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2010年4月20日 (火曜日)

「鎌倉河岸」は何処にあったか?

 鎌倉河岸は、内神田1丁目界隈にあった、江戸に最初に出来た繁華街。Photo_2
 大手町一丁目にあった「庄内藩上屋敷」の直ぐ隣にあった。 

 佐伯泰英著の「鎌倉河岸捕物控」が、NHK土曜時代劇「まっつぐ鎌倉河岸捕物控」と題して、4月17日(土)午後7時半から放送がはじまった。http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/mtsg/
 この時代劇に出てくる酒屋「豊島屋」は実際にあった店だ。庄内藩の人達も通ったに違いない。

 この「鎌倉河岸」は、江戸の街が開かれて一番最初に出来た繁華街で、江戸初期には遊郭もあった場所だ。約束通り稲荷神社(御宿稲荷)も近くにある。
 時代劇の中には、外堀に架かる「神田橋」も設定してあると思うが、この橋は大手町から内神田に通じる橋で外堀通りにある。
 そして、この外堀のすぐ内側が庄内藩酒井左衛門尉の上屋敷があった場所だ。
 江戸古地図の中央下、「神田橋」の内側に「酒井左衛門尉」の上屋敷が記されているが、「庄内藩」には神田橋を護るという大切な任務があった。
 庄内藩の規模は、明和期(1764~71年代)の総家臣数は2845名であることが判明している。このうち参勤交代で江戸詰になった人数は、寛文7年(1667)の記録では780人とある。概ね3割5分の人数だ。
 会津藩は幕末、京都守護職を任じた際は半数を上京させたというから、庄内藩も同程度の割合で江戸に上ったことが推測される。

 幕末には庄内藩は「江戸市中警備」を命じられ、「新徴組」を預かることになる。この「新徴組」の屯所は、JR飯田橋駅から徒歩数分、千代田区飯田橋1-9辺りにあった。「新徴組」も「新選組」も、清河八郎の発案で結成した「浪士隊」が母胎になった。

 庄内藩(酒井家)の上屋敷跡地には、現在、大手新聞社や銀行の本店など日本経済の中核となる企業、団体などのビルが建並ぶ場所にあった。
  酒井左衛門尉(さえもんのじょう)とは、日本の律令制下の官職の一つ。 
 平家追討では「源義経」も任ぜられている。
 このような予備知識で、この辺りの散策や時代劇「まっつぐ鎌倉河岸捕物控」を見ると面白い。

 下段の古地図は鎌倉河岸付近と、その下は鎌倉河岸から日本橋界隈。
 日本橋から神田界隈は、大江戸の中心として長く繁栄した。
 この辺りが「江戸っ子」の発祥と言われ、家康が江戸に入ってから三河駿河などの商人をここに住まわせたことに始まる。
 例えば「三河屋」は酒の商い代名詞となった。
 古地図の中央から右上に「日本橋」が確認できる。

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