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2010年4月24日 (土曜日)

基地の街「立川市」の秘話Ⅰ

 昨日は立川市内のお歴々と一献傾ける機会があった。
 当方も昭和40年代から米軍基地に出入りしていたことや、最近も5~6年間、同市内で仕事をしていたこともあり、市内関係者とは知り合いが多い。
 会話の中で面白い話が幾つかあったが、一番興味深かったことを紹介したい。1226561378_photo

 立川駅北口にある「フロム中武」は平成20年11月、「立川屋台村パラダイス」をオープンしたが、「昔懐かしい」と人気があるという。
 立川市は、 昭和52年(1977年)に米軍立川基地が帰還されるまで「基地の町」としてアメリカの占領下にあったような街だ。

 現在では、立川駅周辺を中心に開発が進み、返還前の面影を見つけることは難しい。このような中、市民には戦後の混乱期から昭和30年代の「立川らしさ」を懐かしむ声があり、「立川屋台村パラダイス」が開店したという。Photo
 この屋台村は、立川市教育振興会理事長・中野隆右氏(右写真)が経営に携わっているが、かつての「パラダイス」は米軍相手のキャバレーで、中野家の養子・中野喜介氏が経営していた店だという。戦後の立川の街で、どのような内容の店だったかは説明の必要はないはずだ。最盛期は5千人を超える女性が夜・昼関係なく街をたむろしていたという。
 そして、「立川屋台村パラダイス」は、養子に入った中野介(川辺応棟)氏が経営していた「パラダイス」を懐古して付けたらしい。

 中野隆右氏は著書「立川」(昭和20年から30年代)の中で、
 「中野喜介氏は別名・川辺応棟、本姓は、孫。名は應棟。出身地は忠息清南道。父の名は、孫海成、母の名は雀達山。つまりは生粋の朝鮮籍の孫應であり、立川にやってきたのは成人してのちのことで、喜介氏が妻(朝鮮籍)とともに養子として中野家の養子となったのは、敗戦から4年後の昭和24年1月のことだ。立川パラダイスが開業した旧陸軍K01獣医資材廠の土地は、砂川の大地主であった中野家の地所であった。中野家と川辺応棟(中野喜介)氏とは、以前より親しく往来があり、のちに川辺氏は中野家と養子縁組を結び、喜介を名乗ることになる。」
 と暴露している。
 中野喜介氏は、昭和28年に設立された立川商工会議所の設立発起人代表・初代会頭であり、また、立川ロータリークラブ初代会長でもある。

 関係者から、「立川」(昭和20年から30年代)を拝借したので、徐々に面白い内容を紹介したい。次の抜粋は「第五節 夜の市長」から。
 「立川屋台村パラダイス」を利用する際は、このような予備知識があると本当Tachikawaの意味のパラダイス気分に浸ることが出来るかも知れない。
 なお、文中に「錦町」とある場所は「シネマ通り」、「羽衣町」とある場所は、トヨタドライビングスクールに向かう路地、立川相互病院の裏手にあった。
 戦後から近年にかけての立川市の実話だ。
 米軍基地のある街は、大なり小なり、このような話は実在する。
 参考まで記載しておくが、
 米兵は兵士としての前線勤務が6か月を越すと、死傷者が急激に増えてしまうという研究から、「実戦に役立たないばかりでなく、後輩兵士の士気を挫く」とし、交代制度を導入した。この制度は、5 日間の休暇制度はLittle R、ローテーション制度はBig R と呼ばれていた。ベトナム戦争当時の米兵の休暇先として、タイ、韓国、フィリピン、南ベトナムなどがあったが、一番人気は日本の沖縄、立川、横田基地などだったという。
 これが日本女性の売春、米兵による買春が多くなった背景とされる。
 そして、これを逆手に金儲けした、日本人、朝鮮人達も多くいたのも事実だ。 

戦後立川・中野喜介の軌跡』中野隆右著
第五節 夜の市長
 次に第2のケース、N氏が設立したキャバレー「パラダイス」だが、これについては同書に、次のような注が付されている。
 「N氏は今も市政の黒幕的存在といわれる人であり、当時一般の婦女子に対する米軍の暴行事件が頻発していたので、N氏が運動して、その対策として米軍から許可を得てこのキャバレーを作った」
 このN氏、本名を中野喜介という。
 昭和28年に設立された立川商工会議所の設立発起人代表・初代会頭であり、同書の刊行当時、会頭職にあった人物である。中野氏に関しては、当時発行されていた雑誌『真相』(昭和30年7月1日号)に掲載された『基地タチカワを食う夜の市長』に、次のような記述がある。
 この「夜の王者」とは誰か。
 話は少しさかのぼって、敗戦-米軍進駐-占領の不安と混乱のさ中のことである。
 警視総監の指揮下に「GIさんたちに日本で愉快に過していただくのを義務として」東京都内各所に公認の大規模なインタナショナル・パレス(慰安所)が設立されたとき、立川市でも旧陸軍の獣医資材廠の将校宿舎がアッという間に改装されて、パラダイスの看板がかかった。
 建物の中には、各地からかり集められた玄人、素人の女たちが数十名、そしてその年の8月末、米軍が甲州街道から立川に進駐してくると、このパラダイスは俄然活動を開始した。
 東京都民が飢えに迫られて焼け跡をさまよっているとき、ここばかりは明けても暮れても脂粉と橋声の巷である。
 その中で身ぎれいな背広で丁重にGIたちを送迎しているのは川辺応棟という40がらみの男だった。
 このパラダイスの経営者である。
 当時の日本娘の肉体は、ショートタイムが50円、これが経営者と女で折半される。女たちがあくことのないGIたちの欲望のもとに、若い肉体をすりへらしてゆくのと反比例して、川辺のフトコロはみるみる肥えていった。そしてその金と、同時にこの稼業を通じて結びついた米軍とのつながりは、権力におびえる立川市内での、この男の地位までも次第に押し上げていった。
 元来、この男は戦争中、一介の自動車運転手としてこの町に流れ込んできた。もっともそのころは名もない存在であった。
 それがどのようにして、この半官的パラダイスの経営者となりおうせたのか。そのいきさつは、いまのところはっきりしないが、とにかく敗戦による国民の不幸は、この男に最大のチャンスを与えたのである。
 「真相」は当時の革新陣営に近い雑誌であり、地元で金と権力を手中にする中野喜介氏(文中・川辺応棟)に関する描写は辛辣を極めるが、続きを見ていこう。
 パラダイスは翌年5月、「紳士国」の体面を重んじるマッカーサー司令部の「公娼」 廃止の精神によって全国一斉に閉鎖され、女たちは街に分散させられた。川辺も、立川におけるパンパン生みの親の功績Pを担って市中に出た。
 その後のコースは、いまさら説明するまでもあるまい。
 か弱い女性の血をしぼる味を覚えた者は、みずからそのすばらしい餌物を捨てるものではない。
 『彼女たちを通じて立川市中に落ちる金は最小限1カ月3千万円、年間3億6千万円で、実際は5億近いといわれる』(読売)この立川市における巨大な財源の大元締となった川辺は、たちまちこの街の最大の顔役にのし上がった。市民はこのころから彼を「夜の市長」と呼ぶようになった。
 また、このときから10年を経た昭和30年に『週刊朝日』誌上に掲載された『日本拝立川基地の街』(4月17日号)という記事の中で、作家の伊藤整は、パラダイス開設の経緯を次のように記している。
 中野喜介氏自身の話によると、昭和20年の10月、日本女性に対する外人の性不安を解消するために、立川の東北郊外の旧陸軍将校宿舎を借りて、全国から370名の女を集め、大蔵省に話をつけて、生ビール3百箱、ビン詰3百箱、一級ウイスキー60箱という巨大な配給を得て、愛国的大事業「立川パラダイス」を始めた、というのである。
 立川パラダイスが開業した旧陸軍獣医資材廠の土地は、砂川の大地主であった中野家の地所であった。中野家と川辺応棟(中野喜介)氏とは、以前より親しく往来があり、のちに川辺氏は中野家と養子縁組を結び、喜介を名乗ることになる。
 さてパラダイスだが、白根宗一氏は、次のように伝え聞いているという。
 「白人は錦町、黒人は羽衣町だが、じゃあ上級の人たちはどうするんだということになった時に、喜介さんが、(中野家の当主の)中野田郎吉さんの土地へ立川パラダイスというのを作ったわけです。そこはいわゆる将校とか、高級民間人とかが利用した」、『真相』の記事に翌年5月に閉鎖されたとあるように、営業していた期間は長いものではなかった。
 最後に、『都市と村落の社会学的研究』が第3のケースとして挙げているのが、全国に40の支部をもつRAAの立川支部として、同年11月に設けられたキャバレー「サクラ」だが、RAAの関係者であった鏑木清一氏がまとめた施設一覧表(『秘録進駐軍慰安作戦』鏑木活二者・所収)には、その名はなく、『小町』というキャバレーが掲載されている。
 「20人いた」とされるダンサーも、施設一覧表によればダンサー10名とある。
 ただし、このほかに10名の慰安婦がいたことになっている。
 総数はいずれも20名である。
 『小町』と『サクラ』は、同じ施設が名称を変えたものかもしれない。
 RAAとは、リクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーションの略称で、正式の名称は特殊慰安施設協会という。
 米軍進駐を目前にした昭和20年8月26日に結成され、3日後に警視庁より設立認可を受けた団体である。
 米軍の進駐による治安の悪化・性犯罪の増加を恐れた政府の意向を受け、遊郭や遊技場、飲食店などの業者の代表を警視庁に呼んで結成されたとされる。
 その事業内容は、ホテル、キャバレー、レストラン、ビリヤード場など、多岐な娯楽にわたるが、一番の眼目は慰安所の経営であった。その資金として政府系の銀行であった勧業銀行から3千万円の融資を受けていたという。
 RAAは、発足と同時に
 「新日本女性に告ぐ
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍慰安施設の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」
 という大看板を銀座通りに掲げて、「18歳以上25歳まで。宿舎・被服・食科全部当方支給」の当時としては破格の好条件で"女性職員〟を募集。
 採用された職員の大半は、都内はじめ各地に開設された慰安所やキャバレーにダンサーや慰安婦として送り込まれた。

在日のタブー☆朝鮮進駐軍☆について1/2

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