« 司馬遼太郎は「庄内」を書けなかった | トップページ | 朝鮮半島の「カプチャン」とは »

2010年4月 6日 (火曜日)

「済州島四・三事件」と在日

 司馬遼太郎 (著)『街道をゆく耽羅紀行(たんらきこう) を読んでいる。
 当初「耽羅(たんら)」の文字も読めず何処なのかも知らなかった。
 読み始めて韓国と九州の間に浮かぶ「済州島」の昔の呼び名と知った。T01790238_0179023810329001016

 本の内容は、朝日新聞社の藤谷宏樹氏と同島出身の姜在彦博士、そして著者の「済州島の紀行文」だった。
 「済州島」は、「三多」と「三無」の島だという。
 「三多」とは石多し、風多し、女多しの意。
 「三無」とは、泥棒無し、物乞い無し、門扉無し、という意味だそうだ。
 それだけ住み易い土地柄ということだろう。
 それに、海女の伝統、巫女の存在、蜜柑の産地、また、三別抄(サムビヨルチョ)終焉の地でもある。
 「三別抄」は、モンゴル帝国(1206~1634年)に徹底抗戦を唱えた軍事集団だ。三別抄は「済州島」で激しい抵抗が日本攻撃を大幅に遅らせた歴史がある。
 司馬遼太郎は、この終焉の陣地の土塁に立って霊気を感じると記述している。終焉は元寇の前年1273年4月のことだ。
 風俗習慣が日本に近いらしい。島民のほとんどは漁業関係者で、朝鮮半島と違って賤民の仕事はなかった。
 本当はこの本で「済州四・三事件」のことを、司馬遼太郎はどのように見ているのか知りたかったが、言及していなかった。単に、泉靖一博士の著書「済州島」と作家・金石範の著書「火山島」からの引用文だけだった。うまく避けている印象を受けた。
 出来れば、済州島民大量虐殺事件のことを深く掘り起こして欲しかった。

 韓国内では、「四・三事件」の悲劇の実態は長い期間秘密にされていた。
 「四・三事件」は、「済州島人民遊撃隊」の名で引き起こした武装蜂起事件だった。 
 済州島では、1950年の朝鮮戦争が始まる2年前頃には、「南朝鮮労働党・済州島委員会」が組織されるなど、島民の八割が赤化していた。
 北朝鮮側同様に、ソ連共産党の指導下にあった。

 当時は、島全体でストライキやデモが繰り返され、緊迫した状況におかれ、ちょっとしたことが引き金になって、この事件は発生し拡大していった。韓国側、支援する米軍にとっては、やっかいな島になっていたのだろう。そして、大量虐殺事件に発展する。

 大量虐殺事件は数年におよび、難を逃れるために日本に大量入国、密入国することになる。2005年の記録では、同島出身の在日は9万9421人、全在日の16.6%にのぼるが、この事件が切っ掛けで入国したのは何%かは不明。
 1980年代になり、ようやく事件の調査が始まったという。

 一世、二世の「済州島」出身コリアンなら、この事件で入国したと見ていいし、戦後、一旦は済州島に帰国した在日も、この事件で舞い戻ってきた島民も多いそうだ。
 「済州島」出身と知って、このことを話すと意外に気軽に話題に乗るところがある。
 反対に、出自を隠そうとする半島出身者は、身分制度(奴隷)から逃れて来た人か、その子孫とみていい。782214
 日本へ逃れた島民は、大阪の鶴橋、東京の三河島にコミュニティーを作った。
 潜伏地、隠れ家だ。
 民主党幹事長・小沢一郎や歌手の和田アキ子も同島の出身だとされる。
 この事件が関連しているかは知らない。
 確たる証拠は知らないが、もし否定する材料があるなら知りたいものだ。
 是非ともご連絡を・・・・・・・・

 付け加えると、済州島は朝鮮半島の流刑地であり、最下層の白丁が大量に住んだ島だ。韓国の大学でも在日は白丁が移民したのだと教えている。

Chejugoto3

『街道をゆく、耽羅紀行(たんらきこう)』司馬遼太郎(著)から
 1945年8月、朝鮮が解放されたこともある。
 それから3年たった1948年4月3日、済州島で暴動がおこった。このことについて、泉さんは以下のように書いている。
ふつう四・三事件とよばれている、済州島のおそるべき悲劇も、済州島出身でしかも日本で教育を受けた進歩主義者と、そのころ警察署長はじめ警官の多数ならびに町の与太者を含む西北青年隊との対立からはじまったもので、かならずしも共産党の指導によるものではなかった。そして、済州島の歴史と文化が物語っている、強い地方主義が全島民をあげて、島出身の進歩主義者を支持させることになったのである。この間のことは大佛次郎賞をうけた金石範氏の『火山島』(文蕪春秋刊)全三巻にくわしい。泉さんは、いう。
四・三事件で、済州島は荒廃に帰した。さきにも述べたように、総人口(一九四八年の人口はあきらかでないが、おそらく30万にちかかったと推定される。
 なぜならば1958年の人口は22万弱であるからだ)の四分の一が殺され、山・陽村(註・山村は牧畜、陽村は農村のこと)のほとんどが、焼かれて一時は、全部が海岸におりていたのである。このような、山・陽村の大部分は、もとの位置に帰り、新しい部落をつくっているが橋来里のようにもとの住民の大部分が殺され、ごくわずかが海村で生き残っているところでは、もはや部落の再建が不可能となって、まったく住民がいれ変ってしまっている。……
 変容ということばすらこわれてしまうほどの変化で、私どもとしては深く悼む以外に何の立場ももたない。せめて金石範氏のよき読者であろうとするのみである。  
 
本籍地別構成(2005年)
 本籍 人数   %
ソウル市 57,574  9.62
釜山市 25,213  4.21
光州市 2,148  0.36
大田市 1,878  0.31
京畿道 26,523   4.43
忠清南道 11,220  1.87
忠清北道 9,449  1.58
全羅南道 41,120  6.87
全羅北道 10,627  1.78
慶尚南道 172,343  28.79
慶尚北道 125,392  20.94
江原道 4,579  0.76
済州島 99,421  16.61
不 詳 1,506  0.25
北朝鮮地域 3,001  0.50
その他 6,693  1.12
総 数 598,687  100
 

|

« 司馬遼太郎は「庄内」を書けなかった | トップページ | 朝鮮半島の「カプチャン」とは »

08 朝鮮半島に関すること」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。はじめまして。佐藤と申します。
ところで、あなたのブログで非常に気になる文章を見つけました。
「済州島出身と知って、このことを話すと意外に気軽に話題に乗るところがある。反対に、出自を隠そうとする半島出身者は、身分制度(奴隷)から逃れて来た人か、その子孫とみていい」
あなたが指摘していらっしゃるように、日本在住の朝鮮系の人々と、朝鮮系日本人の中には、朝鮮で奴隷だった人々と、彼らの子孫がいるらしいです。私はこの点について目下勉強しております。そのため、この点について正確な情報を記載した文献を探しております。もしそのような文献をご存知でしたら、教えていただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
敬具
佐藤健彦

付記
私自身は、100%日本民族です。

投稿: 佐藤 | 2012年9月13日 (木曜日) 午前 02時40分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 司馬遼太郎は「庄内」を書けなかった | トップページ | 朝鮮半島の「カプチャン」とは »