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2010年4月25日 (日曜日)

米軍・女性兵士用「慰安夫」

 ここまでも 男女平等 求めたり41pqbjrai1l__ss500_
  戦後、進駐軍のために「米軍兵士用慰安婦」がいたことは衆知の事実だが、米軍の「女性兵士用慰安夫」がいたことはあまり知られていない。
  「戦後の日本を知っていますか?」
 ―占領軍の日本支配と教化― 百瀬孝(監修) を読んでいる。
 この中で、興味深い記述があったので紹介したい。
  それは、「女性兵士用慰安夫」のこともあるが、
 「特殊慰安施設協会」RAAは、日本女性を米軍から守るため「性の防波堤」として、近衛文麿が発案し、時の警視総監が設置を指示したという内容だ。
 古来、軍隊には占領先の女性を強姦することは常識としてあった。
 現在の日本でも、米軍将兵による強姦事件は後を絶たない。
 特に沖縄県では1972年の本土復帰以降、明るみに出ているだけで120件以上。
 今なお基地問題で揺れる沖縄では、住民との間に深刻な影を落としている。
 「戦後の日本を知っていますか?」には、
 「東京では警視庁保安課が、東京飲食組合、芸者屋組合、貸座敷連合会、慰安所組合などの代表を集め、協力を依頼しています。こうして、占領軍上陸直前の8月0000000000013526日に、「特殊慰安施設協会」(Recreation and Amusement Association=RAA)が設立されました。」とある。早く設置されたところで有名な場所は、大森海岸駅前の老舗料理屋「小町園」、横浜山下町の「互楽荘」、立川の「キャバレー富士」あたりが知られる。
 RAAとは「リクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション (レクリエーションとお楽しみ協会)」のこと。
 別の記録では、
 昭和20年8月28日「殊慰安施設協会設立宣言式」が行われ、そこで読上げられた設立趣意書には、
 「畏くも聖断を拝し、茲に連合軍の進駐を見るに至りました。一億の純血を護り以て国体護持の大精神に則り、先に当局の命令をうけ、東京料理飲食業組合、東京待合業組合連合会、東京接客業組合連合会、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京慰安所連合会、東京遊技場組合連盟の所属組合員を以て特殊慰安施設協会を構成致し、関東地区駐屯部隊将士の慰安施設を完備するため計画を進めて参りました。本協会を通じて彼我両国民の意志の疎通を図り、併せて国民外交の円滑なる発展に寄与致しますと共に平和建設の一助となれば協会の本懐とするところであります。」
 とある。
 米軍上陸を待ち受ける、当時の意気込みと覚悟のほどを彷彿させる内容だ。
 「進駐軍様、あなたに全てを捧げます」と受け取ることも出来る。
 これも、この日本で65年前にあった実話だ。
 何も当時の女性や国民だけを責めることは出来ない。

 今も米軍基地周辺では、「ブラさがり」する日本女性を目にするからだ。
 この場合、ブラックにぶら下がるから「ブラ下がり」という。
 それに、男達もアメリカに武器を放棄され、手足足枷されて戦う気力を奪われた。
 つまり金抜き」、或いは「カマ掘り」された状態のままなのだ。
 この後遺症は、今も続いている
 石原都知事が嘆くのも理解できる
 そして今も、日本国家自体がアメリカ様に「ぶら下がり」した状態が続いているのかも知れません。

戦後の日本を知っていますか?―占領軍の日本支配と教化』
百瀬孝監修1938年生まれ。1962年、東京大学教育学部卒。元、仙台大学体育学部教授、昭和研究グループ著

国家売春だった「性の防波堤
 戦後しばらく、私娼の売春婦を「パンパン」といっていました。
 パンパンの語源ははっきりしませんが、やってきた米兵が夜、雨戸を パンパンとたたいたからとか、南方のどこかの言葉だとか、女が米兵に「パンをちょうだい」といったことからなどの説があります。
 外人相手は「洋パン」、進駐軍将校に囲われたのは「オンリー」といっていましたが、パンパンは、日本人相手の街娼もすべて含んだ呼称、ないしは蔑称として、昭和三〇年前後まで使われていました。
 朝鮮戦争で日本経済が立ち直るまで、正確な数字はつかめないものの、この産業が外貨獲得のトップだっただろうといわれています。
 そのトップだったという戦後の売春は、昭和20年8月21日、近衛文麿国務大臣の発案により閣議決定された、「国家売春」という信じられないようなものからスタートしています。
 近衛はこれ以前に、占領軍が来ると、大陸で日本軍が行ったような兵による暴行事件が起こるといい、その「性の防波堤」を作ることを警視総監に提言します。
 これを受け、内務省警保局は全国の知事に「性的慰安施設」などの設置をひそかに指示。営業に必要な女子は、芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯などを優先的にこれに充足せよ、としました。東京では警視庁保安課が、東京飲食組合、芸者屋組合、貸座敷連合会、慰安所組合などの代表を集め、協力を依頼しています。
 こうして、占領軍上陸直前の8月26日に、「特殊慰安施設協会」(Recreation and Amusement Association=RAA)が設立されました。
 本職の女性だけでは足りないので、銀座にこんな看板が立ちます。
新日本女性に告ぐ!戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集、年齢18歳以上25歳まで。宿舎・被服・食糧全部当方支給
 新聞にも募集広告が出されています。
 「急告-特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス 東京都京橋区銀座7-1特殊慰安施設協会
 当初、1000人を予定していたところ、朝から長蛇の列ができ、4000人が応募してきて、係員が逆に憤慨したといいますが、募集しておいてそれはないだろう、という気がします。
 当時、1000万人餓死説が出ていたころで、家もなく衣服もなく食糧もない若い女性にとって「衣、食、住、当方支給」は、光り輝いて見えたでしょう。とても責められません(ちなみに、21年1月28日にはじめての私娼一斉取締りが行われており、二児の母の戦争未亡人、元外務省のタイピストなど、逮捕された18人のすべてが素人だったことが世間を驚かせました。プロは巧みに逃げたそうです)。
 東京だけで、大森鈴ケ森の料亭、ダンスホールなど25ヵ所で開所されています。土足のまま室内に入ったり、突飛な時間に来て応じないと暴れ出す兵などがいて、「通訳や従業員の面々怪我を負う者日毎夜毎その数を知らず」という有様だったようです。料金はかなり高く、一般兵士では始終利用するわけにはいかなかったようです。日本の業者はさぞや大儲けだったでしょう。このRAAは、翌21年3月で終わりを告げ、「従業員」の一部は街娼や娼妓に転身しました。米兵は自己調逮しなければならないことになります。
 これ以前からあった江戸時代から続く日本の伝統的な公娼制度は、マッカーサーの意向で廃止されることが求められており、RAAだけ続けるわけにはいきませんでした。
 RAAには最盛時、全国で7万人、三月閉鎖時でも5万5000人の「特別挺身隊員」という、ふざけた名前で呼ばれた女性たちがいました。
 昭和21年1月、GHQは「日本の公娼制度はデモクラシーの理想に違背するから、日本政府は直ちに従来公娼を許容した一切の法律および命令を廃棄して、その諸法律の下に売春を業務に契約した一切を放棄せしめよ」と指令します。
 これが1月15日で、その三日前、GHQの指令を察知していた警視庁は、公娼地域をそのままにして私娼地域として営業させ、貸座敷業者は接待所、娼妓を接待婦と呼びかえろ、という通達を事前に出しています。「かたちだけ作って、マッカーサー指令を換骨奪胎してしまいましょう」という、警察と公娼業者の連携プレーです。公娼は私娼になっても、借金や公休など、待遇はまったく変わりませんでした。さすがに戦前から警察と「密接な関係」を保っていた業界のやることですから、ぬかりありません。
 GHQは、指令違反業者を軍事裁判にかけたりして、日本の警察にかわり取り締まりますが、たいした刑・罰金ではなく効果はありませんでした。
 結局、日本で売春を禁じる「売春防止法」ができたのは昭和33年のことで、このときも業者は政治家などに金をばらまき、「売春汚職」と呼ばれる事件を引き起こしています。GHQもあざむいたくらいですから、最後までしぶとい連中です。管理売春はよほどうまみがあるとみえ、なんとしてもその法案成立を阻止したかったのです。
 ところで、RAAは大っぴらに募集されたのでよく知られていますが、 女性兵士用に「男慰安夫」として採用された若い日本人男性がいたことは、あまり知られていません。
 この慰安夫に採用された人が語っています
 昭和21年、この人の場合は名古屋に進駐した女兵用で、厳重な体格検査に合格。
 とにかく、心臓、胃袋、眼、皮膚、筋肉、血液、尿などが検査され、性病、痔の有無まで調べられたといいます。
 松坂屋の近くに焼け残った木造アパートがあり、体格検査に合格した数人の若者に一人一室与えられます。
 最初の客は、なんと試験官の伍長で、彼女は最初からその人のことを気に入って採用したのです。
 「乳房は二個の飯ごうのようで、故郷の牛を思わせる腰だった」といいます。
 勤めはさすがに一日おきで、日給三ドル。その他、肉、バター、チーズなど、体力回復のためいくらでもくれました
  一般国民が芋も満足に食べられないときですから、それはありかたかったでしょうが、とにかく体力的にきつかったそうです。
 結局、この人は丸半年間、その女伍長にやむない軍務のあるとき以外は買い占められ、その伍長は本国帰還の日、とめどなく涙を流したそうです。
 RAAから30年後、ジャーナリスト・大島幸夫が、近衛の指示を受け、RAAを実行した元警視総監・坂信弥にインタビューしています(『原色の戦後史』講談社文庫)。「いまさら、そんなことをなんで聞くんかね。次元が低い問題だよ。(中略)近衛は支那事変で日本兵が支那の女たちにやったことに覚えがあるから、ヤマトナデシコを救おうという気持ちで、彼ならやってくれると、総理官邸に私を呼んで頼んだんだ。(中略)あれ(RAA)は国の運命を左右する問題でなしに、アワツブみたいな問題に過ぎん。
 応募した女性をイケニエのように言う人がいるが、そんなのは火事場の野次馬議論であって、観念論だよ。他にどんな方法があったか、というんだ。あれはあれで日本女性の貞操の危機を救ったんだよ」大島は、こう書いています。
 「国策を語って、その国策に引きずり回された人間たちのことに語り及ばない。国策の効果を一人よがりにたたえて、人間の痛みに思い至らない」と。

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