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2010年4月12日 (月曜日)

岡場所「富岡八幡宮」界隈

 岡場所は土地柄を反映し、客層に特色があった。
 「谷中いろは茶屋」は天王寺門前(台東区谷中7丁目)にあり、坊主客が多い。
  「我が山の 鐘で谷中の 憂き別れ」とある。
  坊さんは谷中で葬儀の仕事があると、代わりの者に回すことは無かったという。
  葬儀や法事の帰りに、立ち寄る楽しみがあったのだ。
  谷中いろは茶屋は、生臭さ坊主、エロ坊主で持っていたそうだ。
    鬼平犯科帳「谷中いろは茶屋」では、木村忠吾が菱屋のお松に夢中になった。
 さて、忠吾、恋路の行方は?
 「根津門前」は根津神社の門前にあって大工などの職人が多い。
  「さしがねを 預けてあがる 根津の客」
  「根津の客 まあ腹掛けを 取ンなまし」
  とある。根津は「不寝」と書かれた文書もある。
 深川「富岡八幡宮門前」は、木場の番頭、新川の酒問屋や米問屋の手代多い。
  「前垂れで 来る客とんで 深ばまり」とある。
 内藤新宿は明治通りと新宿通りの交差する「雷電稲荷神社」辺りにあった。
 杉並・堀之内の妙法寺参詣帰りに、昼の明るいうちから立ち寄る客が多かった。
  「妙法を かく新宿の 昼遊び」
  「新宿に 泊まるはこれ 妙法寺」
    「お帰りは 御祖師様だと 女房いい」
   妙法寺の信者は内藤新宿の町の発展に寄与した。
 四谷見附の「四谷大木戸」が夜閉められるので、泊まり客が多かったという。
 江戸城の勤番先に行く際に時間がかかるためで、追い出しの鐘があった。
 この鐘は今も保存されている。

 このように江戸の性は、詩や川柳にも残るように、実にオープンだった。
 それに比べ、現代でこのような詩や川柳に接することはない。
 社会全般に余裕がないのだろか。
 
 岡場所は、なぜか神社仏閣の門前で栄えたのか。この疑問は解けない。
 司馬遼太郎も不思議がっていた。
 富岡八幡宮の岡場所は、土橋、仲町、新地、石場、櫓下、裾継、 佃にあり、
「深川七場所」と呼ばれ、最盛期には約500人以上の娼妓がいたという。
 富岡八幡宮は、「鬼平犯科帳」によく登場する。
 鬼平もよく訪れた場所だ。
 http://jibun.benesse.ne.jp/publisher/novel_map/01.html

■鬼平犯科帳「春雪」(池波正太郎)
 密偵・小房の粂八が亭主におさまっている、深川石島町の船宿「鶴や」で昼餉をすませた長谷川平蔵は、久しぶりで富岡八幡宮へ参詣しようとおもいたった。
 「それでは、私がお送りいたしましょう」
 粂八がみずから舟を出し、深川を縦横にめぐる堀川づたいに、永代寺門前町の船着場へ舟を着けた。あたたかい日和だし、八幡宮門前のにぎわいは格別のものであった。
■鬼平犯科帳「あばたの新助」(池波正太郎)
 平蔵は、この日の市中巡回を深川から本所方面にかけておこなうことにきめた。すっかり春になったことだし、夜半までぶっ通しに巡回するつもりなのである。
 嶋やから舟を出させた平蔵が、大川(隅田川)から深川・熊井町の堀川へ入り、いくつもの小橋の下をぬけ、富岡八幡宮・門前の蓬莱橋へ舟を着けさせたのは、八ツ半(午後三時)を少しまわっていたろうか……。
 例のごとく、編笠に着ながし姿の長谷川平蔵が舟からあがって、蓬莱橋たもとの舟着場へ立ったとき、(や……?)
  正面にみえる富岡八幡・二の鳥居をくぐり、こちらへやっ て来る

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02 「うんちく」知ったかぶり」カテゴリの記事

コメント

>岡場所は、なぜか神社仏閣の門前で栄えたのか。この疑問は解けない。
>司馬遼太郎も不思議がっていた。

 神社の多くは寺の敷地内にあって、その旦那寺が運営していました。
 深川八幡(冨岡八幡宮)の旦那寺は、永代寺です。今も残っている「門前仲町」の「門前」は、永代寺門前ということです。

 江戸には寺社が数多あり、はじめは公儀(幕府)の援助があったりしましたが、財政が厳しくなるとそれらがカットされ、自活の方法を求めます。

 もともと江戸の場末、深川の地への参詣者は少ない。永代寺は運営資金をかせぐために、拝領した土地のうち門前を町人に貸し、男の遊び場である「茶屋」がつくられました。
 元禄十五年に永代橋の架橋がありましたが、それでも深川地区には参詣客は少なく、永代寺境内で成田山新勝寺の不動尊の出開帳から参詣客が集まるようになり、冨岡八幡にも人気が集まるようになりました。

 冨岡八幡宮の東に、三十三間堂があります。ここにも岡場所はありました。

 ちなみにこの三十三間堂は、京の三十三間堂を模して浅草に作られたものが元禄十一年に大火で焼失。元禄十四年になって深川の地に再建が許可されたものです。

投稿: 百楽天 | 2010年12月17日 (金曜日) 午前 11時21分

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