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2010年4月 6日 (火曜日)

司馬遼太郎は「庄内」を書けなかった

 小説、雑誌の類を読んでいても庄内地方の地名に目が止まることが多い。
 山崎豊子の「不毛地帯」を読んでいたら、主人公が山形県遊佐町杉沢の出身610nfa2wyzl__sl500_aa300_と設定されていたのには驚いたものだ。
 http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-d02f.html
 さて、司馬遼太郎の作品は相当に読んだはずだが、庄内のことを書いた本がない。
 清河八郎のことを書いた短編「奇妙なり八郎」があるだろうと反論されると思うが、これは八郎が江戸に出てからのことが主だ。
 この疑問は以前から思っていたことだが、最近読んだ「街道をゆく」の「秋田県散歩」の中で、その理由が多少分かったことがある。
 「ここは、他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている」とのくだりがある。そして、この『街道をゆく』を書きはじめたときから庄内へゆくことを考えていた。」と、続く。
 なぜ行かなかったのか、どうして書くことが出来なかったのか、同氏が試行錯誤した思いは想像の域を出ないが、一応、検討していた事を知っただけで安心した。
 この安心を得るまで、30数年かかった。
 もしかして無視された場所なのかと思ったりもしていた。
 「どうも自信がない」と吐露しているが、それでもなお書物に残して欲しかったとの思いは今もなお強い。同氏のファンなだけに・・・・。

司馬遼太郎著「街道をゆく」の「秋田県散歩」から抜粋
 そういう東北へゆく。
 どこへゆくべきかと地図をひろげてみたが、なかなか心が決まらない。
 ただ、気になる土地がある。庄内である。
 都市の名でいえば、鶴岡市酒田市になる。旧藩でいえば庄内藩(酒井家十七万石)の領域である。ここは、他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている
庄内は東北だったのたのだろうか、ときに考えこんでしまうことがある。
 最上川の沖積平野がひろいというだけでなく、さらには対馬暖流のために温暖であるというだけではなく、文化や経済の上で重要な江戸期の日本海交易のために、上方文化の席透度が高かった。その上、有力な譜代藩であるため江戸文化を精密にうけている上に、東北特有の封建身分制の意識もつよい。
 いわば上方、江戸、東北という三つの潮目になるというめずらしい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている。
 この『街道をゆく』を書きはじめたときから庄内へゆくことを考えていた。が、自分の不勉強におびえて、いまだに果たせずにいる。このところ、この紀行の係がかわった。藤谷宏樹氏から、若い浅井聡氏になったのだが、このひととどこへゆこうかなと話しあっているうちに、「庄内」ときめた。が、数日経って、どうもまだ自信がないと思い、庄内も津軽もあとだ、と浅井氏に言いなおし、広大な秋田県地図を撫でつつ、「ここにしましょう」古代以来、一大水田地帯だったし、江戸期には杉の大森林と鉱山のおかげでゆたかでもあって、他の東北にくらべると、いわば歴史がおだやかに流れつづけてきた県である。
 おそらく気分をのびやかにさせてくれるにちがいない、とおもったのである。

 「秋田県散歩」を読むと、象潟・蚶満寺には訪問し、何故芭蕉は訪問したのかなどを解き明かしている。出来ればもう少し南下して欲しかった。
 山形県庄内地方は地理的には中央と離れているが、江戸時代から独自の文化が開けた土地だ。北前船の寄港地だったことも発展につながっている。
 四季折々の自然のうつろい、豊穣の大地と山海の恵みが人々に精神的に安定をもたらし、松尾芭蕉をはじめ訪れた人は、皆礼賛し魅了する。
 作家・司馬遼太郎は「街道を行く」などをはじめ、全国津々浦々のことを書き残した作家だったが、ついに庄内を主題として描くことはなかった。
 その理由が、この短い文章の中から多少は伺い知ることができる。
 この点、藤沢周平は、庄内藩をモデルにした「海坂藩」という架空の藩を通して、数々の時代小説を登場させている。
 まるで司馬遼太郎が書けなかった、その反動を見ている思いだ。

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