立川市で生計を立てた。立川が、TACHIKAWAとしてアメリカ軍基地であった一時期、中野喜介には夜の市長の異名があった。
 書かれることない「影」の部分に生きた67歳の生涯だった。
 昭和20年8月15日の終戦により、大正時代以来、陸軍航空の要として知られた軍都・立川の機能は停止した。一転してアメリカ軍の進駐を迎えた立川のその後は、混乱をきわめた。
 終戦の処理に追われる日本政府は、地方都市にまでは手が回らない。地方都市の行政は、もはや地元の市民が担う以外に術はなかったのである。
 そんな中、立川市民はいかにして自分たちの町を守り、発展させていくかを考え、自主的に行動して新しい立川の街を作り上げた。そしてバイタリティー溢れる市民の典型として、立川市の再建の中心を担った中野喜介氏の昭和20年から30年代の活動をみることにした。
 昭和20年から30年代は、立川市の編纂した資料も少なく、また市民もあまり話題にしない時代である。一般の評論では、立川は悪の巣窟のように書かれている。そしてしばしば中野喜介氏はその頂点にいる人物として紹介されることが多い。だが、私は彼らが活躍した時代こそが本当の立川の生き生きとした時代であると思っている。
 駅前に広がる闇市
 「軍隊から復員して立川に帰ってみたら、、駅前は闇市でした。」
 敗戦の年の立川の町の光景をこう語るのは、明治30年代から北口駅前の通りで、呉服商を営んできた丸屋呉服店の3代目の当主伊藤平八郎氏だ。昭和20年8月、岐阜県各務原の航空廠で敗戦を迎え、敗戦に伴う残務処理に時間を費やしたため。帰郷できたときはすでに12月になっていた。
 見慣れた駅前通りには、大戦末期の建物疎開にかかった我が家はすでになく、かつて店があったあたりには闇市が広がっていた。目の前に広がる闇市、戦時色が濃くなって以来、日増しに強化されていた統制経済に風穴を開けたこの闇市には、ここ数年影を潜めていたはずのアウトローたちが、新たな主役として大手を振って闊歩していた。
 いや、彼らこそが、このにわかに出現した市場の統率者である。加えて闇市を包み込むように周囲に広がる立川駅の町並みには、軍隊帰りの伊藤氏には、見慣れない種類の店も目についた。それは進駐してきたアメリカ軍関係者を相手にする土産物店だった。
 大正時代には、陸軍の飛行場が進出してきて以来、「軍都」として発展してきた立川は、今度はアメリカ軍の進駐で、「アメリカ軍基地の街・、立川」へと姿を変えていた。そして、「基地の街に出現したこの見慣れない商売が、皮肉なことに、旧日本軍の航空基地から復員したばかりの伊藤氏にとり、しばらくの間、生活の手段をうる手だてとなるのだった。
 「駅前のこのあたりも進駐軍相手の土産物屋でいっぱいでした。私なども農家に行っては、羽子板やお雛様を買い集めてきて、それをアメリカ兵に売りました」
 呉服商と言っても、なにしろ当時の東京は焼け野原。東京近郊の街立川も、市の中心部での空襲の被害こそ比較的軽微だったものの、経済は崩壊し、市民の生活は混乱の極にあった。
 とても呉服どころではないという世相だった。
 自然、ビジネスの対象は新たに現れた権力者集団であるアメリカ軍関係者に映る。彼らは当時の日本人から見れば、上は司令官から下は一兵卒、軍属に至るまで治外法権の存在であり、また日本人より「お金持ち」だったのだ。
 やがてこうしたアメリカ軍関係者との接触は、伊藤氏にも一つのビジネスももたらすようになる。アメリカ軍基地から出る商品を扱うヤミ商売である。
 「日本人には入れない基地の中からアメリカの軍人が持ってくる、シュガーやラッキーストライクを手に入れて売ったものです」
ただ、この少々ワイルド商売にはそれ相応のリスクもあった。
 「シュガーだといて、持ってきたものが実は塩だったり、それはだまされたこともありましたよ。でも、生活しなければならないからやめるわけにはいかない。私くらいの年配の人は、そのころはみんなヤミ屋をやっていたんですよ」
 ところで物事と言うのは何でもそうだが、続けるうちに徐々にエスカレートしてくるものだ。もともと法の網をかいくぐるこの商売、だんだん大胆なことが当たり前に行われるようになる。
 「アメリカの軍人は最終基地内の購買で買ったものを持ってきていたようです。でも、しまいには、倉庫から持ち出してくるようになりました。だから持ってくる時には、手で提げてくるのじゃなく、それこそトラックやジープでドカンと持ってくるようになったんですよ」
 こうして、「基地の街立川」は、物のない当時の日本で、アメリカでの闇物資が手に入る街として知られるようになった。
 「当時の立川、アメリカ軍基地の町として全国的に有名でした。
 物も情報も、アメリカから入ってくるのだから、他の街より何でも早かった。コカコーラ、ラッキーストライク、オイルライター……奴らアメリカの軍人に頼めば何でもございだった」
 アメリカ軍基地内のバーで、バーテンダーの仕事を覚え、立川で半世紀にわたる営業を続けるバー「潮」のマスター、白根宗一・通称ジミー氏も、アメリカ軍から出る闇商品について、こう振り返る。
 「たばこ、お酒は、やっぱり闇屋さんでしたね。闇屋さんが暗躍して、あちこちからくすねてはどんどん持ってきてね。これには当時こういう洋酒はまだ、完全に純然たる形で出回っていなかったということもあります。立川にいる人は、こういう闇の商品が手に入るから、ちょっと地方へ行くのに、お土産に舶来品を持っていくとすごくと喜ばれてね。外国タバコなんかでも、こんなものはめったに据えないって、何しろお砂糖だってなかった時代に、チョコレートがあったんだから」
 闇市ではもっと高級な商品を手に入れることができた。
 「それから時計とか。貴重品だったもの。
 あのころは、南京虫なんていうのがありましたね。
 あの当時、パンスケと言えば、みんな南京虫をやっていたものね。
 こんな小さな時計でしたが。
 またあれがなんとも言えない。
 パンスケがそういうものをねだるわけですよ。
 今じゃオメガだ、ローレックスだ、男はグローバーだなんて言うけれども、あんなメーカーのものはそもそも市中に出回っていませんでした。一般の店にそういう時計なんかが入ってきて、商品として身につけるようになるのは、ようやく昭和26、7年のころでしょう。
 ところが立川では、基地の街という特殊な事情で、出回っていた。」
 パンスケとは、アメリカ兵を相手に売春を生業とする女性のことである。
 当時、「基地の街・立川」にはパンスケがあふれていた。
 アメリカ軍人は、物資の供給者であるとともに、日本人にとっての有力な顧客としても定着していたのである。
 ただし彼が買う商品は、物とは限らなかったと言うわけなのだが。
 こうして新たに「基地の街、立川」」が出発した。
 いったん3万5000人近くにまで激減した人口は、基地の存在から再び増加に転じ、戦後10年の間に、元の6万人を上回る回復を遂げることになるが、それはまだのちの話だ。

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