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2010年4月14日 (水曜日)

新撰組の「副長助勤」とは

 「副長助勤」(じょきん)のことを、ようやく知った。
 
 新撰組関係の本や映画、ドラマには、「副長助勤」という役職か階級のような名称が出てくる。ウィキペディア(Wikipedia)でも「副長助勤」とは、壬生浪士組、及び新選組内の位。 通常は、局長、副長に次ぐ三番目となる。とあるがそれ以上の説明はない。

 この「助勤」とは、面白い言葉を使うものだと常々思っていたが、ようやく解決することが出来た。これは40年来の悩みだった。
 助教授、助教の意味と大して変わらないようだ。
 司馬遼太郎の「街道をゆく」の「神田界隈」を読んでいたところ、「寒泉と八郎」の項で紹介されていた。八郎とは、庄内藩出身の清河八郎のこと。

 司馬遼太郎は、文中で、
 「舎長の下に、助動がいる。助勤が昌平黌(しょうへいこう)のみに存在した内規上の用語だ61kstdkgg6l__ss500_ったことを知った。幕臣の子弟は寄宿寮に入る。」と、自らもこのとき知ったことを紹介し、「助勤」という用語が新選組に流入したのは、この清河を経たのではないか。清河が、新選組の前身の新微組の組織者のひとりだったことをおもえば、この連想はほぼまちがいはなさそうである。
 と説明している。
 まあ、同じことで悩んでいたことに共感しただけだ。
 清河八郎の天才ぶりは、このような全く新しい組織づくりにも発揮していた。

■司馬遼太郎の「街道をゆく」の「神田界隈」、「寒泉と八郎」の項抜粋
 私は、以前、新選組における「副長助勤」ということばの来歴について調べあぐねたことがある。「助勤」は、国語辞典にも漢和辞典にもなかった。
 結局、幕末の天誄組の総裁のひとりだった松本奎堂(1831~63)の資料で知った。奎堂は三河刈谷の人で、藩から推されて昌平黌に入り、舎長になった。
 舎長の下に、助勤がいる。
 助勤が昌平黌のみに存在した内規上の用語だったことを知った。
 幕臣の子弟は寄宿寮に入る。
 しかし松本奎堂のような陪臣(諸藩の士)は、書生寮に入る。書生寮はみどとな自治制で、書生たちのあいだで役掛りがきめられるのである。舎長は自治会会長とおもってよく、その舎長を補佐する者として、「助勤」二人がいたのである。
 『旧事諮問録』(青蛙房刊)の石丸三亭の遺談(明治24年11月)によると、自治制とはいえ、お扶持が出たという。舎長は五人扶持、前前は三人扶持であった。
 出羽の人請所八郎(1830~63)は、安政元(1854)年、昌平黌に入り、ほんの一時期ながら、書生寮にいた。「助勤」という用語が新選組に流入したのは、この清河を経たのではないか。
 清河が、新選組の前身の新微組の組織者のひとりだったことをおもえば、この連想はほぼまちがいはなさそうである。
 松本奎堂は昌平黌を出たあと、名古屋で塾をひらいていたが、「文章詠歌は畢竟是泰平の余技のみ」と、書をすてて風雲に投じ、大和の鷲家口で幕軍にかこまれ、闘死した。
 清河八郎は江戸麻布一ノ橋で、幕吏のために殺された。
 ちなみに岡田寒泉の生涯は泰平のめでたさというべきものだった。74歳、老齢を理由に致仕し、妻女をすでにうしなっていたのか、横山町の長男真澄(国学者)にひきとられ、二年あまり老を養って死んだ。

局長 近藤勇  副長 土方歳三
副長助勤  沖田総司 永倉新八 原田左之助 井上源三郎 山崎烝 山口二郎(斎藤一)
監察方 大石鍬次郎 吉村貫一郎 安藤勇次郎 村上清 尾形俊太郎
勘定方 岸島芳太郎 大谷勇雄 安富才輔 中村玄道

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