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2010年4月に作成された記事

2010年4月30日 (金曜日)

死に体の政権・支持率20・7%

 民主支持 今は言えない 恥ずかしく

 共同通信社が28、29日に実施した全国緊急電話世論調査で、鳩山内閣の支持率は20・7%に一気に急落したことが報道されている。
 不支持率は64・4%で、不支持理由のトップは「首相に指導力がない」(40・7%)だ。
 この調査は小沢一郎幹事長に対する検察審査会の「起訴相当」議決を受けて実施されたもので、民主党政権に厳しい数字が出ることは予想されていたという。
 鳩山政権誕生時の、あの高い支持率は、あれは何だったのか。
 幻だったのか。
 昨年夏頃は、マスコミにあおられ、民主党を支持しないと遅れをとったような錯覚をおこし、ドッと自民から民主に世論が動いた。
 きっと、昭和15~16年ころの太平洋戦争開戦前も、新聞、ラジオなどのマスコミは、あのような行け行けムードを醸成したのであろう。
 それが、敗戦したとなると手の平を返して、「本当は戦争に反対していた」、「軍からの要請があった」などと、態度を一変させたことと同じだ。
 まず反省することはない。
 唯一、たけしのテレビタックルで、たけし自身が番組の最後に「このような番組で政党を応援するときは気を付けないとね」と、コメントしていたことが救いだった。
 当然、他のコメンティターはダンマリだったが・・・・・。
 きっと、開始前の打ち合わせで、民主への流れを作ると話合っていたのだろう。
 
 それでも支持者、関係者にはせめて参議院選挙まで民主党人気が持って欲しいとの期待もあろうが、このレームダック(死に体)状態ではムリだ。

 命とりの原因は、実現できそうにないマニフェスト、矛盾するマニフェストを並べた人気取り政策で選挙に臨んだことだ。
■普天間基地の代替案の準備もないのに、沖縄県外移設を提案する。
■子ども手当などの予算のかかる政策をにも、5%の消費税は上げないという。
■高速無料化と言いつつも、実質値上げの詐欺的なごまかし案。
■常に日本を軽蔑している、主に在日に与えようする外国人地方参政権案
■その他、鳩山総理、小沢幹事長らの民主党議員の汚れたカネの実態と日教組ら労組との癒着。
■起訴相当との国民意思も軽視する民主党。
 暴力団は子分が悪いことをすれば親分も同罪として責任をとるそうだが、国会議員は秘書に罪をかぶせる
 つまり暴力団組織より達が悪い、それが民主党だ。
 ときには、あばたもえくぼに見えてもいいのだか、何一つ支持出来ることがない。
 事業仕分けなどで、唯一ポイントをあげようとしていたが中途半端で終わっている。
 このまま鳩山内閣、民主党政権が続くことは、国際的に信用を落とし、国家としても損失大、そのツケは全て国民に回って来る。
 国民の不幸は民主党が政権にある限り続く。
 そして、日本国そのものが危険水域にあることに、鳩山政権は気づかない。

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今川処刑場と永久橋の関係

  今川の 永久(とわ)の別れは 永久橋 
0_073
 「永久橋」は杉並区本天沼3-44前の早稲田通り、妙正寺川にかかる橋だ。
 早稲田通りを中野方向から環八方向に進行して来ると、なだらかな下り坂になるが、これは妙正寺川が作った窪地の地形だ。
 この早稲田通りにかかる「永久橋」は、この橋から約1キロ西にあった「今川処刑場」で処刑される罪人と家族らが、永久の別れになったことから付けられた橋の名だ。
 「今川の 永久(とわ)の別れは 永久橋」だったという話だ。

 「処刑場近くの泪橋
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-50e9.html
 でも紹介したが、処刑場近くには同様の橋が何カ所かあった。

 南千住の小塚原処刑場近くには「泪橋」は思川(おもいがわ)に掛かっていた橋、漫画「あしたのジョー」では、この橋の下に「丹下拳闘クラブ」があった。
 品川区南大井にある鈴ヶ森刑場跡の近くの、立会川にかかっていた橋も「泪橋」と呼ばれていたが、現在は「浜川橋」と呼び方が変わっている。

 妙正寺川に掛かる「永久橋」も同じような理由で付けられたのだろう。
 この近くにあった処刑場は、早稲田通りに面した荻窪警察署今川交番の反対側の駐車場辺りにあった。
 今川家の知行地だった、井草、鷺宮、中村村辺りの裁判権は今川家にあった。
 徳川幕府の江戸の中にあって、年貢の取立てや裁判権もあったのが面白い。
 例えば、ローマの中にあるバチカンのような場所か。

 徳川家康は、竹千代と名乗っていた当時、今川家に人質として生活していた頃があった。今川義元には可愛がられたらしい。
 その恩義応えるために、義元の息子を高家として江戸に招き今川に住まわせた。
 そして、その知行地の裁判権も与えているという破格の扱いをしている。

 ところで、漫画「あしたのジョー」は実写版が撮影中だ。
 矢吹丈は山下智久、丹下段平 は香川照之が演じるという。
 やはり「泪橋」は欠かすことが出来ない存在だ。

あしたのジョー実写版(約4分辺りに泪橋がでる)
 実写Movie(1970)主演 / 石橋正次

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杉並区今川にあった処刑場

 今川家 今は今川の 観泉寺Sanmon

 東京都杉並区今川2丁目16−1には「観泉寺」という立派な寺院がある。                         
 杉並区「今川」の地名は、戦国時代の今川家に由来する。
 今川氏は、室町時代~戦国時代にかけて駿河国などを治めた大名だったが、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に敗れたのち没落した。
 徳川家康と今川家とは縁が深い。
 家康が6歳当時、今川義元の人質として暮らした縁から、義元の子・今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、慶長19年(1614年)に江戸で没した。
 氏真の嫡孫今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって正保2年(1645年)に徳川家光から、井草村・鷺宮村・中村3ヶ村500石を知行地に与えられた。
 この知行地はけっこう広く、例えば井草村は現在の、善福寺、西荻北、今川、桃井、上井草、下井草、清水辺りも含まれるので、これが練馬区中村辺りまで含まれる知行地だから相当に広いことになる。
 杉並区善福寺にある井草八幡宮は今川家と関係が深い。
 今川家伝統の流鏑馬は、今も毎年ここで行われている。
 この地域は幕末まで、今川家知行地として続いた。

 屋敷の広さは、南は青梅街道、北は早稲田通り辺りまで「八町」もあったという。
 青梅街道に「八丁」という交差点名として名残がある。
 江戸時代の観泉寺は知行地支配の拠点でもあり、領民からの年貢の取立てや裁判権も与えられ、裁判は寺の門前で行われていた。
 裁判権が与えられていて、斬首の刑は、境内の北外れでの早稲田通り沿いで行われていたという。Ss_a
 場所は、荻窪警察署今川交番の反対側、現在は駐車場になっている辺りだ。家を建てるのは、皆、嫌がるという。
 
今川処刑場~杉並区今川の「観泉寺」は今川家の菩提寺だ。
 江戸時代は井草村・鷺宮村・中村界隈は今川家が統治していて、裁判権も与えられていた。当然、斬首の刑も行われていて荻窪警察署の今川交番の反対側の駐車場になっているあたりだ。

 江戸当時の処刑場はいろいろ調べたが、必ずしも全てではないと思ってする。例えば、国立府中インター付近にもあったという話を聞いている。
 もしヒントを教示して頂ければ調べたいと思うのだが・・・・。

 とりあえず、今川以外の、江戸にあった処刑場も掲載する。

小塚原処刑場~1651年(慶安4年)に創設。約220年の間に処刑された人は20余万人。当時は骨ヶ原と呼ばれたという。現在は荒川区南千住5丁目33番地の回向院別院。幕末には、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田源次郎らが処刑された。
 ここでは約2万人、一日平均3人が処刑された。
鈴ヶ森刑場~1651年(慶安4年)に創設。品川区南大井2-5-6
伝馬町処刑場~中央区日本橋小伝馬町3-5 明治8年まで約270年間存続した。
板橋刑場~板橋区板橋3丁目15-10  JR板橋駅北側付近
八王子大和田刑場~甲州街道の大和田橋北詰付近。大和田交番の裏手。主に多摩地域の受刑者が処刑された。
浅草鳥越刑場~日本堤上り口にあったが、小塚原刑場に移転
芝高輪刑場~高輪の如来寺付近にあったが、1651年に鈴ヶ森刑場に移転した。
芝口処刑場(正式名不明)~港区三田3丁目7番8号付近
   鈴ヶ森の刑場が出来る以前は、芝の処刑場があった。江戸初期は、この辺りが東海道の江戸府内の境だった。

 この他のもあったら、教えて欲しい。

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2010年4月29日 (木曜日)

4/29「藤沢周平記念館」開館

 周平に オンブにダッコの 町おこし

 民主党、4月29日を「緑の日」から「昭和の日」に改めた「国民祝日法改正案」に党を上げて反対していた。http://www.dpj.or.jp/news/?num=1742

 この昭和の日に合わせて29日鶴岡市立「藤沢周平記念館」が開館する。
場所、山形県鶴岡市馬場町4番6号
開館 午前9時から午後4時30分まで
 (休館~月曜日・月曜が祝日の場合は次の平日、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 大人 300円、高校生・大学生 200円 ※中学生以下は無料です。
交通案内、バス、JR鶴岡駅より約10分、「市役所前」下車徒歩3分、
山形道鶴岡I.C.より約10分
 練馬区大泉学園町4-27-9の自宅書斎を移築し、藤沢周平の愛用品で再現される。
 近年、藤沢周平文学が全国的に人気を高めたこともあり、作品の映画化、映画村の誘致などが成功している。鶴岡市もこれに乗じて名所旧跡の観光化に努力しているが、記念館もこの一環にあり藤沢人気に頼った町興しが続きそうだ。
 一人の人間の成功の偉大さを改めて知る思いだ。

■藤沢周平記念館の開館に合わせたのか、7月10日全国公開される藤沢周平原作の「必死剣・鳥刺し」の大開が産経新聞に掲載された。
 この映画制作に産経新聞が制作に参加しているから広報に力を入れている。
 必死剣耳掻き付き前売券が、4月29日から発売されるという。
 なぜ耳掻きなのかは分からない。
 「必死剣・鳥刺し」の内容は、原作の一部を引用して詳細を掲載した。
 迫力ある内容だと思う。

Photo

主演のトヨエツ、藤沢映画「必死剣鳥刺し」をPR』
 2010.4.28
 山形県鶴岡市の庄内映画村などでロケを行った藤沢周平原作の映画「必死剣鳥刺し」をPRするため、主演の豊川悦司さんや監督の平山秀幸さんらが27日、県庁を訪れ、吉村美栄子知事と懇談した。架空の海坂藩を舞台にした物語で、豊川さん演ずる中級武士が藩主の愛妾を刺殺するが許され、新たな藩命によって人生が急転するというストーリー。
 吉村知事が「山形で撮影してもらい、ありがたい」と述べると、豊川さんは「山形は懐かしい感じがして、ホッとする。山形の風景にも映画が助けられた」などと応じ、平山監督は「鳥海山をはじめ、山形ならではの映像が撮れた」と話していた。
 県内ロケは昨年秋を中心に延べ約30日間にわたり、鶴岡市や遊佐町で行われた。映画の見どころについて、豊川さんは「重くて痛いラスト」、平川監督は「静かな映画が一瞬、動の映画に変わるところ」と語った。吉村知事は2人に米の新品種「つや姫」をプレゼントした。作品は7月10日から全国で公開されるが、県内では今月29日から前売り券が販売される。

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テレビ朝日の代弁者達

 コメントも 空気読めない 朝日かな
 

 テレビ朝日に川村晃司(1950年~)というコメンテーターがいる。Photo
 4月27日、昼の「ワイド!スクランブル」では、検察審査会の審査員11人全員が小沢幹事長の起訴相当と議決したことを話題にしていた。http://www.tv-asahi.co.jp/scramble/

 これに対して川村晃司は、「小沢さんは記者の質問に丁寧に答えて説明している」、「審査員の判断は全員誤り」と取れるコメントで必死に小沢幹事長を擁護する姿は異様だった。
 全くバランス感覚を欠いた、民主党、左翼代表のコメントに笑ってしまった。
 他の出演者もあきれていた。
 検察審査会は国民の常識感覚を代表した意見と思うのだが、小沢幹事長は当事者だから当然として、民主党、応援する人達はそれをも否定しているのだ。 

 そう言えば、先日のやじうまプラスでも川村晃司は、「沖縄9万人集会は、鳩山総理への援護射撃だ」などとピント外れのコメントしていた。
 もっとも、このような発言が「テレビ朝日」の体質を現しているのだから、朝日サイドから見れば正常なのだろう。
 似たようなピント外れのコメントをするコメンテーターに「鳥越俊太郎」や「なかにし礼」、「落合恵子」らがいる。
 鳥越は、中国の日本人3人死刑報道で、終始うつ向いて何もコメント出来ない姿に笑ってしまった。落合恵子の異様な髪型とコメント、なかにし礼のセンスのない無理したコメント、テレビ朝日も、もう少し質のいいコメンテーターを配置した方がいい。
 それなりの世論を形成したいのだろうが、あれでは逃げてしまう。

川村晃司は朝日ニュースターにも良く出ている。
 愛川欽也パックイン・ジャーナル
 「普天間問題 日本全国 米に弱い
   http://asahi-newstar.channel.yahoo.co.jp/index.php?itemid=263

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2010年4月28日 (水曜日)

ロッキード事件と立川市

 政商も 街も時効か 春霞む
 基地の街 つわものどもの 夢のあと
 
 基地の街「立川市」の秘話Ⅳとして、
 30年前の「ロッキード事件」は、立川市も舞台だったことを紹介する。

 4月27日は大きなニュースとして、時効制度見直し案の成立、小沢幹事長の検察審査会の起訴相当との報道が流れた。
 これらの報道から、小沢幹事長の師、田中元総理が関与した「ロッキード事件」のことを思い出した。
  「ロッキード事件」が発覚したのは1976年(昭和51年)2月で、元・内閣総理大臣田中角栄が、ロッキード社からの裏金収賄容疑で逮捕されたのは1976年(昭和51年)7月27日、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴された。

 親中国反米路線をとる田中角栄総理に対するCIAの工作とも噂された。
 背景は今と似ている
 そして、児玉誉士夫、小佐野賢治らの大物が、政治の裏舞台で暗躍していることを国民が知ったのはこの事件からだった。
 今回は、この事件に関連した重要証言を紹介する。

 既に時効になったことだが証言者の口は堅い。
 どこから刺客が現れるか分からない事件だからだ。
 当方もこれ以上触れることはない。
 しかし、この証言が当時判明してたなら、裁判の行方を左右したことであろう。
 政商が暗躍した街・立川も今は昔の面影を見ることが少ない。Plc1006140834003p2
 
証言1~「昭和52~3年当時、丸紅の檜山廣社長は立川市内に隠れ住んでいた」、「この隠れ家を探し出して、元NHK議員を案内した」
証言2~「檜山邸を訪問した目的は、億単位の現金搬送だった」、「田中角栄のパシリだった」、「写真は檜山の家の前で撮影した。真夏だった」
証言3~「小佐野賢治は立川の緑町辺りに住んでいた。小佐野の弟は立川駅南口辺りに長く住んでいた」、「小佐野の兄弟は何人かいた」、「小佐野と檜山の直接の関係は知らない」Image
証言4~「基地があった当時の立川は悪いことをして稼ぎたい連中には、いい条件が揃っていた」、「ある程度稼ぐと立川から動いて、余所で偉そうな顔している」 、「米軍からの横流し、売春宿の経営いろいろだ」

檜山廣(ひやまひろ)の横顔
 檜山廣(1909年12月18日~2000年12月25日)、丸紅中興の祖と言われる。
 茨城県生まれ。旧制水戸中学校を経て、1932年東京商科大学(現一橋大学)卒。1952年丸紅飯田(現丸紅)取締役、1964年社長、1975年丸紅会長、1976年取締役相談役。
 ロッキード事件に絡み国会で証人喚問された。
 証言内容は虚偽として偽証罪で告発された。実刑が確定するも、高齢のため執行停止となり収監されないまま死去。
田中内閣は
 1972年(47年) 7月6日 ~1974年(49年) 12月9日首相在職通算886日。

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ロッキード事件の概略と問題点、波紋など』
ロッキード事件とは
 米国航空機会社ロッキード社による、民間航空機売りこみに伴う国際的汚職事件で昭和51年1976年2月、米国上院議院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の「ピーナッツ100個」等ロッキード社による不法献金の証拠資料公表は、政財界を震撼させた。
 チャーチ委員会で、ロッキード社のコーチャン副会長が日本政界への賄賂の必要性を教えたのは丸紅の檜山広会長、大久保利春専務であると証言、丸紅を通じて日本政府高官へ200万ドルを渡し、その際に国際興業社主の小佐野賢治も非常に助かったと証言した。
 事件の発端は昭和47(1972)年9月1日の田中、ニクソンのハワイ会談だった。既に前年から日米間の貿易不均衡が米側から強く指摘されていた。この年の1月の佐藤・ニクソンの日米首脳会談の際に通商産業大臣として参加していた田中は、スタンズ国務長官から対米貿易収支の巨額な黒字減らしの通商交渉の開始を求められていた。
 この通商交渉に積極的に動いたのが総理となった田中だったが、チャーチ委員会でロッキード関係者の証言から、ロッキード製トライスターの日本売り込みに多額の賄賂が流れ、その一部が田中角栄に送られたことが判明した。
 田中は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。
 他に佐藤孝行元総務庁長官や橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕される。
裁判の争点や問題点、波紋等
①米国での証言は、共犯者に免責を与えた上で得た供述だ。
 この制度を日本の法律は想定していないので証拠能力はない。
②証拠資料は米国にある。
 米国の証人を日本の裁判所に呼んで、偽証罪を適用することを前提にして証言させない限り裁判が成り立たない。
③民間の航空会社が航空機の選定をする際に、政治家に職務権限は無い。
④しかし軍用機は別。児玉誉士夫はCIAのエージェントで、ロッキード社のセールスマンだった。防衛庁が国産化を検討中の次期対潜哨戒機が、ロッキード社製に変更された。
⑤最高裁は嘱託尋問調書には証拠能力がないとし、事実上の田中角栄無罪判決を下した。
⑥内閣総理大臣は国家元首であり、国家元首が任期中に行った決定を裁判になじまない。国会で追及するのが筋だ。
⑦アメリカが親中派の田中角栄潰しのために仕組んだ陰謀である可能性が高い。
⑧76年2月中曽根康弘・自民党幹事長(当時)は米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」と要請している。

昭和のカリスマ ロッキード事件
http://www.youtube.com/watch?v=2IyvKABiTuY&feature=related

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クレソンのみそ汁が美味い

 クレソンを 朝摘む季節 また来たり
 クレソンと 揚げがよく合う 朝餉かな
 
 
朝摘みのクレソンをみそ汁にして食していたら、駄作が浮かんだ。
 汁の具材に、多めのクレソンと揚げを入れていた。
 よく合う、おすすめだ。
 最近、キャベツやレタスなど葉物野菜の高値が続いている。
 産地での、冬から春先の気温低下と日照不足が影響しているらしい。

 我が家では、近所で採取できる野生の「クレソン」があるので、気分的に余裕だ。
 スーパーでは一握りの束が200円前後だから、我が家で一度に採取する量を金額に換算すると2000円にはなると思う。
 このクレソンの繁殖力は極めて旺盛だ。
 採っても採っても数日後には見事に回復している。20104
 芽吹く勢いは凄いものがある。

 食する方法は、大量にあるので「おひたし」は勿論、「ベーコン炒め」、「肉炒め」、「ソーセージかウィンナー炒め」、等々の炒め物によく合うが、みそ汁もお奨めだ。
 気づくのが遅かったと思っている。
 クレソン薬草としての効用があり、貧血、くる病、心臓虚弱、視力の衰え、強壮、産婦の乳の出をよくし、便通、利尿、黄疸、リュウマチ、神経痛にも有効だという。

 

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2010年4月27日 (火曜日)

なぜ芸能界に「在日」が多い?

 遺伝子は 異国の土地で 花開く

 昔から公然の秘密として言われる「なぜ芸能人に在日コリアンが多い」かだ。
 なぜだかは薄々知っていたが、上手にまとめてあるサイトがある。
 「日の丸君の日記http://hinomaru.iza.ne.jp/blog/entry/206810/
 の「芸能界には昔から公然の秘密として、在日コリアンが多い。なぜだろうか。」というホームページがある。
 ここでは、
 実力世界説」 芸能身分説」 暴力団関与説」の三点に分けている。
 この区分が一番わかり易いと思われることと、意見がほぼ一致するので整理しながら引用させていただく。13
 特に「芸能身分説」の項にあるが、在日コリアンの殆どが朝鮮半島では最下位層(奴隷)の白丁(ペクチョン)、広大(大道芸人)・男寺堂(放浪芸能)出身だということだ。
 当然のことだが在日コリアンは、自称・両班(貴族)階級が多い韓国民からも「白丁」(奴隷)とみられているという。
 これは日本人より階級制度の実情に明るいのだから仕方ないことだ。
 韓国民からすれば、在日コリアンは全員奴隷階級と思っているのだろう。
 生粋の朝鮮半島人が、日本人以上に在日コリアンを嫌う理由がここにある
 そして、「在日」が戦後帰国しなかった最大の理由もこれだと言う。

 白丁(ペクチョン)は帰国して、元の階級に戻るのはイヤだと思っただろうし、
 それより、差別の少ない日本
 威張り散らしていたほうが楽と思ったことや
 密入国者だった(殆どが密入国と言われている)
 本貫(日本の戸籍のようなもの)が奴隷なのでない、
 徴兵制度から逃れたい。
 という、日本人には理解し難いいろんな理由があったようだ。
 Imgc_excite_co_jp
 朝鮮半島では、労働を貶める劣化儒教では、芸能関係者白丁と並ぶ最低ランクの身分とされていた。
 白丁は、本来「白い服を着た人」のことで傘をかぶった姿を記録写真などで見ることが出来る。

 また最近の韓国ドラマ『テルン選手村』にも「白丁」という言葉が出てくる。
 韓国民の約四分の一は「白丁」だったといわれ、ドラマにも登場することは自然なことだ。「白丁」が登場するドラマは、「林巨正」、「白丁の娘Min01_2、「茶母」、「張吉山」、「土地」は白丁が主人公で白丁の人生が題材らしい。
 よって、白丁と言っても差別とは言えないことを指摘しておく。
 朝鮮半島では、日常的用語だという。

 例えば「林巨正」の映画宣伝に、16世紀の朝鮮に実在した人物で、白丁と呼ばれる賎民階級の出身。 白丁は主に屠殺業に従事していた。
 波乱万丈の生涯を描いた歴史大作とある。 
 つい横道に逸れてしまった。

 つまり在日コリアンの芸能人は、芸能という「遺伝子」DNAが、子、孫に引き継がれ、異国の地・日本花開いた見れば分かり易い。
 歌や踊りの能力は、見よう見まねもあるかも知れないが遺伝すると言われている。
 沖縄出身者の芸能人が多いことと、根底は同じと見ている。
 琉球王国でも、衣服や「ハチマチ」 の色などを定めた厳しい身分制度があった。
 中国や日本に気を遣いながら国を維持して来た琉球は、芸能で賓客をもてなす必要があったと言われている。

 なお歌手の和田アキ子は、1949年4月10日、大阪市東成区生まれ。本名は金福子(通名・金海福子(かねうみ ふくこ))で、父親は済州島から渡ってきた金基淑(金海基淑)氏、母親は慶尚南道からやってきた金海森子氏であるという。
 2005年週刊文春の取材に答えている。
 なお1968年、「和田アキ子」としてデビューするため、先に帰化した叔父の「和田忠浩(金和淑)」の籍に入って和田姓を名乗る。
 和田忠浩は「ミナミの帝王」のモデル。
 それから、済州島出身の二世ということは両親は1948年に発生した済州島四・三事件からの難を逃れるために、日本に密入国したと推測される。
 この事件は韓国政府の「赤刈り」とも言われ、済州島民が大量虐殺されている。
 数年続いたという。
 当時、この島から日本に密入国した島民は5~6万人とも言われている。
   そして大阪では鶴橋、東京では三河島にコミュニティーを作った。
 隠れ家だ。

 それから、済州島は朝鮮半島の流刑地であり、最下層の白丁が大量に住んだ島だ
 韓国の大学でも、在日は白丁が移民したのだと教えており、よって、本国の朝鮮人は奴隷である在日朝鮮人と一緒にされるのを嫌がる。

 つまり、自分の出身国からも軽視されているのだ

あなたは白丁(ペクチョン/ペッチョン)という言葉を知っていますか?  http://ameblo.jp/hatosavure/entry-10383923474.html


在日とうわさされる日本人
http://blog.livedoor.jp/pcwbui/archives/52349057.html

現在韓国人の旧「白丁」出身者に対する意識状況について
   http://blhrri.org/kenkyu/project/descent/descent_r0006.pdf

韓国人の文化コンプレックス
  http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?eastore+10

日韓併合前後 朝鮮半島写真館
     http://photo.jijisama.org/other.html
     http://photo.jijisama.org/OldKorea.html

芸能界には公然の秘密として、在日コリアンが多い。なぜだろうか
■「実力世界説
 貧困や差別から逃れるために、または日本に生活の糧を持ったために、日本に自分の意思でやってきた在日朝鮮民族は、まともな就職も無く、日本人社会になじもうともせず、貧困に喘いでいた。
 その貧困から、脱するのは、自分の力で切り開ける実力の世界を目指したという説である。同様に、スポーツ選手にも在日コリアンが多いのも同じ理由だ。
 自分を鍛え、修行する過程で、朝鮮民族のしがらみからはなれ、立派な選手になる人と、やはり、朝鮮民族特有の血が残る人と分かれると聞く。
■「芸能身分説
 朝鮮社会は厳しい身分制度の下に、差別の激しい社会である。日本に自主的に渡り、在日コリアンの元になった人は、貧困と差別を避けるために来日した「賤民身分」出身者がほとんどであった。
 白丁と呼ばれる最下位層身分と、同じく賤民身分である広大(大道芸人)・男寺堂(放浪芸能集団)など芸能に関わる人も大勢いたという。
 労働を貶める劣化儒教では、芸能関係者は白丁と並ぶ最低ランクの身分の人とされていた。
 これらの芸能関係身分の在日朝鮮人や2世が芸能に親しんでいたために、自然に芸能界に入っていったと言う説である。
■「暴力団関与説
 一番高いのがこの暴力団関与説だ。
 かつて歌や踊りは、酒の席の余興であり、小劇場での寄席等の合間の芸、劇団の地方興行などの合間ものであった。
 これらを取り仕切っていたのは、地元のヤクザ、もしくはヤクザに近い組織の人々である。日本人の普通の良家の子女は、ヤクザが絡む見世物としての芸能界などに近づきたがらず、これらの芸能界に入るのは自然と、それなりの理由がある人か、恐れを知らぬ朝鮮民族であった。
 また、戦後すぐは対立していた朝鮮民族とヤクザは次第に同化していくなかで、ヤクザの世界に朝鮮人が多く入り込んでいったことも関係している、といわれる。
 世話をするヤクザのほうも朝鮮民族が多く、歌や踊りなど芸を見せる芸能人も朝鮮民族となると、次第に結びつきが強くなり、バックアップもしてくれるため、露出も多くなる。
 芸能は水商売の延長であり、ヤクザが多く絡む芸能関係は、日本人のなり手が少なく、自然と朝鮮民族が多くなっていったのである。しかし、ある人は「差別を避けるため」といい、ある人は「なりすましが得意だから」というが、芸能界朝鮮民族のほぼ全員が日本人として活動を続けていたのである。
 日本伝統の演劇、歌舞伎などの芸能からの芸能人と異なり、ただ歌を歌ったり、チョットしたダンスなどを行う芸能人は朝鮮系が多く占めるようになったといわれている。--以下省略--

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遊郭は神社の隣でなぜ繁盛した

 神様も おおらか日本 ありがたき

 先日、新宿バルト9で映画の後に、花園稲荷神社や雷電稲荷神社に出向いたPhoto_4
 稲荷神社は梅毒予防に御利益があるとして、岡場所の隣に建てられたものだ。
 ただ、花園稲荷神社は新宿二丁目に遊郭が移転する前からあったという。偶然なのか、意識的にその場所に遊郭を造ったのかは分からない。これらの神社は現在では、ビルの谷間で、唯一歴史を止めているような場所だ。
 新宿御園の入り口隣には「内藤新宿駐輪場」とあった。
 内藤新宿の文字は、ここしか見つけることが出来なかった。
 近くには追分交差点があるが、この辺りがかつて内藤新宿の中心で、明治 30年創業の末廣亭は内藤新宿の外れだったというから、イメージしにくい。
 どうしてもJR新宿駅を中心にして考えてしまうからだ。100421_134701
 
 ところで、なぜ「岡場所」が神社仏閣に隣接して発達したのか分からない。同じことを、司馬遼太郎も藤沢周平も悩んでいた。この二人が分からないのに、当方が分かる訳がないと諦めていた。それが今回は、少しだけ理解できる文章が見つかったので紹介したい。藤沢周平と枝川公一の合同著作「深川江戸散歩」を読んでいる。
 藤沢周平にしては珍しい随筆風の作品と思う。
 この48頁「夜ごとの明かり」の項に
 --以下抜粋--
  ところで岡場所ということですぐに気づくことは、深川に限らず、本所の弁天、回内院前、根津の山内、あるいは何々門前といったぐあいに、遊所が神社、仏閣のそばに、附属するもののように発違していることである。考えられる理由のひとつは、参詣人をあてこんで門前にひらかれた茶店が、自然発生的な経過をたどって、そこで働らく女たちを遊女とする、のちの水茶屋、料理茶屋に変化して行ったということであろう。--中601985略--元来日本の神々は、性をタブー視するキリスト教とは違い、陰陽の合一に五穀豊穣のイメージをかさねて見て来たわけで、岡揚所のにぎわいは神仏の心に障るところはひとつもないと言ってもいいだろう。--抜粋終わり--
 とある。
 山形県庄内地方鳥海山出羽三山の「はばき脱ぎ」の例を引き出している。残念ながら当方、「はばき脱ぎ」に関する知識は持ち合わせていない。ネット上では、「はばき脱ぎ」を紹介したブログは何点かあるが・・・・貴重な証言と思うので、下段に「夜ごとの明かり」の項の抜粋を紹介する。

■「芸者の起源・巫女」に遊郭が神社と密接な関係があることが記載されている。
 「芸者の歴史は、その流れを辿っていくと、白拍子あそびめ、さらには巫女にたどりつきます。」とある。
http://www.geishamatsuyama.jp/history2.html

「深川江戸散歩」夜ごとの明かり から抜粋
 町を縫う水路、物をはこび、人をはこぶ舟の行き来は、深川の暇々に水辺の暇といった一種独特の風情をつけ加えていたに違いない。春の草花が咲き茨の蔓がはう岸辺には、柳なども植えら
れたかも知れず、河岸の荷揚げ揚や、船宿の舟着き揚はしじゅうにぎわい、そのそばを時には燕が飛びすぎたろうし、また油堀の一直線の水路は、日暮れには江戸の町のむこうに落ちる日に赤々と染まったかも知れない。
 このようなむかしの深川についての想像は、たしかに創作意欲を刺戟するものだが、これだけでただちに心惹かれる小説世界がうかび上がって来るわけではない。この風景に、深川の岡揚所のにぎわいというものを加えて、はじめてこの土地を舞台にした物語が、具体的に見えて来るように思うことがしばしばある。もっとも岡揚所のにぎわいは、必ずしも物語の中心である必要はない。
 小説によっては、単に物語の背景でしかないという場合もあって、それはべつにめずらしいことではない。しかしその場合でも、背景に門前仲町を中心にする岡場所を特って来ることで、物語がにわかに生彩を帯びて来るのはたしかで、岡場所があるとないとでは大違いということになろう。
 深川には、著名な場所だけでも七ヵ所の岡場所かおり、それらはすべて富岡八幡宮前を中心に点在していた。
 ところで岡場所ということですぐに気づくことは、深川に限らず、本所の弁天、回内院前、根津の山内、あるいは何々門前といったぐあいに、遊所が神社、仏閣のそばに、附属するもののように発違していることである。
 考えられる理由のひとつは、参詣人をあてこんで門前にひらかれた茶店が、自然発生的な経過をたどって、そこで働らく女たちを遊女とする、のちの水茶屋、料理茶屋に変化して行ったということであろう。
 江東区史によると、八幡営別当の永代寺から、門前に町屋をつくって、そこから神社、寺院の経営費として、上地使用料を取り立てることの許可願いが幕府に提出されているようで、門前町ににぎわいをもたらす岡場所の発展には、神社、寺院の意向にも沿うものがあったようだ。
 元来日本の神々は、性をタブー視するキリスト教とは違い、陰陽の合一に五穀豊穣のイメージをかさねて見て来たわけで、岡揚所のにぎわいは神仏の心に障るところはひとつもないと言ってもいいだろう。
 うろおぼえの知識だが、そういう土地の岡場所化には、参詣への精進落としの連前がふくまれていた気配もあるようだ。私の郷里である山形県の荘内平野の村には、月山、鳥海山を霊山として、月山を上の御山、鳥海山を下の御山と呼び、毎年交代に村の代表が登山参拝して来る風習があった。下の御出である鳥海山の場合は、単独の登山になるが、上の御山の月山に登る場合は、二日がかりで湯殿山、月山、羽黒山を駆けて帰って来る。
 そして村では、この村代表の参詣人である数人の男たちが無事に帰って来ると、神社の長床に寄りあつまって、「はばき脱ぎ」の酒宴をひらくものであった。はばき脛巾で、のちの脚絆のことであり、そこで霊山参りの旅支度を解くという意味だったのだろう。こういう風習には、単に登山参拝の苦労をいたわるというだけでなく、精進潔斎して霊地を旅し、神と接触して来た者を人聞世界にもどす精進落としの意味もあったように思われる。
 この「はばき脱ぎ」は、神社の長床で酒を飲むといったつつましいものばかりとは限らず、しばしば料理屋に上がって芸者を呼ぶというような、かなり大がかりな酒宴になることもあったように記憶する。

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2010年4月26日 (月曜日)

御意見番面目躍如・和田アキ子

 チョン達も 子供手当ては 欲しいなり
 
 白丁(ペクチョン)は、差別語でないことを断っておく。最近の韓国ドラマ『テルン選手村』にも「白丁」という言葉が出てくる。Min01_2
 韓国民の約四分の一は「白丁」だったといわれ、ドラマにも登場することは自然なことだ。「白丁」が登場するドラマは、「林巨正」、「白丁の娘」、「茶母」、「張吉山」、「土地」は白丁が主人公で白丁の人生が題材らしい。朝鮮半島では、日常的用語なのだ。 
 
  和田アキ子 「アッコにおまかせ!」で和田アキ子が
 「こんなの記事になるのおかしい。」
   と的確なコメントをした。
 これは、在日コリアン代表として面目を保ったということか。

  「兵庫県尼崎市で、22日昼前に50歳代とみられる韓国人男性が、554人の子供と養子縁組し、実子の1人分と合わせて555人分、締めて年間8658万円分の子ども手当給付を申請していたことが分かった。市の照会を受けた厚生労働省はこれを却下し、市窓口も受理しなかったが、野党や識者が懸念してきた制度の不備を “予想通り”に突かれた格好。同様の大量虚偽申請は、今後も各地で起こる可能性がある。」
 と報道があった。
 
 この報道に対して、4月25日TBS系「アッコにおまかせ!」で和田アキ子が、
 「こんなの記事になるのおかしい。よほどニュースがなかったの」等と不快感を示し、「そんなことより、今政治がおもしろい。政治よくわからないんだけど」と半ば強引に、別の政治の話題に持って行こうとしたという。
 芸能界のご意見番として、もっともらしいコメントをする和田アキ子も、同じ在日コリアンの立場としては当然のコメントをしただけか。

 和田アキ子は、旧姓名は金福子、1950年生まれ
 済州島出身者の父と、朝鮮半島出身者の母を持つ在日韓国人2世の出身で、かつての本名は金福子、通名は金海福子である。
 芸能界デビュー時に、在日だとわかる名前をまずいと思った父親が、和田アキ子の叔父(叔父は当時既に帰化して「和田」姓だった)の養子にしてもらい、同時に名前も「現子」と改名して「和田現子」となった。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
 また、「ミナミの帝王」は、和田アキ子の叔父「和田忠浩」がモデルと言われる。

 それから、済州島出身の二世ということは両親は1948年4月3日に発生した済州島四・三事件の難を逃れるために日本に来たと推測される。
 この事件は韓国政府の「赤刈り」とも言われ、赤化した済州島民が大量虐殺されている。数年続いたという。
 この当時、この島から日本に密入国した島民は5~6万人とも言われている。
  そして大阪の鶴橋、東京の三河島にコミュニティーを作った。
 隠れ家だ。
 それから済州島は朝鮮の流刑地で、最下層の白丁が大量に住んでいた。

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日本創新党の「宏」は問題だ。

 ひろし達 スキャンダルも そろい踏み

 仮面政治家を糾弾する。
 先日「日本創新党」を立ち上げた「二人の」は、どうも支持できない。
 この世の中、男と女の世界、生きていれば多少のことはあるだろうが程度がある。
 金銭面だけでなく女性関係も清潔感が大切だ。
 当方は、ネット情報は信じる方だ。

 洋の東西にかかわらず政治家には、女性スキャンダルは多いが、自分の下半身問題をキチンと処理出来ないところに器量のなさを感じる。
 裁判沙汰は甲斐性なしの証明だ。
 政治家としての理念や、結党精神がいいだけではダメなのだ
 大衆に支持され、応援を受けるからには「情」が一番大切だ。

  新党立ち上げの二人の思惑は、
 「山田宏区長の真の狙いは、来年の都知事選」にあるという。今のままでは知名度が低いことから名前を売ることが目的。また、中田宏・元横浜市長は、国政復帰の欲があり今夏の参院議選で比例か神奈川選挙区で当選したいらしい。
 果たして、思惑通りに行くかどうか。

 スキャンダルのことだが
 まず、杉並区の山田宏党首は、自民党前衆議院議員・渡嘉敷直美と不倫問題があり、渡嘉敷が杉並区議会議員時代から続いているという。
情報源「阿修羅http://www.asyura2.com/10/senkyo83/msg/871.html

 また、元横浜市長の中田宏はもっと生々しい。
 横浜市長当時は疑惑だらけだったという。
 海外視察を突然キャンセルして、六本木のクラブで遊んでいたり、局部に指入れ合コン、公金横領疑惑などの醜聞の他、元愛人「奈々」嬢との約2年間の不倫騒動から3千万円の慰謝料請求する民事提訴。これにプラスして、在日朝鮮人や両親は統一教会の信者との噂もある。
情報源「中田宏の正体

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国民の不幸はまだまだ続く

 鳩ぽっぽ 支持率低下も 急降下 

 鳩山内閣 最新の内閣支持率(平成22年4月22日)
 平成22年4月22日調査フジテレビ新報道2001の首都圏電話調査が発表された。
  「参院選投票先?」の質問には自民党が民主党を逆転した。
 内閣支持率は24%不支持率は7割に迫る勢いだ。
 5月末の期限まで1ヶ月余の普天間基地移転問題は、にっちもさっちも行かない状況。いよいよ鳩山内閣の末路が見えて来た。
 参議院選直前の6月には、鳩山総理大臣と小沢幹事長のダブル辞任の奥の手はあるのか。それでも国民からの批判は拡大するだろう。

 四面楚歌の現状から常人なら逃げ出したい心境だろうと想像するが、この二人は常人ではない。ワシントン・ポストに「愚か」と書かれても「私は愚かな首相」と認める始末。国益の損失、政治不信は計り知れない。
 もし、日本の国益の損失をカネに換算したら何兆円になるか、考えたことはあるのだろうか。
 また、「命を守りたい」と繰り返していたが、具体的にどのように守ってくれるのだ。
 このような「愚かな指導者達」が率いる民主党を選んでしまった国民の不幸はまだまだ続く

■あなたは今年夏の参院選でどの党の候補に投票したいですか。
民主党 12.2%(↓) 
自民党 14.2%(↑)
公明党 3.0%(↓) 
共産党 2.2%(↓)
社民党 0.0%(↓)
国民新党 0.0%(-) 
新党日本 0.2%(↑)
改革クラブ 0.0%(-)
みんなの党 6.0%(↑)
たちあがれ日本 0.2%(↓)
無所属・その他 2.4%
棄権する 2.2%
(まだきめていない) 57.4%
■あなたは鳩山内閣を支持しますか。
支持する 24.2%
支持しない 67.8%

参院選投票先自民トップ 政権交代後初 民主急落12.2%』
 2010年4月26日(月)
 25日放送のフジテレビ系「新報道2001」の世論調査で「夏の参院選の投票先」について、民主党が政権交代後初めて自民党に追い抜かれた。民主党は1週間前に比べ5・2ポイント減の12・2%、自民党は0・2ポイント増の14・2%だった。
 普天間飛行場移設問題をめぐる鳩山政権の迷走に加え、高速道路の新料金制度での混乱などが要因になったとみられ、民主党が急速に支持を失っていることを裏付ける形となった。民主党は衆参の国政選挙の投票先調査で、昨年4月16日に自民党からトップの座を奪回して以降、首位を独走。昨年8月の衆院選直前には41・2%に支持を伸ばした。
 今年4月1日の調査で約1年ぶりに自民党に並ばれ、4月8日の調査で再び自民党をリードしていた。今回の水準まで下がったのは平成18年3月30日調査の11・8%以来となる。一方、内閣支持率は1週間前に比べ4・4ポイント下落し24・2%となり、政権発足後初めて20%台前半へ突入。「支持しない」は5・4ポイント増の67・8%だった。普天間問題が5月末までに決着しない場合、5割以上が「退陣すべきだ」と回答した。

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東京都内にも8か所ある米軍施設

 メディアは米軍基地に触れる機会が多いので、都内の米軍基地を整理しておく。
 米軍基地は日本国内に計134か所(平成21年現在)あり、そのうち東京都内にも8箇所あることは意外に知られていない。
 特に、「硫黄島(いおうじま)通信所」のことは、東京都小笠原村にあることから、縁遠く感じられている。
 基地問題は沖縄が多いだけに、よく取り上げられるが、都内の米軍基地にも関心を払う必要がある。間違えやすいのは港区麻布台2丁目の「東京アメリカンクラブ」だが、ここはアメリカ人の私的な場所で基地ではない。
 ロシア大使館に隣接していることが面白い。

横田飛行場(横田基地)(Yokota Air Base)
 旧日本陸軍多摩飛行場。在日米軍司令部や第5空軍司令部、OSI(特別捜査局)などが置かれる。国内最大級の米空軍基地3.350mの滑走路を持ち、主に輸送基地として使用されている。司令官は極東地区全域の司令官を兼務する。
  首都・東京都に置かれ日本占領の象徴的基地と言われ、日本の首根っこを押さえている基地なのだ。また、ベトナム戦争当時は米兵の慰安基地でもあったし、ベトナム戦争の米兵戦死者を立川基地や横田基地、王子野戦病院等に搬入して洗浄し本国に送還していた。これは、日本人の高収入アルバイトだったことで知られている。
 しかし、連邦司法省刑事局特別捜査部(Office of Special Investigation)通称「OSI」のことは殆ど知られていない。アメリカ国内の白人至上主義者グループ(KKK、ネオナチ、ミリシアなど)は、軍隊の中まで尾を引いてあるという。これは、唯一絶対の神が自分に似せて創った人間が白人で、他はサルや下等生物とする主義だ。
赤坂プレスセンター(Akasaka Press Center) 港区六本木7丁目23 
 旧日本陸軍駐屯地だった。都立青山公園に隣接している。都心の麻布六本木に今なお米軍基地があることはあまり知られていない。現在は、ヘリポート、星条旗新聞社、独身将校宿舎、ガレージとして使用。近く約4,700平方メートル返還の見通し。    
府中通信施設(Fuchu Communication Station)
 旧日本陸軍燃料廠だった。順次返還され、現在は107mの通信鉄塔と施設1棟のみがある。横田飛行場、大和田通信所、上瀬谷通信施設(神奈川県)との中継通信基地となっている。
多摩サービス補助施設 (Tama Service Annex)  
 旧日本陸軍多摩火工製造所だった。接収当時は弾薬庫として使用していたが、現在は、ゴルフ場、キャンプ場、野外スポーツ等のレクリエーション施設となっている。
大和田通信所(Owada Communication Site)
 旧日本海軍気象通信所だった。清瀬市と埼玉県新座市にまたがる受信通信施設で、基地内にはパラボラアンテナ、LPアンテナなどのアンテナが立ち並ぶ。
由木通信所(Yugi Communication Site) 八王子市別所の長池公園に隣接。 
 横田基地関連の通信施設として米軍に提供され、極超短波(UHF帯)通信中継施設として使用され、通信鉄塔のみが置かれている。重要な情報が集められている。
硫黄島通信所(Iwo Jima Communication Site)東京都小笠原村硫黄島
  昭和43年、小笠原諸島の日本復帰後も引き続き米軍が使用。現在は、海上自衛隊の揚陸場や滑走路を共同使用している。
ニューサンノー米軍センター(New Sanno U.S.Forces Center)
 港区南麻布 4-12-20  山王ホテル士官宿舎の代替施設として、昭和58年に米軍に提供され、会議及び宿泊施設として使用され、また日米合同委員会が開催される。

Photo

 施設名 所在地 用    途 管理部隊
横田飛行場 立川市、昭島市、福生市、武蔵村山市、羽村市、瑞穂町 飛行場(滑走路(3,350m×60m)、住宅、学校、事務所等 米空軍第374空輸航空団
赤坂プレスセンター 港区 事務所(星条旗新聞社、宿舎、ヘリポート等) 米陸軍基地管理本部
府中通信施設 府中市 通信(事務所、通信施設) 米空軍第374空輸航空団
多摩サービス補助施設 多摩市、稲城市 レクリエーション施設(ゴルフ場、キャンプ場等) 米空軍第374空輸航空団
大和田通信所 清瀬市(新座市) 通信(通信施設) 米空軍第374空輸航空団
由木通信所 八王子市 通信(無線中継所) 米空軍第374空輸航空団
ニューサンノー米軍センター 港区 その他(会議宿泊施設等) 米海軍横須賀基地司令部
硫黄島通信所 小笠原村 通信(訓練施設) 米海軍厚木航空施設隊
合 計 16,030,740㎡(約1,603ヘクタール)

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2010年4月25日 (日曜日)

米軍・女性兵士用「慰安夫」

 ここまでも 男女平等 求めたり41pqbjrai1l__ss500_
  戦後、進駐軍のために「米軍兵士用慰安婦」がいたことは衆知の事実だが、米軍の「女性兵士用慰安夫」がいたことはあまり知られていない。
  「戦後の日本を知っていますか?」
 ―占領軍の日本支配と教化― 百瀬孝(監修) を読んでいる。
 この中で、興味深い記述があったので紹介したい。
  それは、「女性兵士用慰安夫」のこともあるが、
 「特殊慰安施設協会」RAAは、日本女性を米軍から守るため「性の防波堤」として、近衛文麿が発案し、時の警視総監が設置を指示したという内容だ。
 古来、軍隊には占領先の女性を強姦することは常識としてあった。
 現在の日本でも、米軍将兵による強姦事件は後を絶たない。
 特に沖縄県では1972年の本土復帰以降、明るみに出ているだけで120件以上。
 今なお基地問題で揺れる沖縄では、住民との間に深刻な影を落としている。
 「戦後の日本を知っていますか?」には、
 「東京では警視庁保安課が、東京飲食組合、芸者屋組合、貸座敷連合会、慰安所組合などの代表を集め、協力を依頼しています。こうして、占領軍上陸直前の8月0000000000013526日に、「特殊慰安施設協会」(Recreation and Amusement Association=RAA)が設立されました。」とある。早く設置されたところで有名な場所は、大森海岸駅前の老舗料理屋「小町園」、横浜山下町の「互楽荘」、立川の「キャバレー富士」あたりが知られる。
 RAAとは「リクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション (レクリエーションとお楽しみ協会)」のこと。
 別の記録では、
 昭和20年8月28日「殊慰安施設協会設立宣言式」が行われ、そこで読上げられた設立趣意書には、
 「畏くも聖断を拝し、茲に連合軍の進駐を見るに至りました。一億の純血を護り以て国体護持の大精神に則り、先に当局の命令をうけ、東京料理飲食業組合、東京待合業組合連合会、東京接客業組合連合会、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京慰安所連合会、東京遊技場組合連盟の所属組合員を以て特殊慰安施設協会を構成致し、関東地区駐屯部隊将士の慰安施設を完備するため計画を進めて参りました。本協会を通じて彼我両国民の意志の疎通を図り、併せて国民外交の円滑なる発展に寄与致しますと共に平和建設の一助となれば協会の本懐とするところであります。」
 とある。
 米軍上陸を待ち受ける、当時の意気込みと覚悟のほどを彷彿させる内容だ。
 「進駐軍様、あなたに全てを捧げます」と受け取ることも出来る。
 これも、この日本で65年前にあった実話だ。
 何も当時の女性や国民だけを責めることは出来ない。

 今も米軍基地周辺では、「ブラさがり」する日本女性を目にするからだ。
 この場合、ブラックにぶら下がるから「ブラ下がり」という。
 それに、男達もアメリカに武器を放棄され、手足足枷されて戦う気力を奪われた。
 つまり金抜き」、或いは「カマ掘り」された状態のままなのだ。
 この後遺症は、今も続いている
 石原都知事が嘆くのも理解できる
 そして今も、日本国家自体がアメリカ様に「ぶら下がり」した状態が続いているのかも知れません。

戦後の日本を知っていますか?―占領軍の日本支配と教化』
百瀬孝監修1938年生まれ。1962年、東京大学教育学部卒。元、仙台大学体育学部教授、昭和研究グループ著

国家売春だった「性の防波堤
 戦後しばらく、私娼の売春婦を「パンパン」といっていました。
 パンパンの語源ははっきりしませんが、やってきた米兵が夜、雨戸を パンパンとたたいたからとか、南方のどこかの言葉だとか、女が米兵に「パンをちょうだい」といったことからなどの説があります。
 外人相手は「洋パン」、進駐軍将校に囲われたのは「オンリー」といっていましたが、パンパンは、日本人相手の街娼もすべて含んだ呼称、ないしは蔑称として、昭和三〇年前後まで使われていました。
 朝鮮戦争で日本経済が立ち直るまで、正確な数字はつかめないものの、この産業が外貨獲得のトップだっただろうといわれています。
 そのトップだったという戦後の売春は、昭和20年8月21日、近衛文麿国務大臣の発案により閣議決定された、「国家売春」という信じられないようなものからスタートしています。
 近衛はこれ以前に、占領軍が来ると、大陸で日本軍が行ったような兵による暴行事件が起こるといい、その「性の防波堤」を作ることを警視総監に提言します。
 これを受け、内務省警保局は全国の知事に「性的慰安施設」などの設置をひそかに指示。営業に必要な女子は、芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯などを優先的にこれに充足せよ、としました。東京では警視庁保安課が、東京飲食組合、芸者屋組合、貸座敷連合会、慰安所組合などの代表を集め、協力を依頼しています。
 こうして、占領軍上陸直前の8月26日に、「特殊慰安施設協会」(Recreation and Amusement Association=RAA)が設立されました。
 本職の女性だけでは足りないので、銀座にこんな看板が立ちます。
新日本女性に告ぐ!戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集、年齢18歳以上25歳まで。宿舎・被服・食糧全部当方支給
 新聞にも募集広告が出されています。
 「急告-特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス 東京都京橋区銀座7-1特殊慰安施設協会
 当初、1000人を予定していたところ、朝から長蛇の列ができ、4000人が応募してきて、係員が逆に憤慨したといいますが、募集しておいてそれはないだろう、という気がします。
 当時、1000万人餓死説が出ていたころで、家もなく衣服もなく食糧もない若い女性にとって「衣、食、住、当方支給」は、光り輝いて見えたでしょう。とても責められません(ちなみに、21年1月28日にはじめての私娼一斉取締りが行われており、二児の母の戦争未亡人、元外務省のタイピストなど、逮捕された18人のすべてが素人だったことが世間を驚かせました。プロは巧みに逃げたそうです)。
 東京だけで、大森鈴ケ森の料亭、ダンスホールなど25ヵ所で開所されています。土足のまま室内に入ったり、突飛な時間に来て応じないと暴れ出す兵などがいて、「通訳や従業員の面々怪我を負う者日毎夜毎その数を知らず」という有様だったようです。料金はかなり高く、一般兵士では始終利用するわけにはいかなかったようです。日本の業者はさぞや大儲けだったでしょう。このRAAは、翌21年3月で終わりを告げ、「従業員」の一部は街娼や娼妓に転身しました。米兵は自己調逮しなければならないことになります。
 これ以前からあった江戸時代から続く日本の伝統的な公娼制度は、マッカーサーの意向で廃止されることが求められており、RAAだけ続けるわけにはいきませんでした。
 RAAには最盛時、全国で7万人、三月閉鎖時でも5万5000人の「特別挺身隊員」という、ふざけた名前で呼ばれた女性たちがいました。
 昭和21年1月、GHQは「日本の公娼制度はデモクラシーの理想に違背するから、日本政府は直ちに従来公娼を許容した一切の法律および命令を廃棄して、その諸法律の下に売春を業務に契約した一切を放棄せしめよ」と指令します。
 これが1月15日で、その三日前、GHQの指令を察知していた警視庁は、公娼地域をそのままにして私娼地域として営業させ、貸座敷業者は接待所、娼妓を接待婦と呼びかえろ、という通達を事前に出しています。「かたちだけ作って、マッカーサー指令を換骨奪胎してしまいましょう」という、警察と公娼業者の連携プレーです。公娼は私娼になっても、借金や公休など、待遇はまったく変わりませんでした。さすがに戦前から警察と「密接な関係」を保っていた業界のやることですから、ぬかりありません。
 GHQは、指令違反業者を軍事裁判にかけたりして、日本の警察にかわり取り締まりますが、たいした刑・罰金ではなく効果はありませんでした。
 結局、日本で売春を禁じる「売春防止法」ができたのは昭和33年のことで、このときも業者は政治家などに金をばらまき、「売春汚職」と呼ばれる事件を引き起こしています。GHQもあざむいたくらいですから、最後までしぶとい連中です。管理売春はよほどうまみがあるとみえ、なんとしてもその法案成立を阻止したかったのです。
 ところで、RAAは大っぴらに募集されたのでよく知られていますが、 女性兵士用に「男慰安夫」として採用された若い日本人男性がいたことは、あまり知られていません。
 この慰安夫に採用された人が語っています
 昭和21年、この人の場合は名古屋に進駐した女兵用で、厳重な体格検査に合格。
 とにかく、心臓、胃袋、眼、皮膚、筋肉、血液、尿などが検査され、性病、痔の有無まで調べられたといいます。
 松坂屋の近くに焼け残った木造アパートがあり、体格検査に合格した数人の若者に一人一室与えられます。
 最初の客は、なんと試験官の伍長で、彼女は最初からその人のことを気に入って採用したのです。
 「乳房は二個の飯ごうのようで、故郷の牛を思わせる腰だった」といいます。
 勤めはさすがに一日おきで、日給三ドル。その他、肉、バター、チーズなど、体力回復のためいくらでもくれました
  一般国民が芋も満足に食べられないときですから、それはありかたかったでしょうが、とにかく体力的にきつかったそうです。
 結局、この人は丸半年間、その女伍長にやむない軍務のあるとき以外は買い占められ、その伍長は本国帰還の日、とめどなく涙を流したそうです。
 RAAから30年後、ジャーナリスト・大島幸夫が、近衛の指示を受け、RAAを実行した元警視総監・坂信弥にインタビューしています(『原色の戦後史』講談社文庫)。「いまさら、そんなことをなんで聞くんかね。次元が低い問題だよ。(中略)近衛は支那事変で日本兵が支那の女たちにやったことに覚えがあるから、ヤマトナデシコを救おうという気持ちで、彼ならやってくれると、総理官邸に私を呼んで頼んだんだ。(中略)あれ(RAA)は国の運命を左右する問題でなしに、アワツブみたいな問題に過ぎん。
 応募した女性をイケニエのように言う人がいるが、そんなのは火事場の野次馬議論であって、観念論だよ。他にどんな方法があったか、というんだ。あれはあれで日本女性の貞操の危機を救ったんだよ」大島は、こう書いています。
 「国策を語って、その国策に引きずり回された人間たちのことに語り及ばない。国策の効果を一人よがりにたたえて、人間の痛みに思い至らない」と。

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基地の街「立川市」の秘話 Ⅲ

 フロムカム 今も昔も 楽しませ

 JR立川駅北口の一級地にある「フロム中武」は、平成20年11月、「立川屋台村パラダイス」をオープンさせた。
 この屋台は、若者にも「レトロ感覚がいい」と人気があるという。

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 立川市は 昭和52年(1977年)に立川基地が帰還されるまで「基地の町」と言えば聞こえはいいが、実際はアメリカの占領下にあったような街だ。
 現在では、基地跡地や立川駅周辺は近代的に開発が進み、返還前の面影を見つけることは難しい。
 このような中、市民の中には戦後の混乱期から昭和30年代の「立川らしさ」を懐かしむ声が上がり、これを聞いたフロム中武は近くに「立川屋台村パラダイス」を開店させた。
 この屋台村は、立川市教育振興会理事長・中野隆右氏が経営に携わっているが、かつての「立川パラダイス」は米軍相手のキャバレーで、中野家の養子・中野喜介氏が経営していた店だ。
 このパラダイスは「特殊慰安施設協会」指定の店だった。Tachikawa_2
  簡単に言えば、米兵向けのパンスケ(売春婦)がいる慰安所だ。
 ようするに、「立川屋台村パラダイス」は、養子に入った中野喜介(朝鮮名・孫應)氏が経営していた「立川パラダイス」を懐かしんで付けた名称だ。

 中野隆右氏は著書、「立川」(昭和20年から30年代)の中で、
 「中野喜介氏は別名・川辺応棟、本姓は、孫。名は應棟。
 出身地は忠息清南道。父の名は、孫海成、母の名は雀達山。つまりは生粋の朝鮮籍の孫應であり、立川にやってきたのは成人してのちのことで、喜介氏が妻(朝鮮籍)とともに養子として中野家の養子となったのは、敗戦から4年後の昭和24年1月のことだ。立川パラダイスが開業した旧陸軍獣医資材廠の土地は、砂川の大地主であった中野家の地所であった。中野家と川辺応棟(中野喜介)氏とは、以前より親しく往来があり、のちに川辺氏は中野家と養子縁組を結び、喜介を名乗ることになる。」
 と暴露している。
 ここでは、「まえがき」と「駅前に広がる闇市」を紹介する。

『立川(昭和20年から30年代)中野隆右著
 まえがき
 私は、戦後立川の激動の中に生きた異色の男・中野喜介の軌跡を追ってみたい。
 1905年、日本統治時代の朝鮮・忠清南道に生まれ、来日して工業学校に学び、その後立川市で生計を立てた。立川が、TACHIKAWAとしてアメリカ軍基地であった一時期、中野喜介には夜の市長の異名があった。
 書かれることない「影」の部分に生きた67歳の生涯だった。
 昭和20年8月15日の終戦により、大正時代以来、陸軍航空の要として知られた軍都・立川の機能は停止した。一転してアメリカ軍の進駐を迎えた立川のその後は、混乱をきわめた。
 終戦の処理に追われる日本政府は、地方都市にまでは手が回らない。地方都市の行政は、もはや地元の市民が担う以外に術はなかったのである。
 そんな中、立川市民はいかにして自分たちの町を守り、発展させていくかを考え、自主的に行動して新しい立川の街を作り上げた。そしてバイタリティー溢れる市民の典型として、立川市の再建の中心を担った中野喜介氏の昭和20年から30年代の活動をみることにした。
 昭和20年から30年代は、立川市の編纂した資料も少なく、また市民もあまり話題にしない時代である。一般の評論では、立川は悪の巣窟のように書かれている。そしてしばしば中野喜介氏はその頂点にいる人物として紹介されることが多い。だが、私は彼らが活躍した時代こそが本当の立川の生き生きとした時代であると思っている。
 駅前に広がる闇市
 「軍隊から復員して立川に帰ってみたら、、駅前は闇市でした。」
 敗戦の年の立川の町の光景をこう語るのは、明治30年代から北口駅前の通りで、呉服商を営んできた丸屋呉服店の3代目の当主伊藤平八郎氏だ。昭和20年8月、岐阜県各務原の航空廠で敗戦を迎え、敗戦に伴う残務処理に時間を費やしたため。帰郷できたときはすでに12月になっていた。
 見慣れた駅前通りには、大戦末期の建物疎開にかかった我が家はすでになく、かつて店があったあたりには闇市が広がっていた。目の前に広がる闇市、戦時色が濃くなって以来、日増しに強化されていた統制経済に風穴を開けたこの闇市には、ここ数年影を潜めていたはずのアウトローたちが、新たな主役として大手を振って闊歩していた。
 いや、彼らこそが、このにわかに出現した市場の統率者である。加えて闇市を包み込むように周囲に広がる立川駅の町並みには、軍隊帰りの伊藤氏には、見慣れない種類の店も目についた。それは進駐してきたアメリカ軍関係者を相手にする土産物店だった。
 大正時代には、陸軍の飛行場が進出してきて以来、「軍都」として発展してきた立川は、今度はアメリカ軍の進駐で、「アメリカ軍基地の街・、立川」へと姿を変えていた。そして、「基地の街に出現したこの見慣れない商売が、皮肉なことに、旧日本軍の航空基地から復員したばかりの伊藤氏にとり、しばらくの間、生活の手段をうる手だてとなるのだった。
 「駅前のこのあたりも進駐軍相手の土産物屋でいっぱいでした。私なども農家に行っては、羽子板やお雛様を買い集めてきて、それをアメリカ兵に売りました」
 呉服商と言っても、なにしろ当時の東京は焼け野原。東京近郊の街立川も、市の中心部での空襲の被害こそ比較的軽微だったものの、経済は崩壊し、市民の生活は混乱の極にあった。
 とても呉服どころではないという世相だった。
 自然、ビジネスの対象は新たに現れた権力者集団であるアメリカ軍関係者に映る。彼らは当時の日本人から見れば、上は司令官から下は一兵卒、軍属に至るまで治外法権の存在であり、また日本人より「お金持ち」だったのだ。
 やがてこうしたアメリカ軍関係者との接触は、伊藤氏にも一つのビジネスももたらすようになる。アメリカ軍基地から出る商品を扱うヤミ商売である。
 「日本人には入れない基地の中からアメリカの軍人が持ってくる、シュガーやラッキーストライクを手に入れて売ったものです」
ただ、この少々ワイルド商売にはそれ相応のリスクもあった。
 「シュガーだといて、持ってきたものが実は塩だったり、それはだまされたこともありましたよ。でも、生活しなければならないからやめるわけにはいかない。私くらいの年配の人は、そのころはみんなヤミ屋をやっていたんですよ」
 ところで物事と言うのは何でもそうだが、続けるうちに徐々にエスカレートしてくるものだ。もともと法の網をかいくぐるこの商売、だんだん大胆なことが当たり前に行われるようになる。
 「アメリカの軍人は最終基地内の購買で買ったものを持ってきていたようです。でも、しまいには、倉庫から持ち出してくるようになりました。だから持ってくる時には、手で提げてくるのじゃなく、それこそトラックやジープでドカンと持ってくるようになったんですよ」
 こうして、「基地の街立川」は、物のない当時の日本で、アメリカでの闇物資が手に入る街として知られるようになった。
 「当時の立川、アメリカ軍基地の町として全国的に有名でした。
 物も情報も、アメリカから入ってくるのだから、他の街より何でも早かった。コカコーラ、ラッキーストライク、オイルライター……奴らアメリカの軍人に頼めば何でもございだった」
 アメリカ軍基地内のバーで、バーテンダーの仕事を覚え、立川で半世紀にわたる営業を続けるバー「潮」のマスター、白根宗一・通称ジミー氏も、アメリカ軍から出る闇商品について、こう振り返る。
 「たばこ、お酒は、やっぱり闇屋さんでしたね。闇屋さんが暗躍して、あちこちからくすねてはどんどん持ってきてね。これには当時こういう洋酒はまだ、完全に純然たる形で出回っていなかったということもあります。立川にいる人は、こういう闇の商品が手に入るから、ちょっと地方へ行くのに、お土産に舶来品を持っていくとすごくと喜ばれてね。外国タバコなんかでも、こんなものはめったに据えないって、何しろお砂糖だってなかった時代に、チョコレートがあったんだから」
 闇市ではもっと高級な商品を手に入れることができた。
 「それから時計とか。貴重品だったもの。
 あのころは、南京虫なんていうのがありましたね。
 あの当時、パンスケと言えば、みんな南京虫をやっていたものね。
 こんな小さな時計でしたが。
 またあれがなんとも言えない。
 パンスケがそういうものをねだるわけですよ。
 今じゃオメガだ、ローレックスだ、男はグローバーだなんて言うけれども、あんなメーカーのものはそもそも市中に出回っていませんでした。一般の店にそういう時計なんかが入ってきて、商品として身につけるようになるのは、ようやく昭和26、7年のころでしょう。
 ところが立川では、基地の街という特殊な事情で、出回っていた。」
 パンスケとは、アメリカ兵を相手に売春を生業とする女性のことである。
 当時、「基地の街・立川」にはパンスケがあふれていた。
 アメリカ軍人は、物資の供給者であるとともに、日本人にとっての有力な顧客としても定着していたのである。
 ただし彼が買う商品は、物とは限らなかったと言うわけなのだが。
 こうして新たに「基地の街、立川」」が出発した。
 いったん3万5000人近くにまで激減した人口は、基地の存在から再び増加に転じ、戦後10年の間に、元の6万人を上回る回復を遂げることになるが、それはまだのちの話だ。

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2010年4月24日 (土曜日)

基地の街「立川市」の秘話Ⅱ

 昨日は、隣町・立川市のお歴々と会合があったが、立川市の戦後の話に花が咲いた。中に70歳代の方もいて、立川が空襲を受けた際に、B29が撃墜された様子の目撃談があった。
Photo_2
 まもなく終戦を迎える頃で、B29が撃墜され国立方面に墜落したという。
 目撃した当時は小学校低学年だった。
 搭乗員は二人の米兵が捕虜になったが、一人は現在の立川市立第三小学校の校庭で、市民から竹の棒で殴打され死亡した。
 その米軍人の遺体は、立川市羽衣町2丁目の「正楽院墓地」に埋めたが、米軍が立川に進駐するといち早く掘り起こされ本国に帰還した。
 この話をした方は、「米軍は事前に何らかの情報を持っていたと思う」と言うが、それは当然と思う。
 米国は日本のように戦死者を、南方の島々に置いてきぼりにはしない国だ。

 ただ、この話は以前どこかで聞いたような記憶があり調べてみると、「東京立川憲兵隊事件」(GHQ資料163号再審記録217号)という記録があった。
 ほぼこの方の記憶と合致していた。
 今度会った際は、この記録を伝えたいと思う。
 立川市民は、このような事件もあり、米軍が進駐すると伝えられたときは戦々恐々としていたという。
  『立川市史』では、その日の街の様子を次のように記している。
 昭和20年8月15日、聖断が下りてわが国はポツダム宣言を受諾し、帝国陸海空軍部隊は連合国軍に無条件降服をした。
 時を移さず連合国軍はハーシー提督のアメリカ海軍第三艦隊が相模湾へ、8月28日に陸軍部隊を厚木飛行場へ進駐させ、同月30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木に着いた。
 越えて9月3日から4日にかけて、米軍進駐部隊はジープやトラック等に分乗して立川市内に進駐して来たのである。
 米軍は八王子方面より日野橋を渡って、立川市内に入り、柴崎町の旧市役所前を通過し、立川基地に入った。一部は日野橋から立川温泉前を通り、東京府立第二中学校(現都立立川高等学校)に入り、そこに宿泊をした。
 この武装した長い輸送部隊を立川の市民はただ黙って見送っていた。Image0010_2
 部隊の進軍中その列の前を横切った者は射殺されるかも知れないからである。又当時市中の婦女子は、身の安全を守るために田舎へ逃げる方がよいというような流言があり、実際立川から近郊へ避難した者も多数あった。
 当時の三浦立川市長は、市民に対して、外出は極力さけるようにと警告を発していた。アメリカ軍司令部兼宿舎としては、一先ず府立二中の校舎が使われ、将校宿舎としては楽水荘や、料亭業平があてられ、一般軍人は曙町の都立立川短期大学校舎(旧陸軍特攻隊宿舎)を兵舎として使用した。
(『立川市史』下巻、「大正・昭和時代の立川」第四節 敗戦と連合国軍の進駐から)

東京立川憲兵隊事件』(GHQ資料163号再審記録217号)
 1945年8月8日の東京の中島航空機武蔵製作所空襲時、1機のB29が北多摩郡谷保村(現・国立市)に墜落し、搭乗員12人のうち10人は墜落死、2人が捕虜になった。
 彼らは立川憲兵分隊へ連行され、このうち1人は翌日の夕刻に東京憲兵隊司令部へ送られたが、もう1人のSerafine MORONE軍曹は、翌日の午後、立川憲兵分隊長の矢島七三郎少佐の指示で近くの錦国民学校(現・立川市立第三小学校)、立川市錦町3-4-1)の校庭に晒され、800人の市民から2時間にわたって竹の棒で殴打され、重態に陥った。
 彼はその後、憲兵隊員によって近くの正楽院墓地へ連行され、首切り役を買って出た立川陸軍航空廠の将校によって斬首され、その場に埋められた。矢島七三郎少佐らは終戦後すぐ遺体を掘り返して焼却し、病院の医師に「墜落死」との死亡証明書を書かせるなど、証拠隠滅をはかったが、匿名の投書などにより、事件は米軍の知るところとなった。
 戦犯裁判の結果は、立川憲兵分隊長の矢島七三郎少佐は無期懲役、補佐役の関昇憲兵准尉は懲役20年となったが、処刑実行者の立川陸軍航空廠の将校の身元は判明しなかった。

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基地の街「立川市」の秘話Ⅰ

 昨日は立川市内のお歴々と一献傾ける機会があった。
 当方も昭和40年代から米軍基地に出入りしていたことや、最近も5~6年間、同市内で仕事をしていたこともあり、市内関係者とは知り合いが多い。
 会話の中で面白い話が幾つかあったが、一番興味深かったことを紹介したい。1226561378_photo

 立川駅北口にある「フロム中武」は平成20年11月、「立川屋台村パラダイス」をオープンしたが、「昔懐かしい」と人気があるという。
 立川市は、 昭和52年(1977年)に米軍立川基地が帰還されるまで「基地の町」としてアメリカの占領下にあったような街だ。

 現在では、立川駅周辺を中心に開発が進み、返還前の面影を見つけることは難しい。このような中、市民には戦後の混乱期から昭和30年代の「立川らしさ」を懐かしむ声があり、「立川屋台村パラダイス」が開店したという。Photo
 この屋台村は、立川市教育振興会理事長・中野隆右氏(右写真)が経営に携わっているが、かつての「パラダイス」は米軍相手のキャバレーで、中野家の養子・中野喜介氏が経営していた店だという。戦後の立川の街で、どのような内容の店だったかは説明の必要はないはずだ。最盛期は5千人を超える女性が夜・昼関係なく街をたむろしていたという。
 そして、「立川屋台村パラダイス」は、養子に入った中野介(川辺応棟)氏が経営していた「パラダイス」を懐古して付けたらしい。

 中野隆右氏は著書「立川」(昭和20年から30年代)の中で、
 「中野喜介氏は別名・川辺応棟、本姓は、孫。名は應棟。出身地は忠息清南道。父の名は、孫海成、母の名は雀達山。つまりは生粋の朝鮮籍の孫應であり、立川にやってきたのは成人してのちのことで、喜介氏が妻(朝鮮籍)とともに養子として中野家の養子となったのは、敗戦から4年後の昭和24年1月のことだ。立川パラダイスが開業した旧陸軍K01獣医資材廠の土地は、砂川の大地主であった中野家の地所であった。中野家と川辺応棟(中野喜介)氏とは、以前より親しく往来があり、のちに川辺氏は中野家と養子縁組を結び、喜介を名乗ることになる。」
 と暴露している。
 中野喜介氏は、昭和28年に設立された立川商工会議所の設立発起人代表・初代会頭であり、また、立川ロータリークラブ初代会長でもある。

 関係者から、「立川」(昭和20年から30年代)を拝借したので、徐々に面白い内容を紹介したい。次の抜粋は「第五節 夜の市長」から。
 「立川屋台村パラダイス」を利用する際は、このような予備知識があると本当Tachikawaの意味のパラダイス気分に浸ることが出来るかも知れない。
 なお、文中に「錦町」とある場所は「シネマ通り」、「羽衣町」とある場所は、トヨタドライビングスクールに向かう路地、立川相互病院の裏手にあった。
 戦後から近年にかけての立川市の実話だ。
 米軍基地のある街は、大なり小なり、このような話は実在する。
 参考まで記載しておくが、
 米兵は兵士としての前線勤務が6か月を越すと、死傷者が急激に増えてしまうという研究から、「実戦に役立たないばかりでなく、後輩兵士の士気を挫く」とし、交代制度を導入した。この制度は、5 日間の休暇制度はLittle R、ローテーション制度はBig R と呼ばれていた。ベトナム戦争当時の米兵の休暇先として、タイ、韓国、フィリピン、南ベトナムなどがあったが、一番人気は日本の沖縄、立川、横田基地などだったという。
 これが日本女性の売春、米兵による買春が多くなった背景とされる。
 そして、これを逆手に金儲けした、日本人、朝鮮人達も多くいたのも事実だ。 

戦後立川・中野喜介の軌跡』中野隆右著
第五節 夜の市長
 次に第2のケース、N氏が設立したキャバレー「パラダイス」だが、これについては同書に、次のような注が付されている。
 「N氏は今も市政の黒幕的存在といわれる人であり、当時一般の婦女子に対する米軍の暴行事件が頻発していたので、N氏が運動して、その対策として米軍から許可を得てこのキャバレーを作った」
 このN氏、本名を中野喜介という。
 昭和28年に設立された立川商工会議所の設立発起人代表・初代会頭であり、同書の刊行当時、会頭職にあった人物である。中野氏に関しては、当時発行されていた雑誌『真相』(昭和30年7月1日号)に掲載された『基地タチカワを食う夜の市長』に、次のような記述がある。
 この「夜の王者」とは誰か。
 話は少しさかのぼって、敗戦-米軍進駐-占領の不安と混乱のさ中のことである。
 警視総監の指揮下に「GIさんたちに日本で愉快に過していただくのを義務として」東京都内各所に公認の大規模なインタナショナル・パレス(慰安所)が設立されたとき、立川市でも旧陸軍の獣医資材廠の将校宿舎がアッという間に改装されて、パラダイスの看板がかかった。
 建物の中には、各地からかり集められた玄人、素人の女たちが数十名、そしてその年の8月末、米軍が甲州街道から立川に進駐してくると、このパラダイスは俄然活動を開始した。
 東京都民が飢えに迫られて焼け跡をさまよっているとき、ここばかりは明けても暮れても脂粉と橋声の巷である。
 その中で身ぎれいな背広で丁重にGIたちを送迎しているのは川辺応棟という40がらみの男だった。
 このパラダイスの経営者である。
 当時の日本娘の肉体は、ショートタイムが50円、これが経営者と女で折半される。女たちがあくことのないGIたちの欲望のもとに、若い肉体をすりへらしてゆくのと反比例して、川辺のフトコロはみるみる肥えていった。そしてその金と、同時にこの稼業を通じて結びついた米軍とのつながりは、権力におびえる立川市内での、この男の地位までも次第に押し上げていった。
 元来、この男は戦争中、一介の自動車運転手としてこの町に流れ込んできた。もっともそのころは名もない存在であった。
 それがどのようにして、この半官的パラダイスの経営者となりおうせたのか。そのいきさつは、いまのところはっきりしないが、とにかく敗戦による国民の不幸は、この男に最大のチャンスを与えたのである。
 「真相」は当時の革新陣営に近い雑誌であり、地元で金と権力を手中にする中野喜介氏(文中・川辺応棟)に関する描写は辛辣を極めるが、続きを見ていこう。
 パラダイスは翌年5月、「紳士国」の体面を重んじるマッカーサー司令部の「公娼」 廃止の精神によって全国一斉に閉鎖され、女たちは街に分散させられた。川辺も、立川におけるパンパン生みの親の功績Pを担って市中に出た。
 その後のコースは、いまさら説明するまでもあるまい。
 か弱い女性の血をしぼる味を覚えた者は、みずからそのすばらしい餌物を捨てるものではない。
 『彼女たちを通じて立川市中に落ちる金は最小限1カ月3千万円、年間3億6千万円で、実際は5億近いといわれる』(読売)この立川市における巨大な財源の大元締となった川辺は、たちまちこの街の最大の顔役にのし上がった。市民はこのころから彼を「夜の市長」と呼ぶようになった。
 また、このときから10年を経た昭和30年に『週刊朝日』誌上に掲載された『日本拝立川基地の街』(4月17日号)という記事の中で、作家の伊藤整は、パラダイス開設の経緯を次のように記している。
 中野喜介氏自身の話によると、昭和20年の10月、日本女性に対する外人の性不安を解消するために、立川の東北郊外の旧陸軍将校宿舎を借りて、全国から370名の女を集め、大蔵省に話をつけて、生ビール3百箱、ビン詰3百箱、一級ウイスキー60箱という巨大な配給を得て、愛国的大事業「立川パラダイス」を始めた、というのである。
 立川パラダイスが開業した旧陸軍獣医資材廠の土地は、砂川の大地主であった中野家の地所であった。中野家と川辺応棟(中野喜介)氏とは、以前より親しく往来があり、のちに川辺氏は中野家と養子縁組を結び、喜介を名乗ることになる。
 さてパラダイスだが、白根宗一氏は、次のように伝え聞いているという。
 「白人は錦町、黒人は羽衣町だが、じゃあ上級の人たちはどうするんだということになった時に、喜介さんが、(中野家の当主の)中野田郎吉さんの土地へ立川パラダイスというのを作ったわけです。そこはいわゆる将校とか、高級民間人とかが利用した」、『真相』の記事に翌年5月に閉鎖されたとあるように、営業していた期間は長いものではなかった。
 最後に、『都市と村落の社会学的研究』が第3のケースとして挙げているのが、全国に40の支部をもつRAAの立川支部として、同年11月に設けられたキャバレー「サクラ」だが、RAAの関係者であった鏑木清一氏がまとめた施設一覧表(『秘録進駐軍慰安作戦』鏑木活二者・所収)には、その名はなく、『小町』というキャバレーが掲載されている。
 「20人いた」とされるダンサーも、施設一覧表によればダンサー10名とある。
 ただし、このほかに10名の慰安婦がいたことになっている。
 総数はいずれも20名である。
 『小町』と『サクラ』は、同じ施設が名称を変えたものかもしれない。
 RAAとは、リクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーションの略称で、正式の名称は特殊慰安施設協会という。
 米軍進駐を目前にした昭和20年8月26日に結成され、3日後に警視庁より設立認可を受けた団体である。
 米軍の進駐による治安の悪化・性犯罪の増加を恐れた政府の意向を受け、遊郭や遊技場、飲食店などの業者の代表を警視庁に呼んで結成されたとされる。
 その事業内容は、ホテル、キャバレー、レストラン、ビリヤード場など、多岐な娯楽にわたるが、一番の眼目は慰安所の経営であった。その資金として政府系の銀行であった勧業銀行から3千万円の融資を受けていたという。
 RAAは、発足と同時に
 「新日本女性に告ぐ
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍慰安施設の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」
 という大看板を銀座通りに掲げて、「18歳以上25歳まで。宿舎・被服・食科全部当方支給」の当時としては破格の好条件で"女性職員〟を募集。
 採用された職員の大半は、都内はじめ各地に開設された慰安所やキャバレーにダンサーや慰安婦として送り込まれた。

在日のタブー☆朝鮮進駐軍☆について1/2

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2010年4月23日 (金曜日)

「潮目」は完全に変わった。

 宮川隆義(政治広報センター社長)の選挙予測は、これまでも相当の確率で1_67当たっている。昨年の衆議院選では『週刊文春』誌上で、自民党は305議席から141議席に、民主党は114議席から280議席になると予測していた。
 妥当な予測だったと思う。 
 昨日発売の『週刊文春』には、この夏の参議院選を予測した記事がメインとして掲載してあったので、つい購入してしまった。
 まず普天間基地移転に関しても、「自民党の手練れたちが、地元と米側との苦心惨憺の調整の末、ようやく合意に漕ぎ着けた現行案に替わるBeba00c1bbcafe34案を、初めて政権につく民主党が、半年でひねり出せると考える方がおかしい。」と手厳しいが当然だと思う。

 同氏の記事が今後の選挙行動にもたらす影響は大きく、無視できないものがある。 
 見方はほぼ一致していたので、そのさわりを紹介したい。

 なお宮川隆義氏は、蓮舫議員(2004.7都選挙区/924,643票)が落選の危機にあることや、ダブル選挙になった場合は現職総理大臣初の落選の恐れがあることを予測している。

『週刊文春』鳩山民主109議席・過半数割れ宮川隆義
 「民・みん新政権」誕生
 「漂流内閣に怒りの鉄槌下る」
 7月参議院選全選挙区完全予測
 「潮目」は完全に変わった
 最新の各種世論調査によると、鳩山内閣の支持率は、ついに20%台に突入した。不支持率は6割を越え、政権発足後わずか7カ月で、支持率は実に40%近く下落した。
 その存立基盤は完全に崩壊している
 とりわけ米軍普天間基地移設問題をめぐる迷走は、目に余る。鳩山総理自らが期限と定めた5月末までの決着は、絶望的な状況となり、鳩山政権は、最初に白紙に戻したはずの現行案に近い案を模索し始めた。
 そもそも故・橋本龍太郎元総理を中心に自民党の手練れたちが、地元と米側との苦心惨憺の調整の末、ようやく合意に漕ぎ着けた現行案に替わる案を、初めて政権につく民主党が、半年でひねり出せると考える方がおかしい。
 先日ワシントンで行なわれた核サミットでは、米国のオバマ大統領に首脳会談を拒否されたが、このままでは国益を損なう事態になりかねない。
 新党は″肉離れ?
 野党にとっては党勢回復の格好のチャンスとなるはずの民主の失策だが、未だ与党ボケが抜けず、国会戦略もブレまくる自民党の支持率はまったく伸びない。
 自民党の唯一の希望、次期総理人気ナンバーワンの舛添要一は、昨年衆院選における自民惨敗の一因となったはずの東国原英夫宮崎県知事に面会を求める始末で、与野党とも方向感覚が定まらないまま、喜劇を演じているようにも見える。

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家庭用3Dテレビは時期尚早

 昨日、有楽町の「ビックカメラ」に立ち寄ったところ、3D映像を楽しむことが出来る「プラズマテレビ」54インチと50インチの2種類を並べてデモンストレーションしていた。

Dscn3832 昼どきでもあり10数人並んで順番待ちだったが、新しもの好きの当方もつい最後尾に並んでしまった。
 実は最近3D映画にはまっていて、「アバター」も「アリス・イン・ワンダーランド」も「新宿バルト9」で拝見済みで、ちと五月蠅い。
 
 結論から言うと、「家庭用3Dテレビは時期尚早」と判断した。

 3D映画の迫力は「大型映像」プラス「ドルビーサラウンドシステム」」だ。
 館内を映像と音が舞い踊り、観客も一体感となり臨場感この上ない。
 これは専用映画館でしか体験できないものだ。
 一般家庭で地下室等に「3Dマイホームシアター」なりを、仮に1千万円掛けて作っても、3D専用映画館には太刀打ちできない。
 それに、家庭で長時間「3Dメガネ」をかけているのも不自然だ。
 当分は、面白そうな3D映画があったら専用映画館に出向くつもりだ。

 因みに『アリス・イン・ワンダーランド』は、「不思議の国のアリス」を題材にしたものだが、『アバター』を凌ぐ観客動員だそうだ。ストーリーは若者向きだが、3D映画というだけで観る価値がある。日本でも、得意のアニメを3D映画で作れないものだろうか。

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2010年4月22日 (木曜日)

山形県民の歌は昭和天皇作詞

 「山形県民の歌」のいわれを紹介する。Dscn3963

 “広き野を 流れ行けども 最上川
                     海に入るまで 濁らざりけり


 昭和天皇(当時は東宮殿下)が大正14年(1925)10月14日酒田へ行啓された。
 御歌は翌大正15年(昭和元年・1926年)の歌会始め御題「河水清」に、酒田日和山(ひよりやま)においての感懐を示しされたものという。
 この御歌は山形県の光栄として、昭和3年酒田市日和山公園に記念碑が建てられ、更に昭和5年、東京音楽学校(現東京芸大)の島崎赤太郎教授が曲を付け、県民歌として歌われるようになった。
 時を経て、昭和22年8月来県中の昭和天皇に、上山市出身の歌人斎藤茂吉が弟子の結城哀草果(山形市)とともに短歌について進講した。
 その際、茂吉が「うみに入るまでにごらざりけり」の表現について「実際は降雨が続いたりすると、ものすごい流れに変わり、濁流滔々として天より来るの趣がある」と講じると、陛下は少し顔を引き締められたようだっというエピソードが残る。

 昭和22年8月15日、再び酒田に行幸され日和山に立たれ、「最上川」の御歌碑と最上川の流れをご覧になり、市民奉迎会場において約2千人による県民歌の大合唱が行われた。
 このときの宿泊は、本間家別荘を御泊所とされた。
 しかし本間家は、明治14年明治天皇行幸に際しては、お宿を辞退している。
 官軍と戦った庄内藩を、経済面で支えた本間家が意地を見せたと言われている。
 酒田市の「明治天皇行在所」に関しては別の機会に紹介したい。

 なお、天皇が外出することを行幸(ぎょうこう)といい。
 皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃の外出を行啓(ぎょうけい)と言う。
 天皇と皇后が一緒に外出する場合は、併せて行幸啓(ぎょうこうけい)と言う。

  「最上川」の御歌碑の写真は、帰省時に撮影したものだ。
 歌碑は茶店から見える位置にある。
 
 下の写真は「目で見る酒田市史」からだが、歌碑のある位置から港方向に約50メートル地点あたりの、今は芝生の広場と思っている。

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「週刊文春」、「週刊新潮」木曜日発売

 毎週木曜日は、「週刊文春」と「週刊新潮」の発売日だ。

 参議院選を前に、両誌ともに過激さが増してきた。
 駅の売店では、直前まで、どちらに手が行くか分からない。

 この雑誌社はいずれも老舗であり、ともに「新聞・テレビが書かない記事」を書く週刊誌というスタンスで信頼性が高い。
 もし、これらの雑誌社まで、共産党や社民党などの左翼政党、創価学会などの宗教団体、右翼や暴力団、日教組、また日本を敵視する外国におもねるような記事を書くようになったら、それこそ日本はおしまいと感じるだろう。
 また、「週刊現代」や「週刊ポスト」が女性ヌードを掲載して売り上げを伸ばしたあとも、「女性ヌード」はなく、通勤時など人前でも安心して読める雑誌だ。

■「週刊文春」
  発売日:毎週木曜日。価格:350円
  http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/
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■「週刊新潮」
 発売日は毎週木曜日、価格は320円。
    http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/
「亡国の小沢一郎」反旗を翻した元筆頭秘書の証言
 [第1回]「小沢一郎が倒れた朝」
   支持率28%!! 鳩山政権「墜落警報」

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2010年4月21日 (水曜日)

中国は「もっと自由にもっと素直に」

 とてもいい曲、いい歌詞だと思う。

 中国が上海万博で使いたくなるのが分かる気がする。
 この歌詞にあるように、中国も「もっと自由」を大切にする国になることだ。
 無断使用する自由ではない。基本的人権のことだ。

 ポイントは、「もっと自由に もっと素直に 強がらないで」と思う。
 いつまでも、中華思想にプラスして共産主義国では世界中が迷惑する。

  このように大人げない中国に、岡本真夜さんは「大人の対応」で応えた。
 「とてもすてきなお話で光栄です」と快諾するコメントを発表した。

そのままの君でいて』    岡本真夜・作詞
もっと自由に もっと素直に
強がらないで 歩いてゆこう
一年ぶりだね 君を待つエアポート
両手いっぱいの荷物 振りながら早足で駆けて来る
夕べの電話 寂しそうにしてたのに
いつもの君の笑顔に 泣けてきちゃう
もっと自由に もっと素直に
強がらないで そのままの君でいいんじゃない?
無理しないでもいいよ 空を見上げて
風を感じて 歩いてゆこう

アクセル踏み込んで 路面電車追い越した
あの山の上に行こうよ ロープウェイが最近できたんだ
流れる景色 窓に顔を向けたまま
“なつかしいね”とつぶやく君の声が 震えてる
ずっと心に そっとその胸に
みんなで過ごした この街を忘れないでね
自信がなくなったり 疲れた時は
いつでもいいよ 帰っておいで

私も夢が遠くなる時があるよ
だけど君もがんばっているから マケナイヨ!
もっと自由に もっと素直に
強がらないで そのままの君でいいんじゃない?
無理しないでもいいよ 空を見上げて
風を感じて 歩いてゆこう
そのままの君でいて

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政治屋は次の選挙を考える・民主

 「政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の時代のことを考えるAr_clarke_john
     ---ジェームス・ポール・クラーク----
 日本でも、このような名言を残す議員が欲しいものだ。

 民主党の小沢幹事長は、同党の新人議員に
   「君たちの次の仕事は、次の選挙で当選することだ
                 と言う趣旨の訓示をしたという。
 
 この訓示で、民主党が「政治屋集団」であることを自ら認めたようなものであり、次の時代のことなど考えない集団であることがハッキリした。
 目玉政策「子供手当て支給」は、2011年度から1人当たり月額2万6000円の満額支給を予定しているという。
 これなどは次の選挙に当選したいという、それだけの意地汚い政策と見ていい。
 なんとさもしい「政治屋集団」だ。
 その代表が、カネで汚れた小沢幹事長、鳩山総理だ。

 日本人の民度が問われている。
 よく言われることだが、
  「自国民の手で民主化できなかった国は民度が低くて当然」と言われる。

  日本の民主主義は敗戦によって、アメリカから押しつけられたもので、日本人が苦労して手に入れたものでないからだ。
 参考までだが、
 民主主義を推進させたのは市民階級であり、18世紀末から始まったイギリスの産業革命によって急速に広がった。また、1789年フランス革命も、産業革命と並んで民主主義の最も重要なできごとだ。
 アメリカ合衆国では1776年独立宣言後、民主主義国として発展し、更に南北戦争を経て進展した。
 敗戦によって民主化を強いられた、日本、ドイツ、イタリアは後進資本主義国と言われる。
 日本の政治家が、次代のことを考えることが苦手なのは、ここにあると思われる。


ジェイムズ・ポール・クラーク
 
(James Paul Clarke、1854年8月18日~1916年10月1日)は、約100年前のアメリカ合衆国の政治家であり、民主党員としてアーカンソー州選出のアメリカ合衆国上院議員と同州知事を務めたという。『ウィキペディア(Wikipedia)

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2010年4月20日 (火曜日)

「鎌倉河岸」は何処にあったか?

 鎌倉河岸は、内神田1丁目界隈にあった、江戸に最初に出来た繁華街。Photo_2
 大手町一丁目にあった「庄内藩上屋敷」の直ぐ隣にあった。 

 佐伯泰英著の「鎌倉河岸捕物控」が、NHK土曜時代劇「まっつぐ鎌倉河岸捕物控」と題して、4月17日(土)午後7時半から放送がはじまった。http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/mtsg/
 この時代劇に出てくる酒屋「豊島屋」は実際にあった店だ。庄内藩の人達も通ったに違いない。

 この「鎌倉河岸」は、江戸の街が開かれて一番最初に出来た繁華街で、江戸初期には遊郭もあった場所だ。約束通り稲荷神社(御宿稲荷)も近くにある。
 時代劇の中には、外堀に架かる「神田橋」も設定してあると思うが、この橋は大手町から内神田に通じる橋で外堀通りにある。
 そして、この外堀のすぐ内側が庄内藩酒井左衛門尉の上屋敷があった場所だ。
 江戸古地図の中央下、「神田橋」の内側に「酒井左衛門尉」の上屋敷が記されているが、「庄内藩」には神田橋を護るという大切な任務があった。
 庄内藩の規模は、明和期(1764~71年代)の総家臣数は2845名であることが判明している。このうち参勤交代で江戸詰になった人数は、寛文7年(1667)の記録では780人とある。概ね3割5分の人数だ。
 会津藩は幕末、京都守護職を任じた際は半数を上京させたというから、庄内藩も同程度の割合で江戸に上ったことが推測される。

 幕末には庄内藩は「江戸市中警備」を命じられ、「新徴組」を預かることになる。この「新徴組」の屯所は、JR飯田橋駅から徒歩数分、千代田区飯田橋1-9辺りにあった。「新徴組」も「新選組」も、清河八郎の発案で結成した「浪士隊」が母胎になった。

 庄内藩(酒井家)の上屋敷跡地には、現在、大手新聞社や銀行の本店など日本経済の中核となる企業、団体などのビルが建並ぶ場所にあった。
  酒井左衛門尉(さえもんのじょう)とは、日本の律令制下の官職の一つ。 
 平家追討では「源義経」も任ぜられている。
 このような予備知識で、この辺りの散策や時代劇「まっつぐ鎌倉河岸捕物控」を見ると面白い。

 下段の古地図は鎌倉河岸付近と、その下は鎌倉河岸から日本橋界隈。
 日本橋から神田界隈は、大江戸の中心として長く繁栄した。
 この辺りが「江戸っ子」の発祥と言われ、家康が江戸に入ってから三河駿河などの商人をここに住まわせたことに始まる。
 例えば「三河屋」は酒の商い代名詞となった。
 古地図の中央から右上に「日本橋」が確認できる。

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平和ボケの日本人にカツ!!

 石原都知事と田母神氏が、平和ボケした日本人にカツを入れる20104_2

 下段に並べた動画は、昨年2月TOKYOMXテレビが「石原都知事と田母神俊雄元航空幕僚長の対談」を収録したものだ。
 内容は、平和ボケした日本人にカツを入れる内容だ。
 自国の防衛を外国任せの日本人は、一般国民は勿論、国会議員、知識人、マスコミ人、作家、評論家に至るまで、その殆どが「平和ボケ」しているとみていい。
 憂国の士と称する輩も、国防に命を張る場面がなく、安全圏からの発言・言論だから全く迫力がない。

 石原都知事は、ある講演会で「日本男子はアメリカに完全に金抜きされてしまった。男が男として命を懸ける場面がないからだ。この後遺症は50年いや100年続く。」と言う趣旨の話をしたことがあった。
 この会談の中でも、「日本が自分から核を持たないと宣言していることは、アメリカにとって願ったり叶ったり」、しかし、「核兵器には核兵器でしか対抗できない現実がある。核を打ち込まれてから考えても遅い」、「自国を自分で守るシステムにすることが急務だ。すぐには出来ない、一つ一つ段階を経ることが大切」などの会話が印象的だ。

  最近、普天間基地移転問題から、国内の米軍基地も検討すべきとの声がある。
 まだ左翼からの意見が多いが。
 しかし、国内の米軍基地が今後100年200年このままでいいはずがない。

 いずかの段階で米軍には撤退してもらうことだが、その時は占領下の米からのプレゼント憲法を改正し、独自の防衛力を配備することが必要不可欠、絶対条件だ。
 繰り返すが、日本最大の甘えの構造は、「国の尊厳として一番重要な国家防衛をアメリカ任せにしていること」であり、隣国や途上国に、いくら経済的に援助してもパカにされ、尊敬されない原因はここにある。

 「日本創新党」の基本方針「国家の自立」には、
 「一番大事な防衛を米国に依存していながら、「対等」を唱えるのは国家としてだだっ子の域を出ない。まず国民が「自分達の国は自分達で守る」という意識を回復しなければならない。」と、立ち上げの精神を述べている。

 日本独自の防衛力の強化は、それは避けて通ることが出来ない現実だ。
 今月10日には、中国艦艇が日本の排他的経済水域にある沖の島を一周する示威行動を行い、日本の反応を探っていたことが判明した。
 韓国の竹島支配、北方四島のロシア支配、北朝鮮の拉致事件等々、全て国家防衛の日本側の姿勢に起因している。もし今後、日本が凛とした国家防衛の態度を内外に示したとき、はじめて、米国や隣国も尊敬の念と友好的な態度を持つだろう。
 「外交の後ろ盾には、シッカリした防衛力」という構図は常に重要だ。 
 先般、NHKの売国的放送を見てしまったので、バランスを取るためにもこのような番組で、口直しする必要がある。

 時間があるとき、じっくり見て欲しい番組だ。

 TOKYOMXテレビ「石原都知事と田母神氏の対談」
第一話
石原:「日米安保はいざと言うときには役に立たない。」
田母神:「アメリカは自国に被害がないレベルでしか日本を守れない」
石原:「中国が日本を水爆2発で滅亡させた後、アメリカは中国に報復攻撃はしないだろう」
田母神:「核は一発でも持てば抑止力になる」
田母神:「核を持っている国と持っていない国では外交交渉力にも格段の差ができてしまう」
田母神:「日本が核を持ちたいと言ったら、アメリカは抵抗してくるだろう。」
田母神:「ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・トルコはアメリカの核兵器を使える条約を結んでおり、訓練も行っている。日本とは状況が全く違う。」
第二話
田母神:「アメリカは自国を犠牲にしてまで日本を助けることはしない」
石原:「軍人は戦争の恐ろしさを知っている。パウレルもアーミテージもイラク戦争に反対した」
田母神:「文民統制神話があるが、ヒトラーもムッソリーニも文民。軍人は日中戦争に反対したが、文民である首相が戦争を起こした。『軍人が暴走した』というのは間違い。」
第三話
石原:「日本の役所同士が国益のために相談し合うことが無くなっている」
田母神:「F-2に使われている日本のレーダー技術・主翼と胴体の一体化技術などは、不平等条約によって持ち出された。」
石原:「ピンポイントミサイル技術は日本の半導体技術の賜物。垂直上昇型の戦闘機の技術は日本の技術力などたくさんある。外交カードに使うべき。」
田母神:「武器輸出禁止が、武器の監視をおろそかにする欠陥を引き起こしている。」
田母神:「 歴史と言うものは戦勝者が創る。 日本人は戦勝国の歴史を押し付けられた。」
■第四話
田母神:「戦後GHQによって自虐史観を植えつけられ、アメリカが去った後も増殖。冷戦後、米・英・露など戦勝国自身から、戦勝国にとって都合の悪い資料がたくさん出てきた。今こそ歴史を見直すチャンスである。相対的に見れば日本による中国や朝鮮半島への対応は、他のどの国よりもずっと穏健な対応だった。」
石原:「朴正煕(韓国第5代~第9代大統領)に『日本は世界でもましな植民地支配だったと思うよ。日本人の先生もやさしくしてくれた』という話をしてくれた。」
田母神:「日本軍が朝鮮の平和を掻き乱したのではない。全くの逆。」
石原:「朴『ほっといたら朝鮮は中国に飲み込まれていた。清朝はすぐ滅びてもっと混乱を起こしていた。ロシアに飲み込まれていたら、半島全体が共産化。』」
田母神:「日本が自国を守れない根本にあるのが自虐史観。」
第五話
石原:「アメリカは日本に優秀な戦闘機を作らせたくない。零戦のときのトラウマ」
田母神:「日本のステルス研究がモノになりそうになったらアメリカはロビー活動を活発化させる」
石原:「日本の民間技術を軍用化さえたらすごいことになる。プレステ2の話。」
田母神:「国際共同開発はアメリカによる監視の意味もある。」
田母神:「アメリカは最新のF-15は絶対に渡さない。アメリカだけが最新のものを使う。」
石原・田母神:「(再度)軍事輸出は最も効率的・安全な国防。経済にも多大な貢献になる。」
田母神:「軍事に使われるソフトウェアを日本が握っていたら、いくらでも主導権を握れる。」

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2010年4月19日 (月曜日)

日露戦争勝利の功労者紹介

 前回NHKの偏向放送を批判したので、今回は、いい放送番組も紹介しておく。

 現在、NHK総合テレビで「坂の上の雲」が放送中だ。
 Sato主役・秋山真之のライバルで、山形県鶴岡市出身の「佐藤鐵太郎」のことを簡単に紹介しておく。
 日露戦争日本を勝利に導いた最大功労者の一人だ。
  誰が演じるか不明だが、いずれ登場することだろう。
 「坂の上の雲」マニアックスhttp://www.sakanouenokumo.jp/

 「坂の上の雲」は、明治という時代を懸命に生きた人々の姿を、第1部は2009年11月29日~、第2部は2010年、第3部は2011年に放送する。当初、2006年放送を予定していたが脚本の野沢尚(1960年5月7日~2004年6月28日)が自殺した事情等から撮影が遅れた番組だ。

 「坂の上の雲」の最大のクライマックスは日露戦争だが、三年がかりでは放送も三年目に入ることだろう。

 明治期に直面した日本国家最大の危機は、1904年(明治37年)始まる日露戦争だが、決着P1032をつけたのは日本海海戦であった。
 日本海軍の連合艦隊は、対露戦の準備のため人事を刷新し、連合艦隊司令長官に東郷平八郎、連合艦隊参謀長・島村速雄、参謀・秋山真之らを配し、第2艦隊司令長官に上村彦之丞、参謀長に加藤友三郎、参謀に山形県鶴岡出身佐藤鐡太郎を任じた。http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/nichiro_navy.htm
 そして、1905年5月の日本海海戦においては、バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊は、旅順へ向けてリエパヤ港を出発した。地球を半周する航海を続け1905年5月27日~5月28日の「日本海海戦」において、日本軍連合艦隊と激突した。
 連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の戦術、二人の名参謀(秋山真之、佐藤鐵太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦などによって、欧州最強と言われた「バルチック艦隊」を圧倒し殲滅させた。

佐藤鐡太郎」(1866年8月22日~1942年3月4日)は、鶴岡市(庄内藩士)出身、秋山真之と肩を並べて名参謀と謳われた。
 妻は小笠原長生の妹。日本海海戦でスワロフの回頭を舵の故障と見抜き、バルチック艦隊の逃走を阻止するなど日本を勝利に導いた最大功労者の一人だ。
 テレビ「坂の上の雲」では、「佐藤鐵太郎」のキャストも決まっていないようなので、当面は画面には出てこないだろう。

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またNHK偏向放送を見てしまった

pout NHKは朝鮮半島の代弁者か?Photo
  またNHKの偏向放送、反日放送を見てしまった。
 バランス感覚が全くない放送だ
  NHKは「韓国の言い分」を一方的に放送し、日本人に何を伝えたいのだろう。
  内容は、売国的放送の何者でもない。
 制作担当者やディレクターの中に、向こう側の関係者がいるに違いない。日本人としての誇りを持った人なら作れない内容だ。

 18日(日)午後9時00分から放送された、「NHKスペシャル」日本と朝鮮半島第一回「韓国併合の道」を観た。
 ゴールデンタイムの放送だ。
 内容は、「併合を違法とする意見」や相手国の不満言い分を一方的に伝えているだけだ。伊藤博文を暗殺した犯人アン・ジュングン(安重根)を英雄視している韓国民の姿 や言動を一方的に伝えているだけ。
 おまけに、英国大使館高官の手紙を引用してまで「日韓併合」を非難している。
 
angry国民からカネをとり番組を制作しているNHKが、何も自虐史観に基づく放送をする必要ないと思うのだが、誰かシッカリと指摘する人はいないのだろうか。
 第五回まで放送される。
 NHKは日本人に何を刷り込みたいのだ
・第1回 韓国併合への道 伊藤博文とアン・ジュングン(2010.4.18放送)
・第2回「民族自決を求める声」(仮)
・第3回「戦場に動員された人々」(仮)
・第4回「冷戦に引き裂かれた在日コリアン」(仮)
・第5回「日韓関係はこうして築かれた」(仮)

NHKスペシャル「プロジェクトJAPAN」シリーズ日本と朝鮮半島
第1回2010年4月18日
 19世紀後半、当時の帝政ロシア帝国は、不凍港を求めて、南下政策を推し進めた。
 当時の「清」、現在の中国との間の「日清戦争」(1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月)は、日本の勝利に終わった。清の弱体化に乗じて、帝政ロシアは、南下政策に傾く。
 そして、帝政ロシアと日本の間に横たわっていたのが、韓半島(朝鮮半島)であった。明治維新(1968年:明治元年、慶応4年)以来、「征韓論」そして、大陸進出に思いを寄せていた明治政府。その明治政府を始めとした「征韓論」に重き置く政治家、財界、実業界の思惑と帝政ロシアの南下政策が衝突する。1904年(明治37年)2月6日日露戦争勃発。
 よもやの、日本の勝利・・・。
 そして、1910年8月22日、当時の大韓帝国と、日本は、「韓国併合」(日韓併合)の条約を調印する。実質的には、当時の韓国は、日本の植民地となった。
 そして、韓国併合から100年。日露戦争後、日本は朝鮮半島をどのように植民地化していったのか。
 日韓はもとよりアメリカ、ロシアなど各国の新史料を取材。
 大韓帝国保護国化の舞台裏で繰り広げられた西洋列強と日本、皇帝コジョン(高宗)のしれつな外交戦を明らかにする。
 さらに、初代統監となった伊藤博文が直面した問題を独立運動家アン・ジュングン(安重根)との対比。伊藤博文と独立運動家アン・ジュングン(安重根)を軸に国際的な視点で、暗殺という悲劇にいたるふたりの軌跡を追う。

■【NHK・アジアの一等国】に対する批判
日台分断工作!?繰り返される

4月5日に放送されたNHKスペシャル・シリーズ JAPANデビュー「アジアの一等国」。
在日台湾人の間からも怒りの声が聞こえる偏向報道ぶりについて

NHKの歴史歪曲の実態(6分40秒から)

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「日本創新党」の三つの基本方針

coldsweats01当面、「日本創新党」を応援する。
 今まで、「このような政党があれば」と、イメージしてきた政党がようやく誕生した。
 この新党の三つの基本方針を、「文藝春秋」から抜粋して
 勝手に紹介させていただく。

  • 「『首長決起』地方からの叛乱~このままでは国家の破産~経営感覚なき民主党に代わって我々の『新党』が日本の舵をとる」 
        【文藝春秋2010年5月号】から抜粋
新党「日本創新党」三つの基本方針
 我々は、これまでのような「政治家の都合による政党」ではなく、「志ある国民の手による新党」結成をめざしている。だから具体的な政策については、今後志ある国民各層との議論を通じて決めていく。
 ただ、困難な時代だからこそ何よりも必要なのは、具体的な政策論議の前に、国の未来を明示する理念を持つことである。
 「依存から自立へ」を基本原理とし、日本再生のために、次の三つの理念に基づいた政策の実行が必要と考える。
経済の自立
 国家破綻に向う財政を再建し、「国民の声に敏感に適切に反応する政府」をつくるということは、これまで我々が首長として実行してきたように「小さくて賢い政府」をめざすことに他ならない。
 そのために、例えば十年間で国会議員や地方議員の数を半減、また国や地方の公務員数も三分の二に減らす計画を進め、「民間にできることは民間に」の構造改革路線を追求して借金漬けの財政を転換させる。
 また国と地方の権限とその裏付けとなる財源を地方中心にはっきり分けて無責任で不効率な行政を根本的に改めた上、将来は都道府県をブロック単位の州にまとめ、外交防衛や司法や国民教育は中央政府、産業政策は道州、福祉など生活支援は市町村が行う「道州制」の導入をめざす。
 そのためにも、国には勇気が、地方には覚悟が必要だ。
 財政の再建には、経済の成長が不可欠だ。
 グローバル化の時代に経済成長をもたらすには、努力した人や企業が認められ、さらに世界からも優秀な人や企業が日本に集まってくる「選ばれる国」に変わることが重要だ。
 そのためには、いま四〇%と世界で最も高い水準にある法人税を、少なくとも三〇%程度にまで引き下げる必要がある。
地方の自立
 都市だけでなく、地方が豊かに発展する日本にこそ、幸せな国民生活がある。四季が織りなす美しい自然と深い緑に覆われた耕作地が広がり、若者からお年寄りまで多様な担い手が支える農業からこそ、豊かな地方が生まれる。道徳や礼儀を重んじ、日本の歴史を大切にしながら、先人たちの苦難や努力に感謝する教育からこそ、世界に通用する立派な人間が育つ。
 先人達が長い歴史を通じて築き、我々が受け継いできた「よい国日本」の大切なものを、さらに磨いて次世代に繋ごうと汗してこそ真の日本の繁栄が生まれる。
 農業も、世界で競争できる「先進農業」、高齢者の健康づくり、障がい者の社会参画にも寄与する「福祉農業」、農業の多面的機能から国土保全に役立てる「環境農業」、子供たちが食べ物から「いのち」の大切さを学べる「教育農業」など、多分野にわたり推進し、「日本型農業立国」として支える体制を整備するのはどうだろう。
国家の自立
 戦後日本は、自国の防衛を米国に委ね、経済のみに集中し、増え続けた富の配分を行うだけが政治の役割となってきたのだ。
 しかし、自国の防衛を自分で考え対処するという国家として当然の義務を果たすことを避けてきたため、「依存する」ということに不感症になってしまったのだ。
 一番大事な防衛を米国に依存していながら、「対等」を唱えるのは国家としてだだっ子の域を出ない。まず国民が「自分達の国は自分達で守る」という意識を回復しなけれ
 ばならない。
 そして、日本の周辺で起きている事態や世界の安全保障の現状を直視して、日本が何をしなければならないかを自分の頭で考え実行しなければならない。対等な同盟関係はその上での話だ。
 戦争は絶対に避けなければならない。
 そのためにこそ外交が重要だ。しかし真の「外交国家」として平和に生きるためには、知恵と覚悟が必要である。
 日本の破綻はすぐそこに迫っている。
 日本の長い歴史と豊かな文明を受け継ぐものとして、心物両面で豊かな国を築き、自らの知恵と力でこれを守り、成長させ、美しく豊かで平和な日本を誇りを持って次代へ受け渡す――そんな「よい国日本」に向けた最後の機会だ。今こそ一人でも多くの「志民」に立ち上がって欲しい。

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2010年4月18日 (日曜日)

新党「日本創新党」 が旗揚げされた

 4月18日午後3時、かねてから注目されていた首長連合による新党が誕生した。
 党名は「日本創新党Stt1004181606001p1
 「日本を根こそぎ新しくしていく」という思いをこめたという。
 そして、「自立した国家への道を模索し、自らの国は自らの手で守る気概を持った国家を築きたい。」と高らかに宣言した。
 「国家・地方・国民の自立」を目指すという基本目標がいい。
 道州制や農業政策にも言及している。
 立党宣言では、より具体的に形を示している。
 あとは、各都道府県の首長らがどのくらい応援するかだ。
 応援態勢として、「応援首長連合」には上田清司埼玉県知事ら26人の名もある。
 結成の記者会見により、次の基本目標が発表された。

党幹部
 党首 山田宏 代表幹事 中田宏 政策委員長 さいとう弘

基本目標
◎「国家の自立」◎「地方の自立」◎「国民の自立

政策指針
(1) 景気をよくする!「成長と改革」による経済と財政の再建
(2) 教育を豊かにする!人格を高める教育と百花繚乱の学校づくり
(3) 安全安心を高める!現実主義の外交・防衛と「楽しい長寿社会」づくり
(4) 地方を元気にする!道州制の導入と「日本型農業立国」の創造
(5) いのちを大切にする!弱者を護り、人と自然が共生する世界モデルの構築

■「応援首長連合」に参加した首長、首長経験者(五十音順)
 上田清司・埼玉県知事
 海老根靖典・神奈川県藤沢市長
 遠藤三紀夫・同県座間市長
 片岡聡一・岡山県総社市長
 河村たかし・名古屋市長
 草間吉夫・茨城県高萩市長
 熊谷俊人・千葉市長
 小村和年・広島県呉市長
 佐藤克男・北海道森町長
 沢井宏文・大阪府松原市長
 篠田昭・新潟市長
 清水勇人・さいたま市長
 鈴木望・前静岡県磐田市長
 鈴木康友・同県浜松市長
 高谷茂男・岡山市長
 田中信孝・熊本県人吉市長
 辻宏康・大阪府和泉市長
 中村時広・松山市長
 福田良彦・山口県岩国市長
 福原慎太郎・島根県益田市長
 前田一男・北海道松前町長
 松浦正人・山口県防府市長
 松沢成文・神奈川県知事
 森雅志・富山市長
 藪本吉秀・兵庫県三木市長
 湯田芳博・福島県南会津町長

■「日本創新党立党宣言           2010.4.18
一、私たちはなぜ立ち上がるのか
 いま私たちは、志ある国民と共に、新たな日本を創り上げるために立ち上がる。
 すなわち「日本創新」である。
 わが国は戦後の荒廃から一丸となって立ち上がり、奇跡とも称された経済成長を成し遂げ、世界に比類なきほどの豊かな社会をつくりあげた。だがその過程で、ともすれば「自分さえよければ」「いまさえよければ」という精神風土に堕してしまったのではないか。
 日本の政治も、「自分さえよければ」「いまさえよければ」の気風に染まり、明らかに無責任に堕落してしまったように思われる。富の分配や利益誘導ばかりに血道を上げ、「国民の依存心を高める」ような政策が次々と行なわれ、さまざまな既得権益が網の目のように張り巡らされることとなった。
 このような政治は、いつしか日本社会の足枷になり、かつては「一流」といわれた経済も、ついに政治の混迷に足をすくわれ、低成長からの脱出のきっかけをつかめぬまま、終わりの見えない「失われた時代」を余儀なくされている。
 もはや国民の正当な努力が報われない社会となってしまったのか。
残念ながら現在、日本再興への改革を進めていく資格と能力のある政党は見あたらない。
 このような政治が続けば、日本の衰退は加速し、わが国の歴史と国民に大きな禍根と苦難をもたらすこととなりかねない。
 私たちは、これまで首長として、コスト意識をもって地方経営を担ってきた。あるいは、志をもって日本をよい国とするための活動に取り組んできたし、特に財政改革に実績を残してきた。
 だが、どれだけ改革を実現して状況を改善しても、国政の失敗によって、それを上回る悪しき状況が次々とつくりだされてしまう。もはや、この状況には我慢できない。
 私たちは、これまでの経験を活かして「本物の政治」を確立し、日本をよい国として再興すべく、ここに立ち上がることを決意した。
二、私たちは何をなすべきか
 いま、私たちが直面する問題とは何か。そして私たちは、何をなすべきなのか。

第一は、「成長による経済と財政の再建」である。
 米ソ冷戦の終結後、経済のグローバル化が進み、世界の人や企業や資本は、国や地域を自由に選んで移動するようになった。各国は、法人税や所得税、相続税などの減税を行ない、通信や金融や労働などの諸分野における規制緩和を行なって、「選ばれる国」になるための国際競争にしのぎを削った。
 だが、わが国は既得権益の壁を打ち破れぬまま、「世界から選ばれる国」となるための税制や規制の改革は中途半端に終わった。このことが大きく足を引っ張り、新しい時代に向けての産業構造の革新も進まず、日本企業の国際競争力も年々低下し、日本経済の低落傾向に歯止めがかからずにいる。このような姿から脱することができなければ、私たちは緩慢な衰亡への道を辿るだけであろう。
 いまこそ、私たちは、「自由で力強い日本」をめざすべきなのである。自由な社会であってこそ、さまざまな可能性が花開き、活力が生まれる。社会は力強く発展し、経済も力強く成長していくことができるのである。私たちは、小さくて賢い政府をつくり、自由で健全な市場を確立し、世界に開かれた公正な競争で日本経済に活力をもたらすことをめざさねばならない。「成長による経済と財政の再建」を、国民一丸となって進めていかなければならない。
 そして「自由」は、これからの国際秩序のなかでも、ますます重要な価値観となるだろう。日本の繁栄は、世界の自由経済や自由貿易を通じてもっともよく実現されうるものである。
 私たちは、そのあり方を守るために、最大限の努力をなさねばならない。また、私たちは、「自由」を重んじる諸国と手を結び、圧政や抑圧、過度な保護主義には、断固対抗していかねばならない。

第二は、「国民の安心の確立」である。
 わが国では少子高齢化が急速に進行し、平成17年以降、ついに人口減少社会に突入している。こうなれば、人口増加を前提とした現行の年金や医療などの社会保障制度が、いずれ崩壊の危機に直面しかねないことは、以前からわかっていたことであった。にもかかわらず、歴代政府は根本的な解決を先送りしてきた。
 このため国家財政危機への懸念はますます増大し、国民のなかに将来にわたって社会保障制度が維持されうるのか不安感が増幅している。これでは、国民はいっそう内向きな自己防衛策に走り、活力は減殺されるばかりである。
 また、日本においては古来、「家族」のよき伝統が受け継がれてきた。家族こそ、日本国民の生涯の安心立命の基となり、次代を担う子供たちが生まれ育ちゆく、かけがえのない場である。
 だが、いま、その家族をバラバラに解体するような動きが強まっている。このことが、国民の孤立感や疎外感や不安感をますます高めることは必定である。
 また、これまで農林水産業を規制でがんじがらめにし、何の展望も描かぬままに補助金漬けにすることだけを続けてきた。農林水産業は本来、地方の基幹産業であり、国民に安心で安全な食を供給し、国土を守る大切な役割を担い、日本の豊穣なる文化の基でもあった。
 だが、これまでの政策により、その競争力は弱り、魅力も減退し、後継者不足と従事者の高齢化は深刻な状況となっている。そして、地方の村や町もすっかり活力を失い疲弊している。
 さらに、日本は本来、高い教育水準と道徳水準を誇り、国民の「人の力」こそを最大の資源としてきた国であるはずだが、近年、学力低下をはじめ、目を覆いたくなるほどの教育の衰退が進んでいる。
 ことに、人格教育や歴史教育をないがしろにしてきた戦後教育のあり方は、結果として社会の良質な伝統を破壊し、恥知らずで自分勝手な風潮を助長している。
 私たちは、「自由で力強い日本」をつくるためには、国民の安心・安寧がしっかり確立されねばならないと考える。そのためにも、不安だらけの社会保障、バラバラにされつつある家族、壊れてしまった地方や農林水産業、そして教育をしっかりと立て直さねばならない。
 そしてそのことを通じて、「日本の地域社会と伝統的価値観の再興」を実現せねばならないのである。
第三は、「現実主義に基づいた外交・防衛」である
 いま国際社会は、かつての二大超大国の勢力拮抗から、各国の国益がぶつかり合う「新たな列強の時代」へとその姿を変えつつある。本来日本は、その大きな変化に対応して、自国の防衛を他国に一方的に依存してきた国家のあり方を問い直し、国際社会のなかで自らの責務をきちんと果たしていく「自立した国家」への道を模索し、歩き始めなければならなかった。
 しかし、わが国は戦後の「甘えの構造」を引きずったまま、今日に至っている。そのため日本は、自国のことばかりを考えて、テロ対策や平和維持などへの貢献から逃げ回っているように国際社会から見られている。また、日本周辺の東アジアでは急速な軍拡が進んでいるにもかかわらず、日本が無為無策のままに空想的な理念を振りかざし、これまで地域の安定に寄与してきた日米同盟を揺るがしていることが、かえって平和を攪乱する要因となってしまっている。
 私たちは、まず「自らの国は自らの手で守る」という気概をもたねばならない。
 また、自由、民主主義、人権尊重などの価値観を共有する国々と手を携え、国際的な責務をしっかり果たしていかねばならない。そして、世界平和に寄与するためにも、無責任さを排し、「現実主義に基づいた外交・防衛」を展開せねばならない。

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熊が嫌がる武器は?

 最近、熊が人里に降りてくる話を聞くことが多い。

 この理由はいろいろあると思うが、根本的には、熊の住みかを人間が狭くし、熊が食べ物を十分に得ることが出来なくなったからだといわれる。
 熊も生きるために仕方なく麓に餌を求めにやってくるのだろう。

 しかし、結果として熊も危険動物として駆除の対象となり、いずれ絶滅の危機に襲われる心配がある。2010417
 動物の絶滅の原因は、動物同士の争い、つまり弱肉強食の論理で滅びた動物もいるだろうが、問題になっている絶滅の原因は、我々人間が肉が旨い、形が珍しいからペットとして飼うなどの理由で乱獲し、絶滅に拍車をかけていることだ。
 しかし、最近、特に問題なのは、「森林の破壊」、「農薬の使用」、「オゾン層の破壊」、「酸性雨」、「地球温暖化」などにより絶滅が危惧されている現実だ。
 もっとも、これもあれも人間のエゴが原因だが・・。
 熊も人間に食べられたり、保護されたり大変だ。

 難しい話になったが、とっておきの熊の撃退方法がある。
 この話は、熊に人が襲われたというニュースで、遠い昔の祖母達の会話を思い出した。

 その会話は、たわいのない年寄り同士の世間話だったが、あまりにも繰り返し聞かされて、その度に笑わせられた話だ。5088805
話せば何てことないが、祖母の従姉妹は、鳥海山の麓に嫁に行った人で、この家の山寄りは全てが鳥海山といっていい環境だった。祖母の従姉妹は当時70歳にもなる老婆だが、庭掃除をしていると、突然、熊が庭に現れたという。

70年生きていたが初めての体験で、それはそれは腰を抜かすほど驚いたことだが、その時持っていた掃除用具(武器)が幸いしたという。

 それは、庭掃除に持っていた「熊手」だった。
 この「熊手」を無意識 のうちに振りかざしたところ、熊は逃げて行ったという単純な話だ。
 当時の田舎なら、「熊手」は何処の家にもある普通の用具だが、名称のとおり、その形は大きな熊の手である。
 熊も自分より大きい手を振りかざされたら、きっと驚いたであろう。
 ありそうな話で皆納得して聞いたが、なんども喋るうちに話に尾ひれがついて、面白さもアップしていた。私は事実と思って聞いていたが、これが最近の話なら、新聞、テレビの取材も来ていただろう。
 田舎では、たわいのない話で老婆達の話は盛り上がっていたのだが、これが最近の熊や他県の熊に通用するかは責任を持てない。

【実際の対処法は】
1 笛を携帯する。
2 時々笛を吹く。大声を出す。
3 熊と遭遇したら、絶対に走って逃げない。
4 通路を邪魔している場合もあるので横に避ける。
5 熊が吠えたりして威嚇しても動じない。
6 向かって来たら大声で威嚇し反撃を決心する。

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自生「クレソン」食べ放題!

Kureson

 春のこの季節は、タケノコ、キノコ、ワラビ、ウド、フキなど、旬のものが美味しい。
 これらには、春に芽吹く力、勢いを感じる。
 ただ、自然が多い多摩湖界隈でも、採り立てを食することが出来るのは「タケノコ」など数は少ない。
 その中で近所で唯一採取できるのが自生の「クレソン」だ。
 このクレソンの繁殖力は極めて旺盛だ。春先は、採っても採っても数日後には見事に回復している。
 
 近所では気づく人がいないのか、それとも不衛生と思われているのか、採取しているのは我が家だけのようだ。
 荒らされたり、汚されたら面白くないので、当分は黙っていようと思う。
  クレソン薬草としての効用があり、貧血、くる病、心臓虚弱、視力の衰え、強壮、産婦の乳の出をよくし、便通、利尿、黄疸、こしけ、リュウマチ、神経痛にも有効だという20104

 食べ方は説明するほどでないと思うが、我が家では、生野菜としては勿論、ふんだんにあるので「おひたし」、「ベーコン炒め」、「肉とクレソン炒め」、「ソーセージかウィンナー炒め」、「スクランブルエッグ炒め」などにすると美味しいと思っている。
 スーパーでは、一握り程度の束で200円前後のようだが、我が家で一回で採取するクレソンを金額に直すと2千円分以上にはなると思う。
 これをタダで手に入るのだから、こんな贅沢なことはない。
 野菜の価格が高騰しているようだが、気にならない。
 当分は、ウサギのように、モグモクバクバク食べるつもりだ。
 それから、癖がないので青汁にしても飲みやすい。
 みそ汁の具にも合う。我が家では揚げと一緒に入れている。

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本日午後3時「よい国日本」が始動

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いよいよ本日午後3時
よい国日本が始動
  幸せがあふれる国 日本を実現するために!
 誇りあふれる国 日本を大切にするために

             よい国つくろう!日本志民会議
 http://www.yoikuni-shimin.jp/member.shtml
 民主党政権のばらまき政策では国民はダメになる。
 「日本国民に自立を促す」という考え方がいい。
 議員定数半減を目指すというMember_yamadaこの案が一番いい。
 顔ぶれは、「山田・東京都杉並区長」、
 「中田・前横浜市長」、
 「斎藤・前山形県知事」、
 代表する三人の名が「ひろし」とは面白い。
 みんな旬のいい顔している。
 「ひろし三人党」と言ったら、他のメンバーに失礼か。
 
 メンバーに現職の国会議員は参加させないのは既成政党と一線を画し、清新さを前面に打ちだす狙いがあるようだ。その代わり、政党助成法の政党要件は満たさないことになる。Member_saito
 山田宏氏、中田宏氏、斎藤弘氏は、
 文芸春秋の中で、、「首長決起」地方からの反乱」、「コスト意識のまったくない民主党の政治を傍観するわけにはいかない」と新党結成の意向を明らかにしていた。
 熊本県人吉市の田中信孝市長も参加の意向を示している。

 60人を超す地方議員が結集した会議も行われた。
 果たして、何人が今度の参議院選に立候補するのだろうか。
 一気に、民主や社民、共産あたりと入れ代わって欲しいものだ。 
 必ずや、第三極として大きな受け皿になることだろう。

■「よい国つくろう!日本志民会議」メンバー

志民運動本部長 上甲 晃有限会社 志ネットワーク 代表
■志ネットワーク 公式ホームページ

政治委員会委員長 山田 宏 東京都 杉並区長
■山田 宏 公式ホームページ

政治委員会副委員長 中村 時広 愛媛県 松山市長
■中村 時広 公式ホームページ

政治委員会幹事長 中田 宏 前神奈川県 横浜市長
■中田 宏 公式ホームページ

政治委員・政策部会長 齋藤 弘 前山形県知事
■齋藤 弘 公式ホームページ

政治委員 遠藤 三紀夫 神奈川県座間市長
■遠藤 三紀夫 公式ホームページ (神奈川県座間市ホームページ)

政治委員 片岡 聡一 岡山県総社市長
■片岡 聡一 公式ホームページ

政治委員 小村 和年 広島県呉市長
■小村 和年 公式ホームページ (広島県呉市ホームページ)

政治委員 佐藤 克男 北海道森町長
■佐藤 克男 公式ホームページ (北海道森町ホームページ)

政治委員 澤井 宏文 大阪府松原市長
■澤井 宏文 公式ホームページ

政治委員 清水 勇人 埼玉県さいたま市長
■清水 勇人 公式ホームページ

政治委員 鈴木 康友 静岡県浜松市長
■鈴木 康友 公式ホームページ

政治委員 高橋 克法 栃木県高根沢町長
■高橋 克法 公式ホームページ (栃木県高根沢町ホームページ)

政治委員 高谷 茂男 岡山県岡山市長
■高谷 茂男 公式ホームページ

政治委員 辻 宏康 大阪府和泉市長
■辻 宏康 公式ホームページ (大阪府和泉市ホームページ)

政治委員 福原 慎太郎 島根県益田市長
■福原 慎太郎 公式ホームページ

政治委員 前田 一男 北海道松前町長
■前田 一男 公式ホームページ (北海道松前町ホームページ)

政治委員 森 雅志 富山県富山市長
■森 雅志 公式ホームページ

政治委員 湯田 芳博 福島県南会津町長
■湯田 芳博 公式ホームページ (福島県南会津町ホームページ)

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2010年4月17日 (土曜日)

ヘボの考え休みに似たり

thunderいよいよ政権末期か、鳩山総理もマスコミを批判するようになってきた。
 総理がマスコミを批判するようになったら、政権末期とみていい。
 時事通信社の発表では内閣支持率が23・7%だという。
 今も支持している人は
 投票した手前、仕方なく支持にしている人だろう。
 この流れなら、来週には10%台に転落の可能性もある。
 危険水域どころか、政権存続もピンチに陥る。
 にっちもさっちも行かなくなって政権を投げ出し、衆参同時選挙もあるのか。
 「ありうる」、小沢幹事長なら一か八かの手を使う可能性もある。
 しかし起死回生は無理だろう。
 もっとも落第政権は、早々に退陣した方が国民のためだが。

 今回は多くの国民も、流れを作ったマスコミも勉強したことだろう。
 政治不信、外交・経済破綻、という、授業料は随分と高くついたが。
annoy民主も「一度はやりたかった」だろうし、国民も「一度はやらせたかった」のだから、互いの思いは一致する。
 政治をめちゃくちゃにされ残念なことだが。
 マスコミ批判のことに移る。
 「記者は出て行ってください」と言って、テレビに向かって辞任会見した佐藤総理。
 「貴方方と違って、私は自分を客観的に見ることが出来るんです」と言った福田総理。
 まあ当時は、総理が切れるのも理解できるような、常軌を逸した偏向報道を繰り返していたマスコミだった。
 それに比較すれば、最近のマスコミは民主にはおとなしめの、「当然批判されるべき批判」なのだが、見たところ、精神的に相当追いつめられている証であろう。

 鳩山総理は、「『どうせ、できないだろう』とメディアが書いてPhoto_2いるが、心配なさらないで結構です」、さらに、「普天間なんて知らなかったでしょ。それが国民の一番の関心事になること自体、メディアがいろいろ動きすぎているな」とマスコミに責任転嫁する発言をしたという。
 
 普天間基地のことも、結局はキャンプ・シュワブ沖合に戻ってきた。この案には、民主党は野党当時懸命に反対していたことを忘れたのか。
 ただ、何カ所かに浮気したものの、全員に嫌われ元の鞘にもどっただけか。
 全く情け無い党だ。
 タイガーウッズと同じだ。
shockきっと、復縁料は倍額に吊し上げられることだろう。 
 莫大な労力と時間の浪費だけだ。
 どれだけ余計な予算を使ったことか。

 将棋では「ヘボの考え休みに似たり」と言う。
  ヘタな考え方は、打つ手がまとまらず「堂々巡り」を繰り返すものだ。
 今の民主党政権と全く同じだ。
 ただ、休んでいても議員として、それなりの国家予算を使っているからタチが悪い。
 
 なお、当方は一貫して見方をかえていない。
 とは言え、沖縄や国内の米軍基地問題がこのままでいいはずはない。
 いずれは、削減の方向に向かうべきだが、それには自主憲法を制定し、シッカリ自国を護ることが出来る憲法条文にすることが先決だ。
  
基地使用のユーザーは米軍だ(2010.02.22)

  • 普天間移転問題で揺れる民主党(2010.02.21)
  • 「普天間基地移設」問題とは(2010.02.19)
  • 普天間、米は「現行案」履行要求(2010.03.22)

    annoy2009.12.10基地問題は利用されている

    annoy2009.12.9沖縄県民の本当の声

  • 普天間移設 政局流動化の発火点に社民反発、連立離脱も
    4月17日 産経新聞
     政府が普天間飛行場移設問題で新たに提案する米軍キャンプ・シュワブ沖合の浅瀬案は、米側の理解が得られやすい半面、県外、国外移設を強く主張する社民党などの猛反発を招くことは必至。場合によっては同党の連立政権離脱もあり得る。
     また、県外移設を公言してきた鳩山由紀夫首相の責任問題が浮上することも避けられない。浅瀬案は軍事的には有望な案だが、政治的には政権の基盤を揺るがしかねない危険性をはらみ、政局流動化の発火点になる可能性がある。
     普天間問題では、これまでにさまざまな移設案が次々と浮上しては消えていった。
     その背景には、米国、移設先住民、連立与党のそれぞれの意向をすべて満たすことが困難だという問題がある。そうした中で、首相は公約どおりに県外移設の道を模索してきた。
     だが、今回、苦肉の策として登場した浅瀬案は、これまで与党の意向を重視してきた首相が日米同盟を重視する姿勢に大きく路線転換することを意味する。
     「『どうせ鳩山なんだから、できないだろう』とメディアが書いているが、心配なさらないで結構です」16日、自身の後援会関係者と会った首相は胸を張った。
     さらに、「普天間なんて知らなかったでしょ。それが国民の一番の関心事になること自体、メディアがいろいろ動きすぎているな」とマスコミに責任転嫁して余裕をみせた首相だが、浅瀬案が首相にとって危険な綱渡りであることは間違いない。

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    春4月「武蔵野のソロの芽吹き」

     立川市ゆかりの詩人・尾崎喜八の「旅と滞在」には数枚の風景写真が掲載してある。
     気になる一枚があった。
     「武蔵野のソロの芽吹き」昭和7年4月著者撮影と添え書きがある。
     どうも見覚えある風景だ。
     早速確認に出掛けた。
     下段のカラー写真は4月16日撮影した。
     正に春の芽吹きを感じた。
     この雑木林は、玉川上水緑道に接する小平市上水新町の樹林地「市指定保存樹林」の写真だが、一般的に「ソロの木」と呼ぶという。
     「ソロの木」はシデ三兄弟のことで、「シデノキ」「ソロ」「コソネ」を「ソロ」とまとめて言うらしい。
     はじめて知った。
     このような雑木林は、玉川上水沿いに延々と続いていたようで、武蔵野の風Sinnden_kaihatu_2景を代表していた光景だ。この辺りは、江戸時代の新田開発の名残があり、砂川新田、榎戸新田、小川新田などの歴史がある地域だ。

    五日市街道沿いに進められた新田開発は、一戸一戸が短冊状に区切られ、どの農家も家屋、農地、雑木林にと利用地を定めていた。雑木林からは、薪、落ち葉からは肥料として長年利用していたようだ。
     また、この辺りは関東ローム層の土地で、風が吹くと砂埃が舞い上がり農家を困らせていたことから、防風林の目的もあったと推測する。
      このような風景も、昭和40年ころから住宅地に転用されはじめ、今では、保存林として一部に残るだけになった。

     詩集「旅と滞在」の中には、撮影場所を特定できるよにうな記述は何もない。
     推測出来るヒントは、田舎という言葉が所々に見えるだけだ。
     尾崎喜八からすると、田舎とは、父親・尾崎喜三郎の生まれた東京・砂川村(現立川市若葉町)を指すのではなかろうか。
     この写真は、父親の生家辺りのソロの木の可能性が高い。

    Image0010

    Soro

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    2010年4月16日 (金曜日)

    天安門事件の真実が明かされる

     「天安門のパンドラ」日本語訳が、本日4月16日発売される。Photo
     パンドラの箱とは、ギリシャ神話に登場する災いをもたらす箱の名であり、その箱を開けた女性の名がパンドラという。
     つまり禁断の扉を開く際に例えられる。
     著者は事件当時、北京大学の大学院生だった劉剛(リュウガン)氏。
     かつて、この事件をNHKは「大虐殺がなかった」と報じたことがあった。おぞましい国営放送NHKにこそ怖ろしさを感じる。

     「天安門事件」は平成元年、1989年6月4日の未明、北京の天安門広場で、民主化を要求して座り込みを続けていた学生と市民を、中国共産党・人民解放軍は無差別に発砲し、戦車で踏み殺した大量虐殺事件だ。
     平成元年のことで、最近の虐殺事件とも言える。Images
     中国に低姿勢の日本マスコミは遠慮して詳細を報道しなかったが、虐殺事件後、国際人権団体などの発表では、天安門広場で死者1万人程度、それ以外の場所を含め計2万人が虐殺されたといわれる。
      しかしながら、2008年1月24日、NHKは「クローズアップ現代」という権威ある番組で、天安門事件の大虐殺がなかったと報じたのだhttp://youtu.be/C-8a255cx5c 
     NHKは、中国当局と取り引きした工作員の意見をそのまま放送するようなところであり、 NHKは、この本のことはまず取り上げないだろう。
     かつての放送と矛盾するからだ。Images_1
     事実を下段の動画でシッカリと確認して欲しい。
     このような国に、日本の国会議員は大挙して教えを請いに出掛けていたことは記憶に新しいが、今も赤い国・中国になびく、大手マスコミや有名知識人は多い。

     それから、共産革命には暴力、虐殺必ず伴うもので、共産党政権移行後も政権維持のためには、このような大虐殺と暴力は当然のごとく、日常的に行われることを覚悟すべきだ。文化大革命では3千万人以上を殺したのだから、2万程度では驚くことはないとも言える。
     日本の知識人、インテリ、マスコミ人には、まだ、このような共産主義国にあこがれを持つ人が多Photo_2い。
     それから、暴力革命を標榜する日本共産党も同様だ。
     「衣の下に鎧が見える」と、よく指摘されている。
     もっとも暴力が伴わない革命など聞いたことがない。
     虐殺は必ず伴う。
     http://www.jcp.or.jp/jcp/Koryo/index.html
     今は「確かな野党」などと甘い言葉で国民を引きつけ、革命を行う環境の醸成と党員拡大などの実力を蓄えているところだ。
     ゆめゆめ「共産党を甘く見るなかれ」、表と裏がハッキリしている党だ。
     それは誕生の歴史をみればハッキリする。
     スターリン率いる国際共産党(コミンテルン)の日本支部として発足した恐ろしい党だ。
     自主独立路線などと言いながらも、党名要綱には強い拘りを持っている。
    http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/nikkyoukako.htm
     身ぶるいするほど恐ろしいことだ
     こんな政党にも、日本国民の5%前後の支持者がいる。
    http://81.xmbs.jp/piroshigogo-222215-ch.php?guid=on
    ■共産党が日本国内に張り巡らせた大衆組織 が存在する。
     http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-e469.html

    劉剛(リュウガン)氏
     1961年生まれ。吉林省遼源出身。1982年に名門・中国科学技2009術大学を卒業後、北京大学物理学部修士課程に入学、「オルグのプロ」として頭角を現す。天安門事件では王丹、ウーアルカイシに次ぐ名簿第三位で指名手配。1989年6月、逃亡先の河北省保定で駅員に通報され、拘束。政府転覆の罪状で6年間の服役中、不屈の抵抗を続け、「秦城監獄の鉄血の男」の異名をとる。満期出所後、香港の活動家の支援で1996年4月30日、アメリカに亡命。

    ■中心人物の一人の「証言」「天安門のパンドラ」発売2010年4月16日
     中国の民主化運動が血の弾圧を受けた1989年の天安門事件について、首謀者の一人とされた元学生活動家の「証言」が日本語に翻訳され、「天安門のパンドラ」(扶桑社)として16日発売される。
     惨劇の序曲となった80年代半ばの中国民主化運動や、活動家の獄中での抵抗ぶりが、著者の体験に基づく実録小説として初めて生々しく描き出されている。作品を執筆したのは北京大学物理学部の大学院生だった劉剛氏。
     事件に絡む中国当局の指名手配リストでは、王丹ウアルカイシの両学生リーダーに次ぐ重要度3位に挙げられ、中国での逮捕、投獄を経て、96年に米国へ亡命した。
     今回の作品は、天安門事件から20年を経た昨年、香港で出版され、中国の民主化に関心を持つ人々の間で注目を集めていた。
     劉氏は、「フリーダム」(自由)をもじった「符瑞(フルイ)」の名で、作品の主人公として登場。北京大学を舞台とした「民主サロン」や、当局の選挙干渉との戦いなど、民主化運動の内幕を、運動の渦中にいた当事者ならではの筆致で再現した。
     米東部ニュージャージー州在住の劉氏は、「私の回想談にとどまらず、いくつかのフィクションを交える小説的な手法を取ることで、事件を知らない若い世代に天安門事件の悲惨さを伝えたかった」と語った。「天安門のパンドラ」については、天安門事件を現場で取材した本紙の伊藤正・中国総局長が5月1日発売の月刊「正論」(6月号)で、詳しく解説する。 

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    中国・人民解放軍は何をやってきたのか
     
    日米関係への影響も懸念された国会議員を含む総勢620名以上での訪中の折、民主党・小沢幹事長が自らを「人民解放軍の野戦軍司令官」に例えた、その「人民解放軍」とはそもそもどのような組織なのか?日中情勢について言論活動を展開しておられる評論家の石­平氏をお迎えし、実質的に国軍であるとはいえ、あくまでも共産党の軍事組織で匪賊がルーツであるという成り立ちや、チベット、インド、ソ連、ベトナム、そして天安門事件など、国内外で戦乱や弾圧を繰り返してきた。

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    詩人・尾崎喜八の自註詩集

     普段、詩集なるものに目を向けることは殆どない。
     それが数日前、尾崎喜八が立川市ゆかりの人と紹介した手前、少し読んでみた。 http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-0554.html

     白樺派の詩人・尾崎喜八(明治25年1月31日~昭和49年2月4日)は東京市京橋区生まれだが、父親の尾崎喜三郎は立川・砂川村生まれだ。
     砂川村の尾崎家は本家にあたり、空襲で家が焼失してから21年6月に信州八ケ岳の麓、富士見村に転居するまでの約1年、砂川村の尾崎家に住んでいた。
     富士見の分水荘には7年間住み、晩年は鎌倉で暮らし鎌倉で亡くなる。享年82歳。あじさい寺で知られる北鎌倉・明月院に眠る。
    Image0010_2
     立川市若葉町3-54−5蕎麦屋「おざき」の店主・尾崎好司氏は尾崎喜八の甥に当たる。
     同居していた当時のことをいろいろ教えてくれた。
     下段に掲載した詩二点は、「自註 富士見高原詩集」の冒頭に載せているものだが、尾崎喜八が砂川村(現・立川市)に身を寄せていたときに詠んだものと思われる。
     「自註 富士見高原詩集」は1969年(昭和49年)発刊のようだが、「自註」というタイトルのとおり、作者自身が注訳をつけて、その時々の心境を告白している。Dscn3818
     右の写真は、著者撮影とあるが立川や小平付近の玉川上水沿いの山林と酷似している。父親の生家・尾崎家の屋敷森の可能性が高い。カラー写真は最近の写真だ。
     この「告白」と「本国」の注訳には
     「私は元来人間の幸福と平和とに捧げるべき自分の芸術を、それとは全く反対の戦争というものに奉仕させたおのれの愚かさ、思慮の浅さを深く恥じた。」
     と戦争に奉仕し協力したことを反省している内容だ。
     これには若干の説明がいる。
     尾崎喜八は、戦時中発行した詩集、「同胞とともにあり」、「この糧(かて)」のほか軍歌も何作かあり、詩という文学を通して日本軍人を激励したことを反省しているのだ。
     これにも前置きが必要で、当時、軍歌や小説、漫画などで戦争を支援した人達は殆どが、GHQから戦犯扱いされたことにある。
     ただ、尾崎喜八が戦犯に指定された形跡は全くない。
     なにも、反省し、自己懺悔(ざんげ)する必要は全くないのだが・・・・・・
      
      尾崎喜八文学館http://kihachi.at.infoseek.co.jp/

    ■尾崎喜八 自註「富士見高原詩集」から抜粋   
     告白
    若葉の底にふかぶかと夜をふけてゆく山々がある。
    真昼を遠く白く歌い去る河がある。
    うす青いつばさを大きく上げて
    波のようにたたんで
    ふかい吐息をつきながら 風景に
    柔らかく目をつぶるのは誰だ。
    鳥か、
    それとも雲か。
    疲れているのでもなく 非情でもなく、
    内部には咲きさかる夢の花々を群らせながら、
    過ぎゆく時を過ぎさせて
    遠く柔らかに門をとしている花ぞの、
    私だ。

     祖国は戦争に敗れた。
     物質の上でも、精神の面でも、無数のもの、さまざまなものが崩壊した。いわゆる「銃後」の国民の一人として、詩という仕事によっていささかでも国に尽くしたいと思った私の念願も、『此の糧(かて)』や『同胞と共にあり』の二冊のささやかな詩集と一緒に今はむなしい灰となった。
     その無残な荒廃の跡に立って、私は元来人間の幸福と平和とに捧げるべき自分の芸術を、それとは全く反対の戦争というものに奉仕させたおのれの愚かさ、思慮の浅さを深く恥じた。
     私は慚愧と後悔に頭を垂れ、神のような者からの処罰を待つ思いで目を閉じた。そしてもしも許されたなら今後は世の中から遠ざかり、過去を捨て、人を避けて、全く無名の人間として生き直すこと、それがただ一つの願いだった。
     そんな時、終戦の翌年の春の或る夜、ふと私からこの詩が生れた。起死回生の勢いも潔さも見られないが、それはこの場合当然な事であり、むしろ悪夢から覚めた詩人の良心の、まだどことなく頼りない、音をひそめた最初の歌のしらべだと言うべきであろう。
    本国
    私には ときどき 私の歌が
    何処かほんとうに遠くからの
    たよりではないかという気がする。
    北の夏をきらきら溶ける氷のほとりで
    苔のような貧しい草が
    濃い紫の花から金の花粉をこぼす極北、
    私の歌はそこに生れて
    海鳥の暗いさけびや 海岸の雪渓や
    森閑と照る深夜の太陽と共に往むのか、
    それとも空一面にそよかぜの満ちる
    暗い春の夜な夜なを
    天の双子と獅子とのあいだに
    あるとしもなく朧(おぼろ)に光るペルセペの星団、
    あの宇宙の銀の蜂の巣、
    あそこが彼の本国かと。

     この詩も本質的には前の作品と同じ種類のものと言えよう。
     誰からも離れて、おそらくは誰のとも遠った現在の心境で、たった一人、ふと湧いたこんな思いを筆にするのが、はかない喜びでもあれば慰めでもあった。
     進んで交わる友は無くても、昔ながらの「詩と真実」の自然だけは私のために残っている。出来た詩が自分でも住い物のように思われる時、そこにはいつでも愛する自然がその本国として遠く横たわっているような気がするのだった。
     第二聯に見られる「北」と「きらきら」、「氷」と「苔」、「海鳥」と「海岸」、「森閑」と「深夜」などのような類音は、半分は私の癖としてひとりでに、半分は意識的に出来たもの。
     また「天の双子と獅子」は、両方共に冬から春にかけて晴れた夜空を飾る美しい星座の名である。  
     戦災で家を失った私は、妻を連れて一年間、親戚や友人の家から家へ転々と居を変えた。どこでもみんな親切にしてくれたが、それでももう生れ故郷の東京に住む気はなく、どこか遠く、純粋な自然に囲まれた土地へのあこがれがいよいよ募った。
     ところがちょうどその時、或る未知の旧華族から、長野県富士見高原の別荘の一間を提供してもいいという好意に満ちた活か来た。私の心は嬉しさにふるえ、思いはたちまちあの八ガ岳の裾野へ飛んだ。

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    2010年4月15日 (木曜日)

    真壁仁は尾崎喜八の弟子

     「真壁仁」、山形県人なら皆さん知っている名と思う。
     たしか「」は教科書にも載っていたはずた。
     全国なのか、山形だけなのかは知らない。

     しかし、この「真壁仁」の師が尾崎喜八で、尾崎喜八の師が、道程で知られる高村光太郎とまで知っている人は少ないと思う。
     という小生も、尾崎喜八が立川市ゆかりの人と知ってからのことで自慢できる話ではない。この三人に共通しているのは、詩が分かりやすいことだと思う。
     あまりにも文学的で比喩にとんでいると、凡人の頭ではついて行くことが出来ない詩が多い中で、素直に心に入ってくる詩が多いと思う。
     コメントする力はないが、リズムを感じる。

     真壁仁(まかべじん)(1907~84年)の本名は仁兵衛。
     山形市宮町出身の農民詩人だ。
     代表的詩集に『青猪の歌』、『日本の湿った風土について』、『日本現代詩文庫・真壁仁詩集』がある。校歌の作詞も多く、鶴岡東高等学校の校歌も作詞している。
     生涯山形の地から詩の発表を続け、山形市教育委員、農業委員等を歴任した。
     思想的には左に傾いていて、農民運動や生活綴方教育運動で検挙されたこともあるが、これは差し置いても、いい詩を残していると思っている。
     この「東北判官贔屓考」(『みちのく山河行』所収)は幾度も読ませてもらった。
    http://www.touhoku.com/00x-11-05mh-hoganbiki.htm

     有名な「」は1947年に発表している。
     人生の区切り区切りには、この「」を思い出す。

    Photo_4

         真壁 仁
    峠は決定をしいるところだ。
    峠には訣別のためのあかるい憂愁がながれている。
    峠路をのぼりつめたものは
    のしかかってくる天碧に身をさらし
    やがてそれを背にする
    風景はそこで綴じあっているが
    ひとつうしなうことなしに
    別個の風景にはいってゆけない。
    大きな喪失にたえてのみ
    あたらしい世界がひらける。
    峠にたつとき
    すぎ来しみちはなつかしく
    ひらけくるみちはたのしい。
    みちはこたえない。
    みちはかぎりなくさそうばかりだ。
    峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
    たとえ行手がきまっていても
    ひとはそこで
    ひとつの世界にわかれねばなちなぬ。
    そのおもいをうずめるため
    たびびとはゆっくり小便をしたり
    摘みくさをしたり
    たばこをくゆらしたりして
    見えるかぎりの風景を眼におさめる。


    鶴岡東高等学校校歌(旧 鶴商学園高等学校・鶴岡商業高等学校)
    作詞 真壁  仁
    作曲 福井 文彦

    さくら花咲く赤川の岸
    学園の窓に 春の日映えて
    あかるくむすぶ 友愛の環よ
    ここにひらく 真理のとびら
    ここにちかう 自主と平和
    ああ われら若く ともにまなぶ
    栄光胸に 今日もつどう

    茜ただよう月山の嶺
    学園の窓に 希望を染めて
    はるかに誘う 登高のみち
    ここにさぐる 歴史のあゆみ
    ここにそだつ 技と力
    ああ われら若く ともにまなぶ
    よろこび胸に 今日もうたう

    道程」  高村光太郎
    僕の前に道はない
    僕の後ろに道は出来る
    ああ、自然よ
    父よ
    僕を一人立ちにさせた広大な父よ
    僕から目を離さないで守ることをせよ
    常に父の気魄を僕に充たせよ
    この遠い道程のため
    この遠い道程のため

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    「文春」と「新潮」本日発売日

     毎週木曜日は、「週刊文春」と「週刊新潮」の発売日だ。

     この雑誌社はいずれも老舗であり、ともに「新聞・テレビが書かない記事」を書く週刊誌というスタンスで信頼性が高い。
     もし、これらの雑誌社まで、共産党や社民党などの左翼政党、創価学会などの宗教団体、右翼や暴力団、日教組、また日本を敵視する外国におもねるような記事を書くようになったら、それこそ日本はおしまいと感じるだろう。
     また、「週刊現代」や「週刊ポスト」が女性ヌードを掲載して売り上げを伸ばしたあとも、「女性ヌード」はなく、通勤時など人前でも安心して読める雑誌だ。

    ■「週刊文春」
      発売日:毎週木曜日。価格:350円
      http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/
    鳩山総理にアメリカが音を上げた「バカが専用機でやって来た」

    100422

    ■「週刊新潮」
     発売日は毎週木曜日、価格は320円。
        http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/
    「亡国の小沢一郎」反旗を翻した元筆頭秘書の証言
     [第1回]「小沢一郎が倒れた朝」
       支持率28%!! 鳩山政権「墜落警報」

    20100415

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    2010年4月14日 (水曜日)

    新撰組の「副長助勤」とは

     「副長助勤」(じょきん)のことを、ようやく知った。
     
     新撰組関係の本や映画、ドラマには、「副長助勤」という役職か階級のような名称が出てくる。ウィキペディア(Wikipedia)でも「副長助勤」とは、壬生浪士組、及び新選組内の位。 通常は、局長、副長に次ぐ三番目となる。とあるがそれ以上の説明はない。

     この「助勤」とは、面白い言葉を使うものだと常々思っていたが、ようやく解決することが出来た。これは40年来の悩みだった。
     助教授、助教の意味と大して変わらないようだ。
     司馬遼太郎の「街道をゆく」の「神田界隈」を読んでいたところ、「寒泉と八郎」の項で紹介されていた。八郎とは、庄内藩出身の清河八郎のこと。

     司馬遼太郎は、文中で、
     「舎長の下に、助動がいる。助勤が昌平黌(しょうへいこう)のみに存在した内規上の用語だ61kstdkgg6l__ss500_ったことを知った。幕臣の子弟は寄宿寮に入る。」と、自らもこのとき知ったことを紹介し、「助勤」という用語が新選組に流入したのは、この清河を経たのではないか。清河が、新選組の前身の新微組の組織者のひとりだったことをおもえば、この連想はほぼまちがいはなさそうである。
     と説明している。
     まあ、同じことで悩んでいたことに共感しただけだ。
     清河八郎の天才ぶりは、このような全く新しい組織づくりにも発揮していた。

    ■司馬遼太郎の「街道をゆく」の「神田界隈」、「寒泉と八郎」の項抜粋
     私は、以前、新選組における「副長助勤」ということばの来歴について調べあぐねたことがある。「助勤」は、国語辞典にも漢和辞典にもなかった。
     結局、幕末の天誄組の総裁のひとりだった松本奎堂(1831~63)の資料で知った。奎堂は三河刈谷の人で、藩から推されて昌平黌に入り、舎長になった。
     舎長の下に、助勤がいる。
     助勤が昌平黌のみに存在した内規上の用語だったことを知った。
     幕臣の子弟は寄宿寮に入る。
     しかし松本奎堂のような陪臣(諸藩の士)は、書生寮に入る。書生寮はみどとな自治制で、書生たちのあいだで役掛りがきめられるのである。舎長は自治会会長とおもってよく、その舎長を補佐する者として、「助勤」二人がいたのである。
     『旧事諮問録』(青蛙房刊)の石丸三亭の遺談(明治24年11月)によると、自治制とはいえ、お扶持が出たという。舎長は五人扶持、前前は三人扶持であった。
     出羽の人請所八郎(1830~63)は、安政元(1854)年、昌平黌に入り、ほんの一時期ながら、書生寮にいた。「助勤」という用語が新選組に流入したのは、この清河を経たのではないか。
     清河が、新選組の前身の新微組の組織者のひとりだったことをおもえば、この連想はほぼまちがいはなさそうである。
     松本奎堂は昌平黌を出たあと、名古屋で塾をひらいていたが、「文章詠歌は畢竟是泰平の余技のみ」と、書をすてて風雲に投じ、大和の鷲家口で幕軍にかこまれ、闘死した。
     清河八郎は江戸麻布一ノ橋で、幕吏のために殺された。
     ちなみに岡田寒泉の生涯は泰平のめでたさというべきものだった。74歳、老齢を理由に致仕し、妻女をすでにうしなっていたのか、横山町の長男真澄(国学者)にひきとられ、二年あまり老を養って死んだ。

    局長 近藤勇  副長 土方歳三
    副長助勤  沖田総司 永倉新八 原田左之助 井上源三郎 山崎烝 山口二郎(斎藤一)
    監察方 大石鍬次郎 吉村貫一郎 安藤勇次郎 村上清 尾形俊太郎
    勘定方 岸島芳太郎 大谷勇雄 安富才輔 中村玄道

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    「薩摩藩邸焼き討ち」事件のこと

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     最近、坂本龍馬気もあり、明治維新や幕末のことに関心を持つ人が多い。
     まず、幕末の事件で忘れてならないのが「薩摩藩邸焼き討ち事件だが、相当に歴史好きの方もあまり関心を払っていないところがある。
     見方によっては池田屋事件(元治元年6月5日(1864年7月8日)より大きな事件だ。
     焼き討ちは幕末1867年、慶応3年12月25日のこと。
     この事件が戊申戦争の発端とみていい。
     坂本龍馬の暗殺が慶応3年11月15日だから、この50日前のことだった。
     そして
     明治元(1868)年1月3日、幕府軍は「討薩の表」を掲げ「鳥羽、伏見の戦い」勃発
     しかし、翌日4日には、薩長軍側が「錦の御旗」を掲げ、戦局は一変した。
     このように、明治維新の流れが急加速した事件だ。
     幕末、庄内藩による「薩摩藩邸焼き討ち事件」のことは教科書にも載っている大事件だが、新政府に力点を置いた本、教科書などの文書では、何か「庄内藩」が悪いことをしたような記載もあるが、それは全く逆だ
     それは『ウィキペディア(Wikipedia)』の取り上げ方にも現れている。
     当時、庄内藩は会津藩と並ぶ佐幕派の双壁といわれ、「江戸市中取締り役」にあり、薩摩藩過激派の取締りを担当していた。
     
     革命を目指す過激派は、どこの国も同じような手段・方法をとるもので、国の重要施設の破壊、要人暗殺、放火、軍資金目的の強盗を多発させて、体制を混乱させ信頼を貶め、人心を撹乱させる。
     ロシア革命、フランス革命等々、似たような事件が続発し内乱状態にしている。Ss_a_2
     明治維新がさほど血が流れなかったようなことを喧伝しているが、実際は多くの事件、内乱が発生し、戊申戦争を含めた維新での死者は、官軍、佐幕軍合わせて、約8千名と言われる。
     れっきとした革命だった。
     簡単に「平成維新」などと使って欲しくないものだ。

     さて、打倒幕府の急先鋒にある薩摩藩も同様に、江戸の街で悪事の数々を繰り返していた。挙げ句には取締り役の庄内藩兵詰め所に銃弾を撃ち込むなど幕府を挑発した。 
     過激派主要メンバーは薩摩藩士・益満休之助と浪士・相楽総三に率いる浪士組約五百名だが、過激派のアジトは薩摩藩邸にあり、首謀の責任者は西郷隆盛だった。
     ついに、腹を据えかねた江戸取締り役にある庄内藩は、薩摩藩邸の焼き討ちを行う。最近で言うなら、オウム真理教の富士山麓、上九一色村の教団本部施設に対する強制捜査のようなものだ。
     そのくらい薩摩藩は江戸の街で悪いことをしたのだ。 
     このとき、庄内藩千名の総大将として、他藩を率いて戦闘を指揮したのが、庄内藩中老・石原倉右衛門(1827~1868)だった。この事件の死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64人、旧幕府側では上山藩が9人、庄内藩2人の計11人であった。
     石原は、戊辰戦争勃発の幕開け役を演じた人となる。
     戊辰戦争の後、各藩の戦争責任者の訴追が行われたが、庄内藩は石原倉右衛門に戦争の全責任を負わせている。
     庄内の人は忘れてならない恩人だが、戊辰戦争中、新潟で戦死しており、あまり知られていない。西郷隆盛が、戦争後、庄内藩に寛大な措置をとったのは、江戸での数々の悪事との引き換えだったという見方もできる。

     下段絵図の松平修理太夫とあるところが、薩摩藩邸江戸屋敷があった場所。
     芝公園の南側、三田駅の北西にあった。

    Photo_6

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    「新宿・歌舞伎町」はなぜ栄えた?

     日本一、いや世界一の繁華街、新宿・歌舞伎町がなぜ栄えたのかを考察したい。Photo_4
     やや長文となる。よって、関心の薄い方は別のサイトに移動して欲しい。
     地の利が良く、交通の利便性、飲料水が十分に確保された地は自動的に栄える。(他に気候や安全等もあるが・・・・)この諸条件を宿場町「内藤新宿」は、全てを合わせ持っていた。
     家康が江戸入城し、家臣の内藤清成がこの辺りを拝領し、甲州街道沿いにしい宿場が浅草町人によって開かれた。
     信州高遠藩・内藤家の下屋敷は「新宿御苑」となった。
     江戸城からほど近く、1653年には玉川上水が流れた。
     玉川上水の終点は「四谷大木戸」(現・四谷四丁目交差点)だが、甲州街道が延び、一つ目の内藤新宿は栄えるべくして栄えた。
     そして、人が集まり賑わえば遊女も必要になる。
     今も昔も同じ、自然の摂理、需要と供給の関係ともいえる。
     「岡場所」(非公認の売春宿)」と呼ばれる女郎屋街だ。
     江戸の「岡場所」は宿場町、品川、新宿、板橋、千住(コツ)の四宿だが、それぞれ繁盛した。
    Naitoshinjyuku_relief
     内藤新宿は、現在では甲州街道と新宿通りが交差する辺りを言うが、実際は点ではなく、線の地域のようだ。
     右の模型写真は上が四谷方向、右が玉川上水、丁字路が追分であろう。
     昔は、「追分」辺りが内藤新宿の中心だった。
     岡場所の客筋は、
     旅人、江戸住人は勿論、近郊の農民、それに、杉並・堀之内の妙法寺参詣帰りに明るいうちから寄る客も多かったという。また、現在の四谷四丁目交差点にあった「四谷大木戸」が宵四つ(午後10時)に閉められるので、泊まり客が多かった。
     江戸城勤番の武士が遅刻しないよう、「追い出し鐘」も準備されていた。
     明治以降にも触れる。
      明治新政府は1872(明治五)年「人身売買禁止」と「芸娼妓解放令」を出したが、遊女達は行き場がない。
     そこで東京府は、旅寵屋に限定し「賃座敷」という遊女屋を認めた。
     1875(明治8)年当時、内藤新宿には37軒の貸座敷があり娼妓は200人近くいた。
     明治に入り新たな公娼制度が始まったことになる。
     明治12年ころの記録では、公認の遊郭は、吉原、根津、品川、新宿、千住、板橋の5ヶ所になっているが、根津遊郭は東京帝国大学が本郷に出来ると教育上まずいという理由で、明治21年東陽町洲崎に強制的に83軒が移転させられている。
     
     話は内藤新宿のことに戻るが、
     1918(大正7)年、甲州街道沿いから遊女屋(賃座敷)が、警視庁の命により牛屋の原(現在の新宿二丁目)に移された。
     その結果、四谷大木戸(現在・四谷四丁目交差点)から追分にかけて点在していた53件の賛座敷が、牛屋の原にまとめて引っ越した。
     花園神社は移転前からあった。
     この移転が、一大歓楽街誕生の切っ掛けになったとされる。
     交通機関のことにも触れるが、
     大正当時は新宿駅周辺はまだ閑散としていていた。
     まだ、新宿の中心は追分付近で京王線の終点は追分にあった。
     都営新宿線「新宿三丁目駅」横の「京王新宿三丁目ビル」が京王本社ビルだったが、東京空襲後西口に移った。Image0010大正から昭和初期は、神楽坂が山の手一の繁華街だったが、昭和4年頃になると新宿がその座を奪った
     ※右写真は昭和8年頃の追分付近。

     その理由は、関東大震災で新宿はあまり被害を受けなかったことと、交通の利便性が格段に向上したことにある。まず、山の手線、甲武鉄道、京王電鉄は開通していたが、更に、昭和元年に西武鉄道電車、昭和2年に小田急が開通し新宿の集客は一層高まった。
     遊郭のことに戻ると、
     戦後、GHQから「日本における公娼制度廃止に関する連合国最高司令官覚書」が出され、警視庁は1946(昭和21)年、公認の売春地帯を指定し、そこを赤線で囲んで営業を許可した。
     これが「赤線」のいわれだ。
     新宿二丁目の赤線も、このとき指定されもので、風俗営業の許可を受けた警視庁公認の私娼地域となった。
     また、新宿二丁目に隣接した現在の歌舞伎町辺りは非合法の売春地帯で「青線」と呼ばれ、ここでは娼婦が800人を超えていたという。

      更に1958(昭和33)年、売春防止法が施行されると、新宿二丁目の赤線は、飲食店、旅館、喫茶店、ヌードスタジオ等に商売換えすることになった。
     そして、売春家業として、徐々に隣接した歌舞伎町に足場を移して続けられ、現在の歌舞伎町が「性風俗の街」となったとされる。

     新宿・歌舞伎町の賑わいは、江戸の「内藤新宿」から始まったわけだが、移転先の決定、私娼の公認など警視庁が歌舞伎町の形成に深く関与している。
     警視庁は、この地の治安維持に責任を果たしたいと考えているとされる。
     例年、年末には、警視総監が陣頭指揮でパトロールする姿が報道されるが、これも治安責任を果たす心意気の一つと見ている。

    警視庁四谷警察署ホームページhttp://www.keishicho.metro.tokyo.jp/4/yotsuya/pb/pb.htm
     四谷警察署の管轄区域を確認すると歌舞伎町1丁目一部を含め、新宿1~5丁目ほか、内藤新宿側を管轄していることがわかる。
     つまり、新宿警察署の管轄は歌舞伎町側となる。

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    2010年4月13日 (火曜日)

    「Robot/Tool」のアクセス

     先月末から、不自然なアクセスがあるので調べてみた。
     ブログの「アクセス解析」の端末に「Robot/Tool」と「en (English)」が出た。
     これによって、不自然なアクセスの伸び方をしているのに気づいた。

     調べると、「検索ロボット」が巡回してきた形跡らしい。
     実際に訪問した生の「人間」がブログの頁をアクセスしてる訳ではない。
     「Robot/Tool」という「検索ロボット」によってアクセスカウンターが伸びるという。ブログをバカにしているようなものだ。
      別に、アクセスを伸ばす理由も必要性も全くない。

     ブログでは、「民主党政権批判」や隣国の「韓国」や「中国」に対する意見を記載することもあるが、このような意見に対してスパイロボットが敏感に嗅ぎ回ることもあるらしい。
     そういえば、左翼右翼、暴力団、日教組韓国、北朝鮮、中国などの言語に、敏感に反応していることを分析することができる。

     アクセスが多いと思っているブログやホームページも、ぬか喜びしていないで一度調べてみたらいい。このほかに「企業に対する誹謗中傷ブログの発見等」のリスク情報を探し出すサービスもあるという。
     恐ろしいネット社会になっている。
     きっと、それなりの情報を求めている、国家、会社、組織に売っているのだろう。
     とりあえず、
     解析の対象から外したが、何か釈然としないものが残る。
     何か根本的対策はないのだろうか。 
     このようなことは、コンピューター会社も一体になっている可能性が高い。
     迂闊に意見も言えない。
     監視社会が到来している可能性もある。


    FAQ:「Robot/Tool」って何?
     生ログでしばしば表示される「 Robot/Tool 」は、ブラウザから取得する環境変数である「 HTTP_USER_AGENT 」が、Internet Explorer (以下 IE )、Netscape Navigator  (以下 NN )、Opera、Safari、携帯電話などと推測される文字列を含まず、検索エンジンのロボット、巡回ソフトと推測される文字列を含む場合に識別されます。
     これらに該当しない場合は「 Unknown 」となります。
     例えば、Opera の場合は"Opera"という文字列が含まれ、IE の場合は"Opera"という文字列は含まず"MSIE"という文字が含まれ、NN の場合は"Gecko"という文字列を含みます。
     検索エンジンのロボットの場合は"Googlebot"のような文字列が含まれ、巡回ソフトの場合は"WebAuto"のような文字列が含まれます。
    ◆HTTP_USER_AGENT の例
    ●Opera
    Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; ja) Opera 9.00
    ●IE
    Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1)
    ●NN
    Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja-JP; rv: 1.7.12) Gecko/20050915
    ●検索エンジンのロボット
    Mozilla/5.0 (compatible; Googlebot/ 2.1; +http://www.google.com/bot.)
    ●巡回ソフト
    WebAuto/3.31 (WinNT; I)
     HTTP_USER_AGENT はブラウザの種類やバージョン、使用 OS によって異なります。検索エンジンのロボットと巡回ソフトについても検索エンジン・巡回ソフトの種類やバージョンによって異なります。
     レポートメニューの生ログにある「ユーザーエージェント」が実際にブラウザ・ロボットから取得した HTTP_USER_AGENT になります。

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    「となりのトトロ」は大鷹の化身

     最近、オオタカを見る機会が幾度あった。M2
     先日は巣と思われるものも発見した。
     場所はここには書かない。
     不用意に接近したりする不心得者が必ずいるからだ。

     また、別の日のことだが、帰宅すると妻が「大きな鳥が鳩を捕まえて庭に降りてきた」と興奮ぎみに言う。
     「それはオオタカだろう」と答えつつ、ネットでオオタカの写真を見せると、「これだ」と指を指す。
     ここ東大和市の多摩湖界隈は、オオタカの飛ぶ姿を良く見かける。
     オオタカは比較的人里近くに住む絶滅危惧種に指定されている希少動物だが、絶滅は本当かと思うときもある。
     オオタカは狩りの名人で、鳩やカラスも対象にしている。
     また、宮崎駿監督によるアニメ映画「となりのトトロ」の「トトロ」はオオタカの化身であることは知られていると思う。Photo_2
     「オオタカ」の胸辺りが「トトロ」とよく似ている。

     確か、宮崎監督は埼玉県所沢市に住んでいて、散歩コースの八国山「淵の森」辺りが「となりのトトロ」のイメージが湧いた場所と聞いている。
     宮崎監督もこの辺りでオオタカの姿をよく見かけたのだろう。Totoroc800_600
     
     付け加えると、保生園(現・新山手病院)はサツキとメイの母、草壁ヤス子が入院していた結核療養所だが、八国山の東村山市側にある。
     鶴岡市出身の作家・藤沢周平も若い頃ここに入院していた。
     この辺りで、作家としての素養を培ったそうだ。
     

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    2010年4月12日 (月曜日)

    坂本冬美「また君に恋してる」

     携帯に、この曲をダウンロードした。
     アイポットにもいれた。実に癒される。演歌も捨てたものではない。
     今日はニュース番組にも坂本冬美が出演し、この歌を唄っていた。
     報道番組で唄うとは異例のことだと思う。
     ニュースになるくらいにヒットしている。

    また君に恋してる
            歌手:坂本冬美、
            作詞:松井五郎、作曲:森正明51mkyleio8l__sl500_aa300_

    朝露が招く 光を浴びて
    はじめてのように ふれる頬
    てのひらに伝う 君の寝息に
    過ぎてきた時が 報われる

    いつか風が 散らした花も
    季節巡り 色をつけるよ
    また君に恋してる いままでよりも深く
    まだ君を好きになれる 心から

    若かっただけで 許された罪
    残った傷にも 陽が滲む
    幸せの意味に 戸惑うときも
    ふたりは気持ちを つないでた

    いつか雨に 失くした空も
    涙ふけば 虹も架かるよ
    また君に恋してる いままでよりも深く
    まだ君を好きになれる 心から
    また君に恋してる いままでよりも深く
    まだ君を好きになれる 心から

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    岡場所「富岡八幡宮」界隈

     岡場所は土地柄を反映し、客層に特色があった。
     「谷中いろは茶屋」は天王寺門前(台東区谷中7丁目)にあり、坊主客が多い。
      「我が山の 鐘で谷中の 憂き別れ」とある。
      坊さんは谷中で葬儀の仕事があると、代わりの者に回すことは無かったという。
      葬儀や法事の帰りに、立ち寄る楽しみがあったのだ。
      谷中いろは茶屋は、生臭さ坊主、エロ坊主で持っていたそうだ。
        鬼平犯科帳「谷中いろは茶屋」では、木村忠吾が菱屋のお松に夢中になった。
     さて、忠吾、恋路の行方は?
     「根津門前」は根津神社の門前にあって大工などの職人が多い。
      「さしがねを 預けてあがる 根津の客」
      「根津の客 まあ腹掛けを 取ンなまし」
      とある。根津は「不寝」と書かれた文書もある。
     深川「富岡八幡宮門前」は、木場の番頭、新川の酒問屋や米問屋の手代多い。
      「前垂れで 来る客とんで 深ばまり」とある。
     内藤新宿は明治通りと新宿通りの交差する「雷電稲荷神社」辺りにあった。
     杉並・堀之内の妙法寺参詣帰りに、昼の明るいうちから立ち寄る客が多かった。
      「妙法を かく新宿の 昼遊び」
      「新宿に 泊まるはこれ 妙法寺」
        「お帰りは 御祖師様だと 女房いい」
       妙法寺の信者は内藤新宿の町の発展に寄与した。
     四谷見附の「四谷大木戸」が夜閉められるので、泊まり客が多かったという。
     江戸城の勤番先に行く際に時間がかかるためで、追い出しの鐘があった。
     この鐘は今も保存されている。

     このように江戸の性は、詩や川柳にも残るように、実にオープンだった。
     それに比べ、現代でこのような詩や川柳に接することはない。
     社会全般に余裕がないのだろか。
     
     岡場所は、なぜか神社仏閣の門前で栄えたのか。この疑問は解けない。
     司馬遼太郎も不思議がっていた。
     富岡八幡宮の岡場所は、土橋、仲町、新地、石場、櫓下、裾継、 佃にあり、
    「深川七場所」と呼ばれ、最盛期には約500人以上の娼妓がいたという。
     富岡八幡宮は、「鬼平犯科帳」によく登場する。
     鬼平もよく訪れた場所だ。
     http://jibun.benesse.ne.jp/publisher/novel_map/01.html

    ■鬼平犯科帳「春雪」(池波正太郎)
     密偵・小房の粂八が亭主におさまっている、深川石島町の船宿「鶴や」で昼餉をすませた長谷川平蔵は、久しぶりで富岡八幡宮へ参詣しようとおもいたった。
     「それでは、私がお送りいたしましょう」
     粂八がみずから舟を出し、深川を縦横にめぐる堀川づたいに、永代寺門前町の船着場へ舟を着けた。あたたかい日和だし、八幡宮門前のにぎわいは格別のものであった。
    ■鬼平犯科帳「あばたの新助」(池波正太郎)
     平蔵は、この日の市中巡回を深川から本所方面にかけておこなうことにきめた。すっかり春になったことだし、夜半までぶっ通しに巡回するつもりなのである。
     嶋やから舟を出させた平蔵が、大川(隅田川)から深川・熊井町の堀川へ入り、いくつもの小橋の下をぬけ、富岡八幡宮・門前の蓬莱橋へ舟を着けさせたのは、八ツ半(午後三時)を少しまわっていたろうか……。
     例のごとく、編笠に着ながし姿の長谷川平蔵が舟からあがって、蓬莱橋たもとの舟着場へ立ったとき、(や……?)
      正面にみえる富岡八幡・二の鳥居をくぐり、こちらへやっ て来る

    Photo_3

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    スパイ防止法制定促進三多摩会議

     本物の「手打ちそば」が食べたくなり、久々に2010_4
     立川市若葉町3丁目54−5の蕎麦屋「おざき」042-535-3016に出かけた。
     店主の尾崎好司氏(72)は、詩人「尾崎喜八」の甥に当たる。http://kihachi.at.infoseek.co.jp/p-hanasakeru.html
     同氏は「明治神宮崇敬会立川支部長」、
    「立川市・手打ちそば作り教室の講師」、「立川市内官庁・日の丸常時掲揚運動推進」、「立川市路上喫煙制限運動」、「立川市議の定数削減」、 隣接地に「若葉町脳神経外科の誘致」等々を実現させる傍ら、「スパイ防止法制定促進の三多摩会議代表」として活躍している。Photo_7
     ただ、この「スパイ防止法」だけは実現の見通しが立っていないことから、「この眼の黒いうちになんとかしたい」と力説する。
     屋上に日の丸を掲げている純粋の日本人だ。

    詩人「尾崎喜八」とは、子供のころ同居していた当時の思い出を語るが紹介は次回にする。http://kihachi.at.infoseek.co.jp/
     次の情報は平成20年のことで多少古いが氏の活動を応援する意味で掲載する。

    ■「情報体制の確立を急げ~インテリジェンス戦争とスパイ防止法~」
     日本が危ない/緊急シンポジウム「情報体制の確立を急げ~インテリジェンス戦争とスパイ防止法~」が3月19日、東京・永田町の星陵会館において、同シンImage1_2ポ実行委員会の主催、国際勝共連合、世界平和連合、自主憲法制定国民会議、スパイ防止法制定促進東京都民会議などの共催で開かれた。
     暗躍するスパイの実態を報じたテレビ番組や北朝鮮による拉致問題を扱った映画『暗号名黒猫を追え!』の一部上映などの後、外交評論家の加瀬英明氏ら四人のパネリストによるシンポジウムが行われ、スパイ防止法の必要性や愛国教育の欠如などをめぐり、フロアを交え活発な意見が交わされた。
     参加者は約四百人。
    井上茂信氏】
     3月10日に東京大空襲のテレビドラマが放映された。
     日本があれほど国力の違う米国と戦争することになった要因の一つは、情報戦に敗れたからだ。当時の政府や軍部を北進(対ソ戦)から南進(対米英戦)へと方針転換させたのはコミンテルンの二人のスパイ、リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実だった。
     あの戦争で三百万人以上の犠牲者を出した日本は結局、スパイ戦争に敗れたとも言える。日本が戦後、その反省もなく、いまだにスパイ防止法が制定されないのは、日本の大きな欠陥である。
    加瀬英明氏】
     今の日本は国家の体をなしていない。昨年、海上自衛隊の下士官がイージス艦の情報漏洩で逮捕されたが、中国人と結婚している自衛隊の下士官は百人以上もいる。自衛隊員の社会的地位が低いので、日本の女性が結婚したがらないためだ。
     日本は国家意識を欠いてしまっているので、そこから立て直していかないといけない。憲法改正は基本問題の一つだが、少なくとも自衛隊員に名誉ある社会的地位を与えることがなければ、スパイ防止法があっても機密の流出を防ぐことはできない。
    菅沼光弘氏】
     謀略活動に対抗するには、命懸けで学び、経験を積まないといけない。
     拉致問題で騒ぎながら、我々は北朝鮮や金正日について何も知らない。
     情報を取るには命懸けで北朝鮮に潜入しないといけないが、それには愛国心が必要だ。愛国心なしにスパイ防止法を作っても機能しない。
     情報活動では国のために自分の命を捨てられるかが問われる。
     その基本にあるのが憲法だが、米国が作った憲法を墨守し、国の安全を米国に依存しているようでは、日本の自主性も独立もあり得ない。
     本来、独立回復とともに、占領中に作られた法律は全部変えなければならなかったが、それをしなかったツケが、今に続いているのである。
    鍛冶俊樹氏】
     米国防総省が3月3日に発表した報告書『中国の軍事力』は、中国のサイバー戦部隊について触れているが、米中サイバー戦争は既に始まっている。
     不思議なのは、日本がネット攻撃を受けなかったことだ。
     日本のインターネットの安全性が欧米より高いわけではないので、おそら<、中国は既に日本のインターネットには自由に侵入しているので、いまさら攻撃する必要はなかったのだろう。
     米国は日本は同盟国として大丈夫か、一緒に作戦ができるのか、不安を持っているはずで、日米安保条約は危ない段階にきている。
     日本のネットは無防備で、各企業レベルでファイアウオールを設けているくらいだ。情報戦争への備えを急ぐ必要がある。
    土屋敬之氏】
     北朝鮮は巧妙に日本にスパイ活動を仕掛けてくるが、スパイ防止法がないので、逮捕しても旅券法違反などの微罪ですぐに釈放されてしまう。
     北朝鮮の工作員は、『日本の警察など怖<ない、一番の敵は日本海の荒波だ』と言っている。彼らが目を付けた政治家に金を渡そうとして、断られたことはないことからも、日本がもう国家ではないことが分かる。
     スパイ防止法が必要と考えている議員なら、こうした集会に来て発言するべきだ。
     私は二年前、産経新聞に『スパイ防止法の制定を急げ』と書いた。
     私は公約にスパイ防止法の制定を入れているが、信念のある政治家を選ぶようにしないと、この国は立て直せない。
    一、日時 平成20年3月19日(水)午後6:30開会
    一、会場 星陵会館ホール
    一、シンポジウム
      ◎パネリスト
      加瀬 英明 氏(外交評論家) 
      鍛冶 俊樹 氏(軍事ジャーナリスト)
      菅沼 光弘 氏(元公安調査庁調査第二部長)
      土屋 敬之 氏(都議会議員)
      ◎コーディネーター 
      井上 茂信 氏(外交評論家)
    一、主催者挨拶
      ◎尾崎好司氏(スパイ防止法制定促進の三多摩会議代表)
      要望書
    一、現行の「国家公務員法」「自衛隊法」」等の更なる厳罰化とともに、機密保護に関する包括的な新法整備を行うこと。
    一、国家の安全保障にとって極めて重要な日本版NSC(国家安全保障会議)及び総合的なインテリジェンス機関を設置すること。
    一、国家の重要情報等に接する諸機関関係者への教育はもとより、将来の指導者育成等、国民一般の啓蒙も含め、総合的「インテリジェンス教育」を推進すること。
             平成20年3月19日

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    天皇家の不思議

     小和田雅子(おわだまさこ)様、川嶋紀子(かわしまきこ)様。
     すでに知る人ぞ知る不思議なことだ。
     偶然とはいえ、偶然すぎることだ。
     お二人が揃って皇室に入ることは運命だったのか。
            
           
     名前を並べて、互い違いに読んでみると、このようになる。
     余計なコメントは入れないことにする。
     日本人なら、各人それぞれの受け止め方があると思う。
     小和田家は、新潟・村上藩ゆかりの御出身だ。
     雅子様の健康回復と、愛子様の健やかな成長を願う一人だ。

    Photo

    ■皇太子徳仁親王妃雅子(1963年12月9日生まれ)
     旧名、小和田雅子(おわだ まさこ)。
     身位は皇太子妃、親王妃。
     お印はハマナス。勲等は勲一等。

    ■文仁親王妃紀子(1966年9月11日生まれ)
     秋篠宮文仁親王の妃。
     旧名、川嶋紀子(かわしま きこ)。身位は親王妃。
     お印は檜扇菖蒲(ひおうぎあやめ)。勲等は勲一等宝冠章。

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    鳩山内閣支持率20%台に転落

     鳩山内閣の支持率は、とうとう20%台に転落した。
     完全に国民から見放された数字だ。
     「普天間基地移転問題」、「子ども手当て支給」、「高速無料化」、「外国人地方参政権」等々、すべて無理があるテーマに縛られている。
     参議院選の政権公約は、身の丈にあったテーマを選ぶべきだ。
     日本テレビは4月9日から11日にかけて全国世論調査を実施した結果だ。
     鳩山内閣の支持率は28・6%、不支持は57・5%(同 50・7%)、普天間移設で迷走を続ける鳩山首相に国民はノウを突きつけたことになる。
     支持しない理由は41・3%が「政策に期待が持てない」、30・3%が「首相にリーダーシップがないから」となった。このまま政権の座にしがみつくなら参院選で大敗するだろう。

     政党支持率は
     「民主党」27・4%、
     「自民党」24・3%
     「みんなの党」は5・5%
     「公明党」4・1%、
     「共産党」3・1%
      政党支持率でも民主党と自民党が接近しているものの、自民は伸び悩んでいる。
     無党派層の多くは、「第三極」に支持を移している。
     内閣支持率の低下に合わせ、社民党と国民新党の支持も伸び悩む。
     参院選で連立与党が過半数を占めたい目論みも、消えている

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    2010年4月11日 (日曜日)

    詐欺同然の高速無料化

     高速を利用して東京から山形県酒田市辺りまで行くと、かつては往復二万円は覚悟していたが、今度の料金制度では、普通車で往復4千円で足りることになる。
     このような利用者には恩恵大だが、日本全般のことを考えると悠長なことを言っているわけにはいかない。
     問題の多い車種別の「上限料金制度」が発表された。  
     ポイント
    ▼休日上限千円を割引制度を見直し、曜日に関係なく上限料金を軽自動車千円、普通車2千円、中・大型車5千円、特大車1万円とする。
    ▼燃費1リットルで20キロ以上の燃費性能が高いエコカーは軽自動車と同料金
    ▼本州四国連絡道路は競合するフェリーなどに配慮し、上限料金を軽自動車2千円、普通車3千円に設定。
    ▼定額制の首都高速と阪神高速は、普通車500~900円、大型車千~1800円の距離別制に移行。
    ▼新料金は6月中に開始。ただしエコカー割引は7月以降、首都高速と阪神高速は年末以降の見通し。

    問題点
    「無料化」公約と逆方向
       民主党は高速料金無料化を主張してきたが、割引廃止で実質値上げとなり、公約とは逆に向かう。また、高速道路会社に投入した割引財源のうち1・4兆円を、新規路線の建設や4車線化工事に充てるという。
     これは「必要な道路は税金で造る」と主張していたことと矛盾する。
    公約は上限制ではなく原則無料化だったはずだ
      新制度では、上限料金は平日・休日とも普通車で2千円、中・大型車は5千円となる。このため、平日に長距離を走る利用者には値下げの恩恵が大きいものの、「休日上限1千円」などの現行割引は廃止となるため、休日利用者には値上げとなる。
      また今回の無料化は利用が少ない地方の37路線50区間だけ。総距離は2割で、財源不足から拡大は立たない。

    ■高速実質値上げ「詐欺も同然の公約違反だ 」2010.4.11 産経
     国土交通省は6月中の導入を目指す高速道路の新たな料金体系を発表したが、この内容だと鳩山政権は、公約違反どころか、詐欺と指弾されても反論はできまい。
     車種別に一定の走行距離を超えれば料金を据え置く「上限制」が採用された結果、近距離中心の利用者や、もっぱら週末に車で遠出を楽しむサンデードライバーなどには、むしろ実質的値上げになるからだ。新制度では、上限料金は平日・休日とも普通車で2千円中・大型車は5千円となる。このため、平日に長距離を走る利用者には値下げの恩恵が大きいものの、新料金の実施にあわせて「休日上限1千円」などの現行割引は、一部を除き原則として廃止される。
     そもそも民主党が昨年の衆院選で掲げた政権公約は、上限制ではなく原則無料化だったはずだ。ところが今回無料化されるのは、利用が比較的少ない地方の37路線50区間にすぎない。総距離でも全体の2割どまりで、財源不足から来年度以降の拡大にもめどすら立たないのが実情である。
     無料化の目的も曖昧になりかけている
     当初は物流の活発化を通じて内需拡大の切り札にするつもりが、逆に「渋滞を深刻化させるだけで環境面でも逆効果」という批判も浴びた。鉄道やフェリーなど競合業界からの反発も強い。
     新制度実施の原資には麻生前政権時代に確保した現行割引財源の残り約2・6兆円があてられる。ところが、半分以上の約1・4兆円については、道路建設費に転用するというから開いた口がふさがらない。政府は既に関連法の改正案も今国会に提出している。
     これは「高速道路を造るために国費を投入しない」(馬淵澄夫国交副大臣)としてきた政府方針にも明らかに矛盾している。新制度は自動料金収受システム(ETC)の搭載メリットについても利用者を混乱させそうだ。現在定額制の首都、阪神両高速道路は年末にも普通車で500~900円の走行距離別料金に移行する。これに伴い、ETC車以外は最初の料金所で上限額を支払う必要がある。これに対し、上限料金制の高速道路ではETC搭載の有無は問われなくなるからだ。
     国民との約束を、わずか半年余りであっさりとひっくり返して恥じない鳩山政権の運営姿勢は、あまりに無定見で危うい。

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    江戸の岡場所と「稲荷信仰」

     減る傾向にあった性病・梅毒が、最近、増加傾向にあるという。
     国立感染症研究所が警鐘を鳴らす。
     患者の約4分の3は男で20代~40代、女は10代後半から30代が多いという。
     感染すると、局部に小豆大の腫れ物、しこりや皮膚に赤っぽい斑点が出るのが特徴。自然に消えて安心していると、それは潜伏期間で症状を繰り返す。さらに進行すると頭髪が薄くなったりする。手遅れになると心臓や血管、脊髄、脳にも広がり大動脈瘤破裂などで死亡する場合もある。Image0009
     若いのに大動脈瘤になる人は梅毒患者と見ていいそうだ。そう言えば、結構、有名人もこの病気が多いといわれる。モテすぎて貰う機会が多いらしい。

     さて、江戸時代は「梅毒」などの性病が猛威をふるったそうだ。何の治療法もなく、「稲荷信仰」が唯一の頼りだった。http://yosiwarasaiken.net/moyou/toya.html
     江戸の男女構成比は男65%、女35%と圧倒的に男社会だった。出稼ぎの職人や商人、妻を郷里においての参勤交代等の裏事情があった。
     この男女不均等という地域性から、公娼の吉原をはじめ、百箇所を数えるとも言われる岡場所が繁盛した。需要と供給、凹凸の関係、全て自然の摂理ともいえる。
     しかし、これが「梅毒」などの性病の感染ルートとなった。
     江戸古地図の吉原を見ると、四隅に稲荷社を祀っていることが確認出来る。
     江戸にある他の主な岡場所でも、稲荷社は必ず祀られていたことが知られている。近くに「稲荷社」が祀られていたら、「岡場所」があったのではと見るのも面白い。
     「稲荷社」=「岡場所」のことは、全部ではないので先に断っておく。

     また、「岡場所」が神社・仏閣の門前町に隣接してあるところが殆どで、神聖な地と性風俗が混然一体となっていることが面白い。
     よく、宗教性(エロス)は結びついていると言われるが、具現化したものか。
     天照大神天の岩戸に隠れたときに女神・天鈿女( あまのうずめ )が神々の前でストリップを演じたというが、このようなことと関連あるのだろうか。
     司馬遼太郎も、著書「街道をゆく」の「本郷界隈」根津権現の項で、「神聖場所と遊び場所がセットになっていたらしく」と、疑問を投げかけている。

     門前に遊郭があって、繁華をささえた。
     根津門前とよばれる遊里である。
     江戸時代は幕府官許の遊里は吉原だけで、他は岡場所といわれた。
     いわば黙認された場所だった。
     なにぶん、江戸は独り者が多かった。
     商家の奉公人や職方の見習いなど流人人口が多く、いわば女ひでりの街だった。
     このため遊里がさかえた。
     どうも江戸期日本では神聖場所と遊び場所がセットになっていたらしく、岡場所は、神社の門前に多かった
     市谷八幡前、麹町の平河天神前、神田明神前、それにこの根津門前などであった。
     それぞれ、客種がちがう.根津門前は大工か多かったらしい。
     なにしろ本郷が大名・旗本の屋敷町だから町方には大工が多く住んでいる。
     ときに仕事前の腹掛けのまま遊びにくるあわて者も多かったのかどうか、「根津の客 まあ腹掛けを 取ンなまし」
    という川柳もあった。           
     この岡場所は、明治21(1888)年、洲崎に移転させられた。
     理由は、大学地域として風儀上このましくない、ということだったようで、明治時代の大学が、神社以上の聖域だったことがわかる

     これに付け加えると「岡場所」は、品川、新宿、板橋、千住(コツ)の四宿以外では、一番有名なのは深川八幡宮門前だが、他にも江戸だけで百ヶ所以上もあったらしい。
     そして、深川四宿が盛んになると、吉原がさびれるという現象があり、幕府は公娼制度を維持するために、私娼狩りに力を入れる必要があった。
     岡場所の代表格は深川で、深川芸者は羽織芸者として有名だが、吉原のような格式がなく人気があったという。深川は江戸城の東南、つまり辰巳方角にあるので「辰巳芸者」と呼ばれた。
     
     梅毒の警鐘を鳴らそうと思ったが、話が別方向に行ってしまった。
     昭和33年売春防止法が制定されたが撲滅など出来るはずがなく、売春は姿・形を変えて今後もはこびるだろう。そして、「法と道徳」を考えるとき「売春」のテーマは重い。
     やはり「必要悪」なのか。
     「最古の職業」ともいわれる。
     洋の東西を問わず、人間社会では無くならない職業であろう。
     下の地図は根津権現の遊郭があった辺りだ。
     昭和40年代当時は街並みに昔の名残りがあったが、最近の変化ぶりは知らない。
     谷・根・千などと人気の地域だ。
     
     鬼平犯科帳暗剣白梅香」にも、平蔵の暗殺を持ちかけてきた、根津権現門前の盛り場を一手にたばねている顔役「三の松平十」が経営する料理茶屋が、根津権現前の「釘ぬきや」などと登場する地だ。
    http://jibun.benesse.ne.jp/publisher/novel_map/02.html
     散策のときは、このような歴史や話題を携えて街を見るのも楽しい。

    Photo

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    2010年4月10日 (土曜日)

    第三話「寺の引っ越し」

     新青梅街道沿いに所在する「三光院」は、大正12(1923)年に多摩湖が造られることになった際、現在の東大和市清水4-1132に移転している。Photo
     小学校当時だが息子同士が仲良く、よく遊びに行っていた。
     なにかと世話になったお寺だ。
     親は入り口までしか入ったことがないが、歴史ある古寺だ。

     「三光院」は創建年代は不明というが、開山した住職が延文2(1357)年、足利時代のはじめに亡くしたという記録がのこるという。従い鎌倉末期から室町初期に建立されたらしい。
     この場所に移転する前は、村山下貯水池駐在所から多摩湖方向に100メートルほど行った左手、目標は「第一取水塔」のあたりにあった。
     取水塔付近は窪地になっているが、昔は「三光院池」と呼ばれた溜め池だった。Tamako_sk
      因みに、多摩湖造成に伴い七カ所の村と161戸の家、三カ所の寺院、三カ所の神社が移転を余儀なくされた。これらの記録はかなりシッカリと残っているので、機会を見て紹介したい。
     多摩湖の造成は、大正5(1916)年に着工したが、工事は人力が主であったため、昭和2(1927)年の完成まで、10年以上の歳月がかかった。
     大がかりな移転だったそうだが、当時の国家命令ではただ黙って従う以外になかったと思う。
        http://www.geocities.jp/akutamako/1-history.html
     落語には「洒落言葉」が話の落ちによく使われている。
     「河童の川流れ」、「寺の引越し」、「山伏の合図」(ホラふき)、「夏場の火鉢」、「今度と化け物」、「湯屋の三助」(見るだけ)、「女の褌」(食い込むだけで力が入らない)、「ビッコの提灯」(上げたり下げたり)、「馬糞の川流れ」等々だ。

     「寺の引越し」は続けて、「坊主行っても墓行かず」となる。 お坊さんや寺院の建物は簡単に引っ越しが出来るが、墓の移転は大変だ。
     洒落言葉を使う場面としては、「仕事が遅い」ときに、「お前の仕事は、寺の引っ越しか」と言うことになる。
     仕事が「はかどらない」、「はかいかない」にも掛けてあり、洒落言葉の中でも奥行きがある。
      「寺の引っ越し」は他にも何カ所か知っているが、話は今回で終える。

     下段の写真は多摩湖造成中の大正期の記録写真だが、現在給水塔がある付近に立派な建物がある。
     ここには、現在新青梅街道に面したところにある「三光院」があったはずだ。
     すると、お寺の建物が、引っ越しの最後になった可能性もある。
     これでは持論が覆ることになる
     是非、調べてみたいものだ。

    Photo

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    「済州四・三事件」で撒かれたビラ

     「済州島四・三事件」を切っ掛けに、日本に密入国した在日のことが気になった。 
     永住外国人地方参政権が検討されていることもある。
     いったい何万人いるのだろう。
     間違いなく大きな勢力のようだ。
         ※済州島四・三事件と在日済州島出身者について

     同島出身で、立命館大学教授の文京洙著「済州島四・三事件」を読んでいる。Htbookcoverimage
     同教授は1950年生まれ、同島の二世だ。
     まず、事件が発生した1948年(昭和23年)当時は、島民の八割が赤化(共産党員かシンパ)していたという。
     「四・三事件」は、共産党指導組織「済州島人民遊撃隊」の名で引き起こした武装蜂起事件だったことを知った。
     当然、北朝鮮側地域同様にソ連共産党の指導下にあった。
     北朝鮮地域では1942年2月、ソ連軍の後ろ盾を得た金日成主導の「北朝鮮臨時人民委員会」が結成され、朝鮮戦争勃発前の緊迫した情勢にあった。
     
     済州島の赤化も、北朝鮮地域と同様に進んでいた。
     これに危機感を持った李承晩(リショウバン)政権と支援する米軍によって島民の虐殺事件は発生した。
     いわゆる「アカ狩り」だ。
     島民の死者は「正確な数字は不明だが3万人余」らしい。
     ここの島民は、この事件が尾を引き今も「レッド・コンプレックス」を持つという。
     韓国内では、「四・三事件」の悲劇の実態は長い期間秘密にされていたが、一部事情を知る間では、日本人の残忍性を象徴する事件として宣伝していたというから、韓国は悪質だ。
     2003年10月31日には、盧武鉉大統領は済州島で「国家公権力の過ちだった」「誇らしい歴史も恥ずかしい歴史も歴史はありのままに整理しておかねばなりまません」と島民・遺族に対して正式に謝罪し、韓国民に知られるようになった。
     この事件から難を逃れるため日本へ逃れた島民は、大阪の鶴橋、東京の三河島にコミュニティーを作った。つまり潜伏地、隠れ家だ。
     2005年の資料では、在日598,687人のうち、9万9.421人が済州島出身とある。
     戸籍簿は消失している島民が多いという。
     韓国では2000年1月12日「犠牲者名誉回復に関する法律」が施行している。
     戸籍の回復や賠償も進んでいるのだろう。
     在日の帰化は全般的に進んでいるらしい。http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/4195ed4bcd31d5e71dbde3d3c710e8f4

     個人的には、ソ連共産党の南下政策を朝鮮半島ギリギリのところで食い止めてくれたお陰で、日本が共産化しないでいると理解しており、韓国に感謝している面もある。
     日本共産党も、当時は朝鮮半島の動きに連動するように数々の事件を起こしている。
     済州島の犠牲者も、共産化を防ぐためには仕方ないことだったのか。
     もし共産化していたら、日韓ともにそれ以上の犠牲者が出ていたはずだ。
     ソ連、中国、北朝鮮、カンボジアなどの例を見れば分かる。
     間違いなく、日本でも1千万人以上が虐殺されたであろうと推測する。 
     共産主義、共産党とは、そういう組織だ
     今の共産党も基本姿勢は変わっていない。
     議会制で政権をとるなどありえない。暴力革命あるのみだ。
     日本共産党規約「科学的社会主義」は「マルクス・レーニン主義」のことであり、「暴力革命」のことだ。近年「科学的社会主義」という柔らかい言葉を使いはじめたが、「暴力革命」思想を捨てたわけではない。
    http://www.npa.go.jp/kouhousi/biki2/sec02/sec02_01.htm 

    共産党による各国の犠牲者数(多すぎて実態が掴めない)
     
    共産化には理論的に必ず暴力が伴う。
     それまで共産主義に反対していた人達は、必ず殲滅されることになる。
     意識的に反対していなくても、自由を謳歌していただけで、ブルジョア階級として処刑の対象になる。よって、それだけ犠牲者数が多くなる。
     日本も例外ではない。
     ゆめゆめ気を許すなかれ。
     下の数字は、共産化の段階で殺された人数だ。
     正確には分からないほど多い。ナチスのヒットラー以上だ。
     ソ連       2,000万人犠牲
     中国       6,500万人
     ベトナム      100万人
     北朝鮮       200万人
     カンボジア     200万人
     東欧         100万人
     ラテンアメリカ    15万人
     アフリカ       170万人
     アフガニスタン  150万人
     
    「4.3蜂起60周年記念国際会議に参加して 日米両政府は済州島民に謝罪せよ」 http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2008/06/0806j0423-00002.htm

     「済州島人民遊撃隊」の名で、済州島住民に撒かれたビラの内容が文中にあったので引用する。 

    ■文京洙著「済州島四・三事件」から
     武装蜂起の性格
     武装隊は決起とともに、「済州島人民遊撃隊」の名で二種類のビラを撒いている。ビラの一つは島民へのアピールであった。

     市民同胞よ!
     敬愛する両親、兄弟よ!
    四・三 今日、あなたの息子・娘が武器をとって立ちあがりました。
    売国的単選(単独選挙)・軍政(単独政府)を命がけで反対し、祖国の統一、独立と完全な民族の解放のために!
    あなたたちを苦難と不幸に貶めた米帝人食い人種とその手下らの虐殺蛮行を阻止するために!
    今日、あなた方の骨髄に染みた怨恨を解き放つために!
    我々は武器を持って決起しました。あなた方は終局の勝利のために戦う我らを保護し、我々と共に祖国と人民が誘う道に決起しなければなりません。


     さらに、警察への警告文も撒かれている。

     親愛なる警察官よ、弾圧ならば抗争だ。済州島遊撃隊は人民達を守護し、同時に人民と同じ立場に立っている。
     良心的な警察官よ、抗争を望まないなら人民の側に立って、任務を遂行し、職場を守りながら、悪質同僚らと最後まで闘え!
    良心的な警察官、大同青年団員らよ!
    あなた方は誰のために闘うのか?
    朝鮮人ならば我が領土を踏みにじる外敵を跳ね除けねばならない!
    国と人民を売って、愛国者らを虐殺する売国・売族奴らを倒さなければならない。
    警察官だちよ!
    銃口はやつらに向けろ。あなた遠の両親・兄弟達に銃口を向けてはならない!
    良心的な警察官、青年、民主要人らよ! 一刻でも早く人民の側に立ちなさい!
    反米救国闘争に呼応して、決起しなさい。


     前者のビラには、武装蜂起が単独選挙阻止闘争の一環として闘われたものであることが示されている。
     「弾圧ならば抗争だ」というフレーズに見られるように後者は、南労党員や島民の自衛的な反攻としての性格を彦ませている。
     前者のビラにも、「骨髄に染みた怨恨を解き放つために」とあり、三・一節事件以後の警察や右翼の横暴、さらに武装隊の襲撃の様相などからして、むしろ、自衛や報復といった言葉のほうが蜂起の性格を言い当てているであろう。
     つまり、四月三日の蜂起は、分断阻止という大義を掲げながらも、追い詰められた左翼の自衛的かつ限定的な反抗・報復としての性格を帯びていたし、村社会を基盤に強い絆で結ばれていた島民たちの多くも、そういう感情を共有していた。

    Image0008

    本籍地別構成(2005年)
     本籍 人数   %
    ソウル市 57,574  9.62
    釜山市 25,213  4.21
    光州市 2,148  0.36
    大田市 1,878  0.31
    京畿道 26,523   4.43
    忠清南道 11,220  1.87
    忠清北道 9,449  1.58
    全羅南道 41,120  6.87
    全羅北道 10,627  1.78
    慶尚南道 172,343  28.79
    慶尚北道 125,392  20.94
    江原道 4,579  0.76
    済州島 99,421  16.61
    不 詳 1,506  0.25
    北朝鮮地域 3,001  0.50
    その他 6,693  1.12
    総 数 598,687  100

     

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    2010年4月 9日 (金曜日)

    第二話「寺の引っ越し」

     言葉遊びで「寺の引っ越し」とは、仕事の遅い人を揶揄するときに使う。
     墓いかない、「はか行かない」という意味だ。
     前回、白山通りの三田線地下鉄工事に関連し「寺の引っ越し」に触れたが、Photo_4もっと昔に現在のJR中央線(当時は甲武鉄道)敷設工事のため、寺の引っ越しがあった。
       ※右地図は路線が決定した当時のもの。駅はない。

     JR中央線を利用している方は、かつての寺や墓の上を通過していることになる。
     場所は、中央線と環状八号線が交差する地点。
     お寺は、慈雲山荻寺「光明院(荻寺)住所は杉並区上荻2丁目1-3となる。
     このお寺は、荻窪の地名に由来し、縁起によると「荻の群生する窪地」の意で、奈良時代の和銅元年(708)、旅の修行僧が観音像を笈(おい)に入れて背負い、ここまで来たところ、あまりの重さで歩くことが出来なくKoumyouimなった。修行僧は、この観音像はこの地に縁があるのではと思い、自生していたオギを刈り草堂を作り、観音様を安置し荻堂(荻寺)と名付けたという。
     ところで、このお寺にはもう一つ面白い歴史がある。
     光明院は中央線敷設工事の際にどかされたことだ。
     明治22年頃、中央線(当時は甲武鉄道)は、甲州街道か青梅街道沿いの民家が多くあり、一定の利用客が期待される場所を計画していた。
     ところが沿線住民は大反対した。杉並区住民はいろんな反対運動を起こすとこ2_3ろで有名だが、これは、その反対運動の走りと言われている。
     反対の理由は、農家は「農作物が育たない」、宿屋の経営者は「客足が取られる」等だった。そこで、計画担当者は反対者の説得が面倒になり、一番影響が少ない地点を東西に一直線に定規を引いたのが現在の路線だ。

     ところが、この「光明院」の敷地を分断することになった。
     地図を見ると分かるように、中央線で本堂が北側、お墓が南側に分断されている。檀家が墓参りするには、一旦本堂に行き、次にお寺専用地下道を南に抜けて墓参りすることになる。
     線路は、かつて墓や本堂があった場所を通過しているのだ。
     この辺りは、現在は高架になって自殺はないはずだが、それ以前は「一本松踏切」(今はない)の付近は飛び込み自殺が多発した。
     それが、高架になって自殺がなくなると、今度は、荻窪駅の「光明院」寄りのホームが飛び込み自殺の名所に移動した。
     中央線沿線で、自殺が一番多い場所になったこともあった。
     自殺が「寺の引っ越し」と関連しているかは定かでないが、St_ogikubo
     理由として、急行が停車しない駅なので電車の速度が速く確実に自殺出来るのではということと、風水でいう富士山方向からの龍脈が影響していると、面白くおかしく分析する人もいる。そういえば、この辺りにはアレフなどの新興宗教が軒並みある。

     他の理由は知らない。自殺した人に聞く以外にない。
     JRは自殺防止のために、数年前ホーム上に大きな鏡と青色灯火を設置した。
     青色灯火は心を静める効果があり、鏡は映った自分の姿を見て、「自殺を思いとどまらせたい」という効果と目的があるそうだ。
     これも落語のネタになるかも知れない。
     それとも不謹慎か。

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    洒落にならない「寺の引っ越し」

     最近落語に凝っている。とは言え聞くだけだが。
     アイポットに20話ほど入れてジョギング中に聞いている。
     走りながら思わずニヤリとする場面もあり、通りすがる人に「あの親父おかしいのでは」と思われるかも知れないが、気にしない。
     アイポットでは動きや表情が分からない欠点もあるが、話だけで面白みは十分に伝わる。一流の落語家の落ちはたいしたものだ。

     落語には「江戸洒落言葉」が話の落ちによく使われている。http://ginjo.fc2web.com/50on_daimeikensaku.htm
     「河童の川流れ」、「寺の引越し」、「山伏の合図」(ホラふき)、「夏場の火鉢」、「今度と化け物」、「湯屋の三助」(見るだけ)、「女の褌」(食い込むだけで力が入らない)、「ビッコの提灯」(上げたり下げたり)、最近の政界を指しては「馬糞の川流れ」等々だ。
     今回はこの中で、「寺の引越し」に触れると、
     続けて、「坊主行っても墓行かず」となる。
     お坊さんや寺院の建物は簡単に引っ越しが出来るが、墓の移転は大変だ。
     洒落言葉を使う場面としては、「仕事が遅い」ときに、「お前の仕事は、寺の引っ越しか」と言うことになる。
     仕事が「はかどらない」、「はかいかない」にも掛けてあり、洒落言葉の中でも奥行きがある。
     事実、この「寺の引っ越し」は大変なもので、たいていは都市計画等で寺の敷地を道路や鉄道が通過することになった場合に発生する。
     40年も前、白山通りの都営地下鉄三田線を造っていた当時、文京区内で仕事をしていたが、この地下鉄工事中に「寺の引っ越し」に首を突っ込むことになった。今、どの寺のことだったのか、白山下から白山上あたりの地図を見ているが、4・5軒のお寺があり、どれだったか正確には分からないほど変化している。
     道幅も四倍くらいに拡大し、道も東洋大学の裏側を通っている。
     いずれにしても、この辺りだ。
     ここの地下鉄はいわゆる「露天掘り」の方法で造られたもので、墓のある場所も遠慮なく掘って行くことになる。
     隣接の代換地には立派なお寺は早々に建てられたが、肝腎の地下鉄工事の先にある「墓」は簡単には移転出来ず工事は停滞ぎみだった。
     さらに工事の遅れに拍車をかけたのは、工事関係者の間に「幽霊が出る」という話が広がったから大変だ。そして、地下鉄工事の先端で掘削機を動かすオペレーターが工事をボイコットするようになったから始末が悪い。
     この白山付近で、地下鉄工事は計画から大幅に遅れた。
     この辺りの話は、面白いことが沢山あるので次回に回すが、「寺の引っ越し」には、「檀家の理解と連絡」、「新しい墓地・墓石の準備」など、諸々の調整が必要になる。
     実際の「寺の引越し」は洒落にならないほど大変なことだ。
     落語はこんな昔話も思い出させてくれる。
     この流れを巧くまとめれば「落語」になる。

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    2010年4月 8日 (木曜日)

    韓国の「竹島」不法占拠は続く

     韓国による竹島の不法占拠は続いている。
     最近、韓国は竹島に新たにヘリポートを建築しているという。
     改修後のヘリポートは、これまでの2・5倍。重量25トンの軍用輸送ヘリコプターが離着陸でき、警察1個部隊(約40人)の緊急派遣が可能になる。
     夜間照明を備え、24時間運用が可能だという。
     岡田外相は、この問題に関する国会での質問に対して、「不必要な摩擦を招かないようにしたい。その言葉(不法占拠)は使わない」と返答している。
     この発言は、まるで韓国の実効支配を容認しているような発言だ。
     鳩山首相、平野官房長官らも同様に曖昧な言動ばかりだ。
     今年の新学習指導要領解説書では、竹島に関する記述は消えている。
     竹島に関わらず、北方領土などに関しても、絶えず機会あるごとに、条件反射するように、「ここは日本古来の領土だ」と言い続けて欲しい。
     そんなことも隣国に言えない、情けない民主党政権だ。

     在日が戦後のどさくさに紛れて、日本国内の一級地を不法占拠した例は枚挙に暇が無い。
     上野アメ横、西新宿の朝鮮奨学会、浅草寺周辺の焼肉店街、京都ウトロ地区、大阪鶴橋のコリアタウン、博多駅周辺や中州、神戸長田の駅前等々全国にその例は数え切れないという。

     竹島もいずれ、これらの土地のように、数十年も経てば既成事実として、韓国の領土として使用され、日本は何も言えないようになる。
     韓国は、それを狙っているのだ。
     なんと情けない国だ。これで国家と言えるのか。

    竹島の領有権に関する我が国の一貫した立場・外務省
    1.竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です。
    2.韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。
    ※韓国側からは、我が国が竹島を実効的に支配し、領有権を確立した以前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません。
    竹島問題の概要
    1. 竹島の認知
    2. 竹島の領有
    3. 鬱陵島への渡海禁止
    4. 竹島の島根県編入
    5. 第二次大戦直後の竹島
    6. サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い
    7. 米軍爆撃訓練区域としての竹島
    8. 「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠
    9. 国際司法裁判所への提訴の提案
       

    Kakeshima_map

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    「文春」と「新潮」本日発売日

    今日は「週刊文春」と「週刊新潮」の発売日だ。
     週刊誌を買うときは、このどちらかが殆どだ。
     選ぶときは、中吊りの「みだし」に左右されるから、編集者も大変だと思う。

     この雑誌社はいずれも老舗であり、ともに「新聞・テレビが書かない記事」を書く週刊誌というスタンスで信頼性が高い。
     逆に言えば、それほど信頼出来ない新聞、テレビ等の大手マスコミが多いのだ。
     もし、これらの雑誌社まで、共産党や社民党などの左翼政党、創価学会などの宗教団体、右翼や暴力団、日教組、また日本を敵視する外国におもねるような記事を書くようになったら、それこそ日本はおしまいと感じるだろう。

     また、かつて「週刊現代」や「週刊ポスト」が女性ヌードを掲載して売り上げを伸ばしたあとも、「女性ヌード」はなく、通勤時など人前でも安心して読める雑誌だ。
     さて、今週はどちらにするか。みだしで決める場合が多い。

    ■「週刊文春
      発売日:毎週木曜日。価格:350円
      http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/

    100415

    ■「週刊新潮
     発売日は毎週木曜日、価格は320円。
        http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/

    20100408

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    2010年4月 7日 (水曜日)

    覚醒剤密輸は命を奪う犯罪だ!

     中国で邦人の死刑執行に対する意見をネット上から拾うと、圧倒的に賛成意見が多い。5557人のうち65%が「賛成」している。
    ▼麻薬犯罪の根絶のために、日本も刑法を改正し麻薬犯罪撲滅のため死刑もしくは仮釈放の適用されない無期懲役刑を設けるべきだ。Chb0902101628006p3
    ▼死刑は日本の犯罪者、犯罪予備軍に抑止力になる。
    ▼麻薬を日本に密輸しようとしたなら死刑にすべきだ。
     日本は犯罪者に対して甘すぎる。
     等々だ。
     これに反して
     「命を守りたい」と演説した鳩山首相は、「残念だ」の一言。
     「他国の司法制度についてとやかく言えない」
     とする日本弁護士連合会
    「日本の世論の反発を招くことにならないか懸念している」
     と千葉法務大臣、
    「命が大事だというのが基本だ。やめてほしい」
     と福島消費者・少子化担当大臣。
     日本や自由主義国の死刑制度には文句を垂れる方々も、共産国・中国に対しては傍観しているだけだ。
     精々、人権団体アムネスティは死刑執行停止を求める公開書簡を出したという。だが、そんなものは中国共産党には、カエルのツラにションベン、へのカッパだ。
     日本国内でも、「人の命を奪っていない犯罪で死刑は厳しすぎる」との意見もあるだろうが、薬物犯罪の中でも、密輸、密売者は、間接的に何人もの命を奪っていることを忘れている。かつて、戦争をしても麻薬の密輸を防ごうとした国もあるのだ。
     違法薬物を密輸してまでも金儲けする暴力団員と、使用してしまう若者、芸能人、主婦らの使用犯罪とは分けて検討すべきだ。
     違法薬物の密輸・密売は、暴力団が組織を維持する生命線になっている。
     今回の覚せい剤の押収量は約2.5キロらしい。
     1回の平均使用量を0.03グラムとしたら何回分になるのか、計算は面倒だから止めるが、密輸され使用したら何千人、何万人もの寿命を縮めさせることは間違いない。
     つまり、違法薬物の密輸・販売は間接的に多くの命を奪っている。
     今回も北朝鮮ルートらしいが、日本人が被害を受ける犯罪には、日本は中国に資金援助しても、薬物撲滅に力を入れて欲しいものだ。罰則の弱い日本より、中国で検挙してもらえば、今回のような結果が期待され、より抑止効果が高い。密輸する暴力団ら犯罪者の命より、使用する(善良ではないが)若者や主婦らの命を守ることが大切だ。

     日本政府もマスコミも、国家を危うくする重大犯罪であることを忘れているから、ピントの外れたコメントばかりしているのだ。
     中国では、英国による中国人民の弱体化を狙ったアヘンの大量密輸を防ぐために、戦争(アヘン戦争)までした歴史がある。
     日本もそれくらいの決意をもって防がないと、国民が薬漬けで腑抜けになる。
     もっとも国会議員らを見ても、すでに腑抜けになっている日本人が多いが、
     よって、今回の場合、中国の判断やネット上の意見が正しい。
     国会議員や日弁連の意見は、民意を反映していない。

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    朝鮮半島の「カプチャン」とは

     朝鮮半島には「カプチャン」という遊びがあるそうだ。

     「カプチャン」とは、甲丈とか等甲とかいう文字をあてるそうだが、同年齢という意味だという。
     儒教の国・韓国では、初対面の人でも同年齢と知ると、悪口雑言のやりとりをする伝統的な遊びがあることを、司馬遼太郎が「街道をゆく」で「耽羅紀行」で紹介していた。
     『耽羅 (たんら) 』とは、「済州島」のこと。
     昔は独立国だった。
     「カプチャン」と同様に、初対面でも「同じ本貫、族譜(ぞくふ)」と知ると、親戚のような交際に発展することと根元は同じなのだろう。
     朝鮮半島の長年の蹂躙し蹂躙されたという土地柄と、奴隷の歴史の中から生まれたものだという。この国の人が初対面の人に愛想笑いをしない理由もここにあると言う
     これも、儒教の伝統の中で育ったことは間違いない。
     司馬遼太郎は、韓国のスチュワーデスが無愛想なことを本の中で指摘していた。
     日本人の礼節が、初対面の相手でも思いやることから始まったことと根本から違う。

     なお、「済州島」では、今から60年前に「四・三事件」という「韓国政府による島民大量虐殺事件」が発生し、島民が日本に大量入国、大量密入国した事実がある。
     長い間、秘密にされていた事件だ。
     2005年の記録では、同島出身の在日は9万9421人、全在日の16.6%にのぼるが、この事件が切っ掛けで入国したのは何%かは不明。
     一世、二世の「済州島」出身のコリアンなら、この事件で入国したと見ていい。
     大正から昭和初期の日韓合併当時のコリアンとは、事情が多少違うようだ。
     そろそろ国民に正確なことを報道し、理解を得る必要があると思うのだが・・・・・

    街道をゆく耽羅紀行(たんらきこう)』司馬遼太郎(著)から
     朝鮮儒教は、弊害も多く、たとえば社会を一価値でしめくくろうとするために、朝鮮社会を停頓させた。しかしながら、千年以上も儒教によって耕しつづけてきた社会は、他の文化にはない「父老」といった徳を生むのである。
    「済州南部で、そういう人はいませんか」という私の質問に、金成順夫人は、響くように答えてくれた。二人はいらっしゃいます、ということだった。私は、金亨洙翁の横にすわっておられる人がそうではあるまいか、と思った。張準錫氏が、紹介してくれた。
     康昌鶴氏だった。三梅園という農場を経営してい ひとで、童顔だが、気持ちいいほどむによく陽焼けしている。両眼が二重で、口もとに少年のような可愛さがのこっている。--中略--「黒潮」という、土間の席と小座敷をそなえた小料理屋さんがあって、私どもは小座敷のほうに入った。そこへ康昌鶴氏もやってきて、にぎやかになった。酒がまわると、人柄にいよいよ照りが出てきて、みごとな景色になった。
     康昌鶴氏は、私に、「カプチャンというのをご存知ですか」
     と、いう。甲丈とか等甲とかいう文字をあてるそうだが、同年齢という意味だという。 初対面で相手が同年齢とわかると、とたんに敬語がなくなりたがいに無害な悪口雑言のやりとりをする。そのやりとりをもふくめてカプチャンというのである。
     儒教社会は、年齢で拘束される。
     尹学準氏の前掲の本によると、年が倍以上の相手に対して父親に事えるようにし、十歳上だと兄に事えるようにする。五歳上だと肩を並べていいが(友人としてつきあっていいが)ただし一歩さがるようにして待遇する、ということになっている。人中(ひとなか)に入ると、相手の年齢を見て自分の礼をさまざまに変えねばならず、まことに気苦労なものなのである。 
     そこで、同年齢という、上下の礼を用いずに済む相手を発見したとき、よろこびのあまり、爆発的にカプチャンをやる。
     私は、康昌鶴氏の年齢をきいた。丙寅のうまれ、日本でいうと大正15年寅のとし、1926年である。「あっ、姜在彦(カンジェオン)さん」と、私は康昌鶴氏の席からやや遠い場所にすわっているわが友を指さした。そこで、カプチャンは炸裂した。
     おどろいたことに、姜在彦(カンジェオン)さんも相当に戦い、しばしば受け太刀ながら、ときにお面に撃ち込んだりした。
     まことに絶妙な悪口漫才で、録音でもしておけば無形文化財の資料になるのではないかと思われるほどだった。「姜在彦(カン、kwang)という名はギャングと似た音じゃないか」からはじまった。
     姜在彦氏は、髪が多く、かつ黒い。これだけでも悪口のたねになる。 康昌鶴氏は突っこんできて、「その髪じゃ、まだ生枯れと見たわい。未練たらしくまだ人生に悩みがあるだろ。あるなら、おれのとこへ言って来い。ぜんぶ解決してやるよ」といったぐあいである。 姜在彦さんも負けはしなかったが、どうも舌がうまくまわらない。 
    「こんな男に言っても壁に言ってるようなものだ」
     とやりかえしたが、日本にながくいてカブチャンの腕を磨いていないために、たじたじのようだった。 

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    2010年4月 6日 (火曜日)

    「済州島四・三事件」と在日

     司馬遼太郎 (著)『街道をゆく耽羅紀行(たんらきこう) を読んでいる。
     当初「耽羅(たんら)」の文字も読めず何処なのかも知らなかった。
     読み始めて韓国と九州の間に浮かぶ「済州島」の昔の呼び名と知った。T01790238_0179023810329001016

     本の内容は、朝日新聞社の藤谷宏樹氏と同島出身の姜在彦博士、そして著者の「済州島の紀行文」だった。
     「済州島」は、「三多」と「三無」の島だという。
     「三多」とは石多し、風多し、女多しの意。
     「三無」とは、泥棒無し、物乞い無し、門扉無し、という意味だそうだ。
     それだけ住み易い土地柄ということだろう。
     それに、海女の伝統、巫女の存在、蜜柑の産地、また、三別抄(サムビヨルチョ)終焉の地でもある。
     「三別抄」は、モンゴル帝国(1206~1634年)に徹底抗戦を唱えた軍事集団だ。三別抄は「済州島」で激しい抵抗が日本攻撃を大幅に遅らせた歴史がある。
     司馬遼太郎は、この終焉の陣地の土塁に立って霊気を感じると記述している。終焉は元寇の前年1273年4月のことだ。
     風俗習慣が日本に近いらしい。島民のほとんどは漁業関係者で、朝鮮半島と違って賤民の仕事はなかった。
     本当はこの本で「済州四・三事件」のことを、司馬遼太郎はどのように見ているのか知りたかったが、言及していなかった。単に、泉靖一博士の著書「済州島」と作家・金石範の著書「火山島」からの引用文だけだった。うまく避けている印象を受けた。
     出来れば、済州島民大量虐殺事件のことを深く掘り起こして欲しかった。

     韓国内では、「四・三事件」の悲劇の実態は長い期間秘密にされていた。
     「四・三事件」は、「済州島人民遊撃隊」の名で引き起こした武装蜂起事件だった。 
     済州島では、1950年の朝鮮戦争が始まる2年前頃には、「南朝鮮労働党・済州島委員会」が組織されるなど、島民の八割が赤化していた。
     北朝鮮側同様に、ソ連共産党の指導下にあった。

     当時は、島全体でストライキやデモが繰り返され、緊迫した状況におかれ、ちょっとしたことが引き金になって、この事件は発生し拡大していった。韓国側、支援する米軍にとっては、やっかいな島になっていたのだろう。そして、大量虐殺事件に発展する。

     大量虐殺事件は数年におよび、難を逃れるために日本に大量入国、密入国することになる。2005年の記録では、同島出身の在日は9万9421人、全在日の16.6%にのぼるが、この事件が切っ掛けで入国したのは何%かは不明。
     1980年代になり、ようやく事件の調査が始まったという。

     一世、二世の「済州島」出身コリアンなら、この事件で入国したと見ていいし、戦後、一旦は済州島に帰国した在日も、この事件で舞い戻ってきた島民も多いそうだ。
     「済州島」出身と知って、このことを話すと意外に気軽に話題に乗るところがある。
     反対に、出自を隠そうとする半島出身者は、身分制度(奴隷)から逃れて来た人か、その子孫とみていい。782214
     日本へ逃れた島民は、大阪の鶴橋、東京の三河島にコミュニティーを作った。
     潜伏地、隠れ家だ。
     民主党幹事長・小沢一郎や歌手の和田アキ子も同島の出身だとされる。
     この事件が関連しているかは知らない。
     確たる証拠は知らないが、もし否定する材料があるなら知りたいものだ。
     是非ともご連絡を・・・・・・・・

     付け加えると、済州島は朝鮮半島の流刑地であり、最下層の白丁が大量に住んだ島だ。韓国の大学でも在日は白丁が移民したのだと教えている。

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    『街道をゆく、耽羅紀行(たんらきこう)』司馬遼太郎(著)から
     1945年8月、朝鮮が解放されたこともある。
     それから3年たった1948年4月3日、済州島で暴動がおこった。このことについて、泉さんは以下のように書いている。
    ふつう四・三事件とよばれている、済州島のおそるべき悲劇も、済州島出身でしかも日本で教育を受けた進歩主義者と、そのころ警察署長はじめ警官の多数ならびに町の与太者を含む西北青年隊との対立からはじまったもので、かならずしも共産党の指導によるものではなかった。そして、済州島の歴史と文化が物語っている、強い地方主義が全島民をあげて、島出身の進歩主義者を支持させることになったのである。この間のことは大佛次郎賞をうけた金石範氏の『火山島』(文蕪春秋刊)全三巻にくわしい。泉さんは、いう。
    四・三事件で、済州島は荒廃に帰した。さきにも述べたように、総人口(一九四八年の人口はあきらかでないが、おそらく30万にちかかったと推定される。
     なぜならば1958年の人口は22万弱であるからだ)の四分の一が殺され、山・陽村(註・山村は牧畜、陽村は農村のこと)のほとんどが、焼かれて一時は、全部が海岸におりていたのである。このような、山・陽村の大部分は、もとの位置に帰り、新しい部落をつくっているが橋来里のようにもとの住民の大部分が殺され、ごくわずかが海村で生き残っているところでは、もはや部落の再建が不可能となって、まったく住民がいれ変ってしまっている。……
     変容ということばすらこわれてしまうほどの変化で、私どもとしては深く悼む以外に何の立場ももたない。せめて金石範氏のよき読者であろうとするのみである。  
     
    本籍地別構成(2005年)
     本籍 人数   %
    ソウル市 57,574  9.62
    釜山市 25,213  4.21
    光州市 2,148  0.36
    大田市 1,878  0.31
    京畿道 26,523   4.43
    忠清南道 11,220  1.87
    忠清北道 9,449  1.58
    全羅南道 41,120  6.87
    全羅北道 10,627  1.78
    慶尚南道 172,343  28.79
    慶尚北道 125,392  20.94
    江原道 4,579  0.76
    済州島 99,421  16.61
    不 詳 1,506  0.25
    北朝鮮地域 3,001  0.50
    その他 6,693  1.12
    総 数 598,687  100
     

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    司馬遼太郎は「庄内」を書けなかった

     小説、雑誌の類を読んでいても庄内地方の地名に目が止まることが多い。
     山崎豊子の「不毛地帯」を読んでいたら、主人公が山形県遊佐町杉沢の出身610nfa2wyzl__sl500_aa300_と設定されていたのには驚いたものだ。
     http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-d02f.html
     さて、司馬遼太郎の作品は相当に読んだはずだが、庄内のことを書いた本がない。
     清河八郎のことを書いた短編「奇妙なり八郎」があるだろうと反論されると思うが、これは八郎が江戸に出てからのことが主だ。
     この疑問は以前から思っていたことだが、最近読んだ「街道をゆく」の「秋田県散歩」の中で、その理由が多少分かったことがある。
     「ここは、他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている」とのくだりがある。そして、この『街道をゆく』を書きはじめたときから庄内へゆくことを考えていた。」と、続く。
     なぜ行かなかったのか、どうして書くことが出来なかったのか、同氏が試行錯誤した思いは想像の域を出ないが、一応、検討していた事を知っただけで安心した。
     この安心を得るまで、30数年かかった。
     もしかして無視された場所なのかと思ったりもしていた。
     「どうも自信がない」と吐露しているが、それでもなお書物に残して欲しかったとの思いは今もなお強い。同氏のファンなだけに・・・・。

    司馬遼太郎著「街道をゆく」の「秋田県散歩」から抜粋
     そういう東北へゆく。
     どこへゆくべきかと地図をひろげてみたが、なかなか心が決まらない。
     ただ、気になる土地がある。庄内である。
     都市の名でいえば、鶴岡市酒田市になる。旧藩でいえば庄内藩(酒井家十七万石)の領域である。ここは、他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている
    庄内は東北だったのたのだろうか、ときに考えこんでしまうことがある。
     最上川の沖積平野がひろいというだけでなく、さらには対馬暖流のために温暖であるというだけではなく、文化や経済の上で重要な江戸期の日本海交易のために、上方文化の席透度が高かった。その上、有力な譜代藩であるため江戸文化を精密にうけている上に、東北特有の封建身分制の意識もつよい。
     いわば上方、江戸、東北という三つの潮目になるというめずらしい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている。
     この『街道をゆく』を書きはじめたときから庄内へゆくことを考えていた。が、自分の不勉強におびえて、いまだに果たせずにいる。このところ、この紀行の係がかわった。藤谷宏樹氏から、若い浅井聡氏になったのだが、このひととどこへゆこうかなと話しあっているうちに、「庄内」ときめた。が、数日経って、どうもまだ自信がないと思い、庄内も津軽もあとだ、と浅井氏に言いなおし、広大な秋田県地図を撫でつつ、「ここにしましょう」古代以来、一大水田地帯だったし、江戸期には杉の大森林と鉱山のおかげでゆたかでもあって、他の東北にくらべると、いわば歴史がおだやかに流れつづけてきた県である。
     おそらく気分をのびやかにさせてくれるにちがいない、とおもったのである。

     「秋田県散歩」を読むと、象潟・蚶満寺には訪問し、何故芭蕉は訪問したのかなどを解き明かしている。出来ればもう少し南下して欲しかった。
     山形県庄内地方は地理的には中央と離れているが、江戸時代から独自の文化が開けた土地だ。北前船の寄港地だったことも発展につながっている。
     四季折々の自然のうつろい、豊穣の大地と山海の恵みが人々に精神的に安定をもたらし、松尾芭蕉をはじめ訪れた人は、皆礼賛し魅了する。
     作家・司馬遼太郎は「街道を行く」などをはじめ、全国津々浦々のことを書き残した作家だったが、ついに庄内を主題として描くことはなかった。
     その理由が、この短い文章の中から多少は伺い知ることができる。
     この点、藤沢周平は、庄内藩をモデルにした「海坂藩」という架空の藩を通して、数々の時代小説を登場させている。
     まるで司馬遼太郎が書けなかった、その反動を見ている思いだ。

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    2010年4月 5日 (月曜日)

    真実「チマチョゴリの歴史」

      他国の歴史を理解するうえで、その国の建築物、政治や事件、身分制度、及び食事や服装などの生活文化も合わせて知ることが大切だ。
     だが、お隣の朝鮮半島のことは意外に知られていないことが多い。
     いや、知らないことが多すぎる。
     朝鮮半島出身、在日コリアンの皆さんは、日本の国内でも自信を持って「チマチョゴリ」を着ている姿を目にする。
     自国の伝統と文化を大切にしている現れなのであろう。
     だが、
     裏を返せば、「日本の文化には染まらないぞ」とする強い意思表示でもある。
     このあたりが、在日と同居するうえで一番のネックになっていると見ている。

     かつて、北区十条の朝鮮中・高校に比較的近いところに住んでいたので、この「チマチョゴリ」の服装は良く見かけた。
     日本国内でよく着るものだと関心をもって見ていた。09
     当時は図書館で調べたが、今は「ウィキペディア(Wikipedia)」で調べることが出来るから簡単だ。 
     「チマチョゴリ」は、の歴史は
     「朝鮮時代には貧弱な上体とふんだんな下体が美しいと思って、チョゴリは急速に短くなってチマは長くて広くなった。朝鮮王朝の後期から妓女服の影響で丈の短いチョゴリと狭い袖が流行し、服の着脱の度に袖をほどかなければならないほどになったこともあった。
     また19世紀からチョゴリが乳房を覆えなくなったため、両班層の女性は通常胸覆いを使ったという。
     しかし、下級階層、特に男児を生んだ女性は乳房を露出することもあり(李朝時代に描かれた風俗画や写真には、乳房を露出した女性が見られる)、当然ながらこの流行は儒学者の非難を受けた。
     男子を出産した女性が、乳房を露出する事を日韓併合後に禁止にされ、1930年代から女性の社会進出が始まるとチョゴリの丈は短くなり始めた。」とある。

     証拠写真をネット上から拝借するが、11
      「チマチョゴリの真実http://jeogori.web.fc2.com/
     「乳出しチョゴリ」の写真が広まったとき、韓国人が
     「こんな破廉恥な習慣は我が国にはない。捏造だ」と言ったという。この韓国人の態度は、自国の50年前の習慣すら知らない韓国人の歴史観が如何に信用できないかを証明しているようなものである。

      当時の朝鮮の男尊女卑的な思想では、「長男を生まない女性に価値はない」との考えが支配的なためかこのような風習が広まったのだ。
     当時の朝鮮人の女性はこの衣装を「長男を生んで社会的義務を果たした」として誇りに思っていたのである。
     この裏には、やはり厳しい「身分制度」があった。
     この習慣は1950年代まで続いたという
     韓流ブームで、韓国映画やドラマがテレビでよく流れているが、当時を描くうえで、外せないのが服装だと思うが、この「トップレス・チョゴリ」は、女性俳優には絶対にさせないであろう。
     つまり、嘘の映画を描く以外にないのだ。
     日本でも「チマチョゴリ」を着ている娘さんを見る機会は多いが、このような歴史を知っておくことも大切なことだ。
     差別する感覚は全くない。
     

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    銀座の「安岡正篤サロン」

     銀座に「安岡正篤(まさひろ)サロン」がオープンしたことを知った。
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      「安岡正篤」は陽明学の大家、昭和の政財界に多大な影響を与え、「平成」の年号の名付け親でもある。
     三島由紀夫も師と仰いだ。
     また、山形県酒田市にある「南洲神社」の社殿は昭和51年6月に竣工しているが、用材は安岡正篤の取計らいで、伊勢の皇大神宮から御古材の払い下げを賜ったという。

      銀座のサロンは、
     「中央区京橋プラザ区民館・2階 多目的ホール」
     東京都中央区銀座1-25-3
     都営浅草線宝町駅A1出口か有楽町線新富町駅2番出口
    電話03-3561-5163にある。
     折を見て必ず訪問したい。
      なお、同じ場所では、「安岡正篤」の孫に当たる安岡定子(本名:溝本定子。1960年生まれ)氏が毎週土曜日「銀座・寺子屋こども論語塾」を開いているという。
     事前の予約がありそうだ。

    銀座に安岡正篤サロンがオープン 2010.4.4 産経
     昭和の政財界に多大な影響を与え、「平成」の年号の名付け親ともいわれる東洋学者、故・安岡正篤(まさひろ)氏の功績を紹介する「安岡正篤銀座サロン」が東京・銀座にオープンした。入場無料。
     サロンを運営するのは、コンサルティング会社の日本企業調査会(東京都中央区)。安岡氏が「終戦の詔勅」に朱を入れたことを示す資料や、「日本精神の研究」をはじめとする著書などが展示されている。
     また、安岡氏の孫で安岡活学塾専任講師の安岡定子さんが、第3土曜日にこのサロンを教室にして「銀座・寺子屋こども論語塾」を開催している。
     安岡定子さんは「安岡正篤という人物像や論語の素読を通して、子供から大人まで中国古典の素晴らしさに触れ、その精神世界を知ってもらいたい」と話している。 

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    在日が帰国しないのは階級制度

     日本に住む多くの朝鮮半島出身者が、日本が嫌いでも帰国しない理由や、強制連行されたと言うが本国に帰えせとは絶対に言わない。
     その、帰化したくても帰化できない理由などに、少しだけ触れたい。
     後で下段の動画で、韓国の大学教授の話をよく聞くがいい

     黄長燁(ファンジャンヨプ)(86)元朝鮮労働党書記が4月4日来日した。
     日程は発表することはない。日本国内には朝鮮半島南北で敵対する構図がそのまま存在し、命を奪おうとする輩が沢山いるからだ。
     ところで、黄長燁氏は日本語がペラペラだ。
     86歳という年齢からすると20歳過ぎまでは、日本語で生活していたことになる。
     日韓合併は1910年(明治43)に行われているから、黄長燁(ファンジャンヨプ)氏は当然、生まれたときから日本人として育ち日本の教育を受け、日本名で生活していたのだから当然と言えば当然だ。

     よく、「植民地」といえば、欧米列強がアジアやアフリカ諸国でとった搾取・差別・略奪が伴ったことを言うが、日本がとった方法は合法的「合併」だった。合併政策により、日本の国家予算の何割かを、朝鮮人民の生活向上や、教育、鉄道、道路、港湾などのライフラインの整備にあてたという。
         ※「日韓併合前後 朝鮮半島写真館http://photo.jijisama.org/
     搾取より、与えた方が多かったのだ。
      特に、合併前の朝鮮半島の暮らしぶりは貧困にあえぎ、1922年誕生した共産主義国家ソ連の南下政策で植民地化寸前だった。このような、ギリギリの場面で朝鮮に、ソ連による共産化を取るか、日本との同化を取るかを選択させた経緯があった。
     
     また朝鮮半島の暮らしぶりで有名なのが、厳しい階級制度を挙げることができる。
      朝鮮半島の身分階級は厳しく、大きく分類すると、良民(両班、中人、常人)、賤民(奴婢、白丁)(奴隷制度)があった。
     日本の士農工商/穢多・非人より、もっと厳しい身分制度だったという。
     そして、この身分制度は、今も暗然と残っているという。
     家系の正統性や優秀性を証明する「本貫」のことを知れば分かることだ。
      おもしろいのは日本国の礼節が、相手の存在を認めることから始まるのに対し、儒教の国の礼節は、相手の存在の否定から始まるという。それは、常に蹂躙し蹂躙されたという土地柄と、奴隷の歴史の中から生まれたものだという。
     この国の人達が初対面の人に愛想笑いをしない理由もここにあると言う。
     相手の出身や年齢を知るまで、油断しないのだそうだ。
     「なるほど」とうなずける話だ。
      日韓合併の話に戻ると、合併により日本と朝鮮の行き来が簡単になると、朝鮮半島から、最下級身分(奴隷)の者の多くが、抑圧から逃れるために日本に続々とやってきたことも納得できる。
     日本は身分制度や民族差別は殆どなく、住み易い国と見られていた。
     かえって、差別は朝鮮半島での厳しい身分制度を知るコリアン同士に尾を引いてあるそうだ。

     少なくとも、最下級で奴隷生活しているよりは、日本が良かったはずだ。
     今、日本で生活している多くの朝鮮人関係者は、その奴隷の子孫だ。
     帰国しても、土地もなく(元々持てなかった)生活基盤はなにもないのだ。
     つまり、生活基盤が本国にあったコリアンは皆帰国したと見ていい。
     それから、日本敗戦から3年後の
     1948年に始まった「済州島四・三事件(済州島民が赤化し大量虐殺された事件)」で日本に脱出した島民のことにはいずれ触れたい。元島民から苦労話を直接聞いたことがある。日韓併合当時に来日したコリアンとは事情が違うようだ。
     
     韓国や北朝鮮が在日を返せと言わない裏には、このような事情があった。 
     もっとも戦後、GHQの「半島出身者は全員帰国をさせよ」という指令で、戦後1946年3月までに在日朝鮮人のうち、140万人が帰還している事実がある。
     それでも帰国しなかった大きな理由は、
     「再び、元の白丁などの身分・階級に戻るのはイヤだ」
     「徴兵から逃れたい」、
     「貧乏生活に戻るのはイヤだ」
     「日本は裕福で暮らし易い上に、差別がほとんどない
     などの理由からだ。
     高齢のコリアンが近くにいたら確認したらいい。
     最後に帰化のことに触れると、「白丁(パクチョン)」には、日本でいう戸籍「族譜」がないこと、あるいは、密入国している等で書類が揃わない理由も存在するという。

     追記するが、「特別永住者」は2003年からは、以前、帰化申請に必要だった「帰化の動機書」を作成・提出の義務がないので帰化し易くなったそうだ。
     これにより、申請者の親族等からの渡日の経緯や戦後に帰国しなかった理由等の記載は大幅に簡略されたと聞く。
    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuunanadai


     さらに追記すると
     済州島(チェジュド)では、昭和23年から
    大量虐殺事件があった。
     この事件は数年におよび、難を逃れるために日本に大量密入国している。
     2005年の記録では、同島出身の在日は9万9421人、全在日の16.6%にのぼる    が、この事件が切っ掛けで入国したのは何%かは不明。
     1980年代になり、ようやく事件の調査が始まったという。
     一世、二世の「済州島」出身コリアンなら、この事件で入国したと見ていいし、戦後、一旦は済州島に帰国した在日も、この事件で舞い戻ってきた島民も多いそうだ。

    済州島(チェジュド)出身有名人
     
    在日の17%が済州島出身といわれる
     当時、島民の「八割以上が赤化した」と言われ、いわゆる「赤刈り」から逃れて日本に大量密入国している。

     
    一世、 姜在彦(カン ジェオン、1926年 -作家・歴史家)、ヘウニ(歌手)、金時鐘(作家)、呉善花(評論家)、チェ・ホンマン(崔洪万)(格闘家)、宋ボベ(송보배)(プロゴルファー)、姜珉鎬(カン・ミンホ、韓国プロ野球ロッテ・ジャイアンツ捕手) 、
     二世、 金石範(作家・両親が済州出身)、梁石日(作家・父が済州出身)、竹田青嗣(文芸評論家)、文京洙(政治学者)、李政美(歌手)、高橋順伊(ミュージカルアクター)、和田アキ子(歌手・父が済州)
    http://www.mindan.org/toukei.php

    人間家畜の奴婢制度
     奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。
     かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。
     それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具にしたものであった。奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、ひどい場合は打ち殺されることもあった。外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れをさしこまれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった。
    (『ソウル城下に漢江は流れる―朝鮮風俗史夜話』林鍾国、平凡社1987)

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    2010年4月 4日 (日曜日)

    「右翼の正体」をご存じですか

     「右翼」の活動、実は「左翼」の活動と連動していた。
     簡単には、信じることが出来ないかも知れない。
     右翼と称して「うるさい街宣車」で動き回っている連中は、似非(えせ)右翼だ。
     ほとんどが、韓国人、朝鮮人、日本人でも同和関係者なのだ。
     怒鳴っている話し方や服装、態度を見れば、どの程度のレベルの方か知れる。
     このような連中が、真に日本国家、日の丸を尊重するはずがない。
     このようなことは、
     右翼、暴力団とつながる、日本のマスコミは絶対に取り上げないことだ。 

     「右翼の正体http://www.geocities.jp/uyoku33/  
     最近、純粋の日本人が「愛国心」という言葉を使いにくくなったと聞く。
     「日の丸」を掲げただけで「右翼」のレッテルを貼るようなところがある。
     これは右翼と自称する、似非「右翼」の思惑に、まんまとはまった結果だ。

     日本の似非右翼の目的は、大きなスピーカーを取り付け「愛国」「憂国」等の文字を入れた「街宣車」で騒音を撒き散らすなどの反社会的活動を繰り返し、日本人の真の愛国者をイメージダウンさせ、「愛国心を低下」させることにある。
     その結果 「愛国」「憂国」等という言葉を聞くと、いまわしい右翼団体を連想する。
      
     イギリスのBBC放送が、日本の右翼団体を敢然と取材した。
     日本のマスコミと違って、癒着がないから取材ができるのだ。
     そして、
     「右翼の主張は天皇制復活、日本民族の国粋主観等だが、実際の構成員が国粋主義者とは相容れないはずの韓国・朝鮮人、また天皇制という身分階級の下では最下層(同和)に位置され最も身分制度の被害者であったはずの被差別出身者で90%を占めている。はっきり言ってこの取材で、彼らの真の目的を知ることは出来なかった。」
     と報道している。
     再度繰り返すが、
     彼らの目的は、わざと一般公衆が毛嫌いするような行動をとることで「日本人の愛国心」を歪めることにある。
     当然、日本人の利益を考えているのではなく、保守的、愛国的な日本人をイメージダウンさせることにある。その結果、愛国的でない左翼的な日本人が育って影響を強めることになり、彼らはそれによって利益を得ることが可能になるという。
     怖ろしい構図だ。
     その証拠に、ロシアが不法占拠している北方領土返還に叫んでも、北朝鮮による拉致事件については言及しない。
     下段の動画で、右翼や暴力団の実態を知って欲しい。

    暴力団がなくならない理由
    日本のヤクザの「6割が同和、3割が在日」

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    限定販売『出羽三山、牛すじ鍋』

     昨年11月15日(日)山形県三川町「なの花ホール」で「庄内鍋バPhoto_2トル」が行われた。
     このバトルで優勝した鍋は『遊佐町商工会の洋風牛すじ鍋』だった。
     さらに、今年1月31日「遊佐町牛すじ鍋」をアレンジして、埼玉県和光市で開催された日本最大級の鍋コンテスト「彩の国鍋合戦」でも「敢闘賞」を受賞した。

      この「遊佐町商工会の牛すじ鍋」を出羽商工会でアレンジし、『出羽三山、牛すじ鍋』として4月末まで限定販売中だ。
     販売は次の二店で、4月末まで1日10食の限定、1食1,500円だそうだ。
     せっかく遊佐町で創作したというのに、遊佐町や酒田市で販売しないのは可笑しい。
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    4月末まで限定販売中
    ■味三昧「清源坊(せいげんぼう)」鶴岡市伊勢原町20-32
       TEL:0235-22-3659

    ■御食事処「いしい」 鶴岡市羽黒町手向字聖山
       TEL:0235-62-5461

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    最高のパワースポットは皇居

     大抵、テレビがブームに火をつける場合が多いが、相変わらず「パワースポット」人気は高い。浅草○○神社、両国○○院等々得意げに紹介している番組がある。
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     このブログでも、先日、明治神宮「清正井」はパワースポットと紹介したが、いささか異論を唱えておく。
     結論から言うと、この東京(江戸)では、皇居(江戸城)に勝る「パワースポット」はないのだ。
     特に強いのは、「半蔵門付近」と「皇居東御苑」(千代田1)辺りは最高と言われている。
     半蔵門は、新宿通りの突き当たり。
     東御苑には大手門から入ることが出来る。2010_6
     休園日の確認はこのHPで。
     http://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/gyoen-map.html
     先に断っておくが、当方はパワースポットなど信じる方ではない。
     江戸城は1457年に太田道灌によって築かれたが、徳川家康が江戸に入った1590年当時は荒れ放題で城の形態をなしていなかったという。
     これを、一大風水都市に変貌させたのは、家康のブレーンで天台宗の僧侶「天海僧正」(1536?~1643年)の進言と言われている。
     天海僧正は、江戸城に風水で言う結界(霊的バリヤー)を張り巡らした街づくりを始めた。
     
     江戸城の鬼門、上野に「寛永寺」を開き、東叡山(東の比叡山の意)を川越の喜多院から寛永寺に移し、不忍池は琵琶湖とみたてて、奈良の吉野山から桜を移植させて、上野に聖地「吉野山」を造り出した。
     また、裏鬼門を押さえるために「日枝神社(比叡山を指すらしい)」を建立するなど城の周りを「護国寺」「浅草寺」「増上時」「回向院」等の神社仏閣で固めた。
     実に徹底している。
     現在、初詣や花見で賑わう神社、公園などは、この当時の「天海僧正」の策略でもあり、その名残りでもある。
     東京(江戸)自体に、人が集まるように造られたのかも知れない。
     それが、そうなら当たっている。

     結界を張られた結果、皇居(江戸城)は、日本最高、いや世界最高の「エンペラー・オブ・ザ・パワースポット」になった。
     ただ、このようなことは、信じる人のみが救われるようなところがあり、人それぞれだ。何処に行くと「気持ちがいい」、「元気になる」というところがあれば、それはそれで十分と思う。
     個人的には東大和市の多摩湖周辺は、水と森のエネルギーを感じることが出来る「マイ・オブ・ザ・パワースポット」だ。
     あくまで個人的なこと、真に受けないように。
     混雑されては困る。
     下の絵地図は「徹底解剖・江戸時代」からの写し。
     江戸城周辺の赤い地域は町民の地域だ。
     外堀の内側にも民家があった。
     武家屋敷ばかりと思っていた。
     平河門前の「平河町、九段辺りの「飯田町」、半蔵門前の「麹町」は特に有名だ。
     平河町も転々としていて面白い。
     いずれ紹介したい。 
    Image0002

    ■家康のブレーンで天台宗の僧侶「天海僧正」
     南光坊天海。
     朝廷より慈眼大師の諡を下賜される天台宗の高僧。史上、大師号を下賜された僧は仏教全宗派を合わせて24人。そのうち天台宗では天海を含めて5人だけである。生年は1536年(天文5年)、没年は1643年(寛永二十年)、享年百八歳。会津・葦名氏一族に生まれ、11歳で仏門に入る。諸国を遍歴し学僧の教えを受け、足利学校で儒教、仏教、神道を極める。1571年、信長の比叡山焼き討ち後は武田信玄に仕える。天海36歳の時である。その後1588年(天正十六年)に埼玉県川越市の喜多院(川越大師)、正式には「星野山無量寿寺喜多院」に来住する。

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    2010年4月 3日 (土曜日)

    新党は与謝野・平沼が代表

     「民主党の気が狂った暴走政治」をこれ以上許しては、日本が本当に沈没する。
     「子ども手当」は海外に子供のいる外国人にも支給対象にするという。他にも、高校授業料無料化、 高速道路無料化、農家戸別補償、暫定税率廃止等々のばらまき政策に対して、危機感を共有する「憂国の士」達がいよいよ動き出す。

     3日「与謝野・平沼氏が共同代表…新党合意」のニュースが報じられた。
     メンバーには、与謝野馨氏の盟友の園田博之・元官房副長官、平沼赳夫氏に近い藤井孝男・元運輸相、中川義雄議員らが加わる見通しだという。
     あと何人が合流するのか。
     橋本大二郎・前高知県知事、鳩山邦夫氏、
     これら6名の名前は、ほぼ確定と見た。
     石原都知事も、応援団として裏で動いているという。
     舛添氏、山本氏、河野氏はどうする。
     若手の動きが見えてこないが、少なくとも10人以上は集まって欲しいものだ。
     与謝野氏は新党のメンバーは、「いずれ分かるでしょう」と言葉をにごしている。
     それなりの頭数は揃っているのだろう。
     シッカリした第三極をつくって欲しいものだ。
     まず、夏の参院選で民主党の単独過半数を絶対に阻止し、「最低限、衆参ねじれに持ち込まないと、現実に警鐘を鳴らすことはできない」と指摘している。
     また、自民党の支持率が低迷する現状では、「自民党」は反民主党票の受け皿にならない可能性が高いとの認識も共有した。という。
     明日・日曜日の、政治討論番組は面白くなりそうだ。

    与謝野・平沼氏が共同代表…新党合意
     自民党の与謝野馨・元財務相と平沼赳夫・元経済産業相が、月内に新党を結成することで大筋合意したことが、3日明らかになった。新党は両氏が共同代表となる方向だ。メンバーには、与謝野氏の盟友の園田博之・元官房副長官、平沼氏に近い藤井孝男・元運輸相らが加わる見通し。与謝野氏は3日昼、自民党の谷垣総裁と党本部で会談し、7日付の離党届を提出した。--中略--
     与謝野氏は会談後、新党結成について、「なるべく急ぎたい」と記者団に述べた。与謝野氏らは、昨年の衆院選で高知1区から無所属で出馬し落選した橋本大二郎・前高知県知事との連携も模索している。与謝野氏は、谷垣氏ら党執行部を刷新し、中堅・若手を起用して参院選に向けた態勢立て直しを図るよう求めてきたが、谷垣氏は執行部刷新を拒否した。このため、与謝野氏はこのままでは党再生は困難だと判断したとみられる。
     これに関連し、先に同党を離党した鳩山邦夫・元総務相は3日、福岡県大木町で読売新聞の取材に対し、「大義のために団結できるのなら、どんな方とも一緒にやりたい」と述べ、与謝野、平沼氏らが作る新党に参画したいとの意向を示した。鳩山氏は「今、名前が挙がっている方みんなが一緒になれるよう、私が力を尽くせることがあれば何でもする」と語った。(2010年4月3日 読売新聞)

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    たっちゃん池と太陽広場

     内堀輝志著「東やまとの散歩道」という本がある。486082010x

     内堀さんは、昭和35年から平成7年まで、警視庁心理技術職員として勤務し、「警察官の採用・心理判定教育」を担当、さらに平成7年から平成11年まで警察学校教授を歴任した方だ。
     この著書は2009年8月20日発行とあるから、比較的新しい本だ。東大和市高木三丁目にお住まいで、ご近所の方でもあり、勝手ながら応援させていただく。

     この著書の242頁に「十二段とたっちゃん池」という項があるので、「たっちゃん池」の言われなどを、引用して紹介したい。
     たっちゃん池は「都立狭山自然公園」の中にある約80メートル四方のこぢんまりとした池だ。
     この「たっちゃん池」と「太陽広場」の写真は下段に添付した。
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     また内堀さんには、「こころの機微」という著書もあり、
     生き生きと、豊かに、健やかに、「今、ここ」を一生懸命に生きる。心理技術者として35年間職員教育に携わった著者が、語り続けた人生の知恵。と紹介されている。

    内堀輝志著 「東やまとの散歩道
     村山下貯水池堰堤の滝見橋の南東にある。
     ひっそりとした静かな池であるが、「たっちやん池」という俗称で親しまれている。
     もともとここには田用水として使われていた溜め池があった。
     高台にあった三光院の山門付近から見えたことから、「門前池」ともいわれたという。村山貯水池工事によって、流路などが変えられたため整備された。余水は急に下って、十二段からの水路に交わり、宅部(やけべ)川として東村山市の北山公園方向に流れていく。大正14年夏、狭山に住む「たっちゃん」という十歳の少年がここでおぼれ死んだ。
     たまたま村山貯水池建設の最中で、作業をしていた人たちが次々助けに飛び込んだが、このうち二人の青年が犠牲になった。一人は兵役が明けて帰ってきたばかりだったという。
     宅部貯水池は溜まり水で、表面は温かいが1メートルも下は急に冷たくなっている。危険だから泳いではいけないと、親だちからはしばしば言われていた。しかし近くに泳げる川もなく、プールもない村の子どもたちは、私も含めて皆何回かはこの危険な池で水浴びをした経験がある。睡蓮がきれいな花を咲かせた南西隅の方は、水深が浅い感じだったが底は泥沼で、立とうとするとずぶずぶと足が取られて、いっそう危険だった。
     「たっちゃん池」のすぐ東側に「太陽広場」と呼ばれ、今はそれが正式名称になっている開けた台地がある。小さな子どもたちをつれた家族がこの原っぱでよく遊んでいる。
     実はここの命名にはちょっとしたエピソードがある。昭和21、2年ごろ、解き放たれたように野球ブームが起こった。このとき近くの青年たちが「太陽」という野球チームをつくり、ここでよく練習をしていた。
     中に一人二人じょうずな人がおり、私たちは半ばあこがれの気持ちで先輩たちの野球を見ていた。子ども仲間では誰言うとなく、いつかこの原っぱを「太陽グラウンド」と呼んでいた。
     樹木の茂る中でここだけ開け、陽の光をいっぱいに受けた台地は、「太陽」の名にふさわしかったのかも知れない。でこぼこの草原は「グラウンド」と呼ぶには違和感があり、名前は「広場」に変わって受け継がれてきた。

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    第一生命ビルは浅右衛門邸跡

     先日、千代田区平河町1丁目の 「月やま会館」は、首斬り「山田浅右衛門」の屋敷があった場所にある。
     と記載したが、一部訂正しておく。
     「山田浅右衛門」邸が掲載された絵地図を見つけ、ほぼ正確な位置が判明した。
     絵地図は下段に掲載する。
     現在の地図と比較して欲しい。
     「月やま会館」は、(山形県東京宿泊所、平河町1-3-4) という山形県人のための施設がある。1階には「山塞」という山形料理を出す店もある。Tukiyama21
     そして、隣には第一生命ビル(平河町1-2-10)があるが、ここが首斬り「山田浅右衛門」の屋敷があった場所だ。
     第一生命は、4月1日に東京証券取引所に上場した、最近、注目の保険会社だ。
     
     「山田浅右衛門」は、将軍吉宗の時代の山田浅右衛門から始まる。 「山田浅右衛門」というのは「屋号」のようなもので代々世襲された。
     斬首刑の執行は正確には「副業」で、本業は「公儀御試御用」といって、将軍家に納められる刀剣の切れ味を実際に「試し斬り」する役職だった。 
     「月やま会館」を利用する山形県人のために断っておくが、何もこの屋敷で首斬りをしていたわけでないので、安心して欲しい。
     ただ、この屋敷では斬首した遺体から肝臓を取り出し、ある薬を造っていたことは良く知られた話だ。

     最近、この近くの半蔵門辺りは、「パワースポット」としても有名だ。
     浅右衛門は無意識のうちにも、龍脈(パワースポット)でエネルギーを得ていたのかも知れない。それでなくては人間の生首を斬首することは、なかなか出来ないだろう。 
     また、隣には「平河天神」がある。
     この神社も昔の境内は広かったが、現在はこぢんまりしている。
     近くには、岡場所もあって賑わっていた場所だ。
     この周辺は、討ち入り前の赤穂浪士17人が分散して潜んでいた場所でもある。
     赤穂浪士のドラマや映画には必ず出る地名だ。
     
     陳情などで上京し、「月やま会館」を利用した際は、これらの知識で近所を散策してはどうだろうか。

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    鶴岡出身28代木村庄之助逝く

     「木村庄之助」と言えば、大相撲の行司として最高位にあり、現在35代目が横綱相撲を裁いている。
     この「28代木村庄之助」にあった、山形県鶴岡市出身の本名は後藤悟(旧姓・赤松)さんが、4月1日死去した。自宅は千葉市稲毛区長沼町173の44。81歳だった。
     後藤さんが28代木村庄之助を襲名していたのは、1991年(平成3年)~1993年(平成5年)までで、庄之助としては18場所勤めた。Photo

     この当時は、相撲も若・貴ブームで人気絶頂であり、連日大入りだった。
     このような中で約二年間最高位で横綱相撲を裁いていたが、土俵上の所作も美しく平成の名行司と称された。
     相撲ファンなら、この風貌と所作に記憶あるであろう。
      28代木村庄之助には、鶴岡市は、ぜひ「鶴岡市名誉市民」として賞して欲しかった。

     これまで、「鶴岡市名誉市民」として賞された方々は、次のような方がおられるが、28代木村庄之助としての功績は決して遜色ない。

    鶴岡市名誉市民
    山崎誠助は、山形県鶴岡市出身の、日本の劇作家。教育家
    酒井忠明は、旧庄内藩主 酒井家17代当主、写真家、書家、歌人
    富樫剛は、大相撲第47代横綱柏戸・鏡山親方は、昭和30年代から40年代半ばにかけ、角界に柏鵬時代を築く。
    森 敦(1912年1月22日~1989年7月29日)は、小説家。長崎県生まれ。
    星野勇三は、羽黒町初の名誉町民となり、現在鶴岡市名誉市民。1964年(昭和39年)死去する。
    相良守峯は、東京大学名誉教授(1956)。西ドイツゲーテ協会「ゲーテ賞碑金章」受賞(1968)。文化功労者(1969)。日本ゲーテ協会会長(1976)。文化勲章受賞(1985)。従三位勲一等瑞宝章(1989)。 鶴岡市名誉市民第一号(1969)。墓は鶴岡市禅龍寺
    齋藤悠輔は、(明治25年5月21日~昭和56年3月26日)は、温海町(現・鶴岡市)出身の、最高裁判所判事。勲一等瑞宝章・温海町名誉町民(後の鶴岡市名誉市民)。
    ■杉村隆は、日本のがん医学の大家。国立がんセンター名誉総長。東邦大学学長(2000年6月まで)
    富樫実は、鶴岡名誉市民の彫刻家。京都美術文化賞、京都市文化功労者受賞。紺綬褒章受章。京都成安女子学園常務理事。

     ※作家の藤沢周平は、辞退している。

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    2010年4月 2日 (金曜日)

    多摩湖畔の桜開花情報

     4月2日(金)現在、多摩湖周辺の桜の開花は、ほとんどのところで「八分・九分咲き」といったところだ。
     明日、土・日には天候次第では満開と予測される。 

     西武遊園地の反対側、多摩湖堰堤前にある東大和警察署の村山貯水池駐在所隣の桜が一番早く咲くと言われているが、この桜木は満開だった。
     周辺の桜も九分咲き、きっと、土日は満開であろう。
     駐在所前には無料の駐車場があり約20台置くことができるが、今日も満車状態で入り口には空き待ちの車が二台あった。
     ここの車は、公園内に工事で来ている車もあり、朝置くと動かないところがある。486082010x_2
     花見客は、公共交通機関で来るのが安心と思う。

     多摩湖周辺の桜に関して掲載された著書があるので紹介したい。
     内堀輝志著「東やまとの散歩道」という本がある。
     内堀さんは、昭和35年から平成7年まで、警視庁心理技術職員として勤務し、「警察官の採用・心理判定教育」を担当、平成7年から平成11年まで警察学校教授を歴任した方だ。
     
     高木三丁目にお住まいで、ご近所の方でもあり勝手ながら応援させていただく。

    内堀輝志著「東やまとの散歩道」
     「多摩湖の呼称と桜の名所」から
     多摩川・狭山川周辺は東京では有数の桜の名所である。
     場所によっては一時期よりかなり衰退した感じもあるが、広い範囲に二万本とか三万本の桜があるといわれている。そのきっかけは、市が進めていた公園づくり計画の時期にあった。
     最初にここを桜の名所にしようと考えたのは、元東京市長牛窪虎太郎氏であったといわれている。昭和三年ごろ私財一万円を投じて、桜の植樹を依頼した。その後昭和八年に服部時計店社長の服部金太郎氏の遺族が、桜の苗木一万木を寄贈したという。これらが今日の土台になっているらしい。
     『多摩湖の歴史』には、昭和34年に日本商工会議所会頭の足立正氏が桜の苗木二千本を寄贈し、「狭山青年の家」周辺に植えたと紹介している。このころ「村山貯水池駐在所」南側の空き地に、桜の若木がかなり植えられたが、それが今立派に成長して、この付近でいちばんの花見どころになっている。
     狭山湖の堰堤につながる「桜のトンネル」は、15年ほど前までは多摩湖・狭山湖随一の桜の名所であった。しかし現在は残念ながら哀れなほどに衰弱している。

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    国旗、国歌を否定する議員達

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     「国旗、国歌を否定する人が、その国の公務員や議員になってはならない」
     これは世界共通の認識と思う。
     なぜなら、議員や公務員は国やその自治体のために働き、そこから税金で給料が支給されるからだ。
     すべて公務員は、憲法第99条に基づき、憲法を尊重し擁護する義務を負う。また、憲法第15条に基づき、「全体の奉仕者」として公共の利益のために勤務するという一般的な義務を負う。Photo_3
     この簡単な理屈が日本では通じない
     事実「日の丸」や「君が代」を毛嫌いする人は相当に存在する。日教組の強い指導で、学校の先生が子供達が嫌いになるようにし向け、親達も大切なことを教えないからだ。
     もっとも、今の親たちも、殆どが日教組世代か。

     公務員になるからには、国が決めた法律、規則に従うことは当然だ。
     国旗・国歌に関しては「国旗及び国歌に関する法律」という法律が存在する。

     昨日4月1日は、大阪府の新規採用職員任命式で、橋下知事が「君が代斉唱」に「声が小さい!」とカツを入れたことが話題になったが、逆に見るなら「唱わない」職場や学校が殆どなのだ。シッカリと唱わせるところは、警察、消防、海上保安庁、自衛隊くらいではないか。
     他に唱わせる職場があれば知りたいし、見学に行きたいものだ。
     当方は何カ所か覗いたことがあるが、皆突っ立っているだけだった。
     公務員でも労働組合があるところでは無理、せいぜい国旗掲揚だけで、国歌斉唱は困難と聞いている。
     大相撲、ボクシング会場、国際大会などで、国旗掲揚の場面があっても国家を唱うのは外国選手だけ、日本の選手や会場の人が唱うことは、まずない。
     
     ついでに「国旗及び国歌に関する法律」は平成11年制定されているが、
    このとき民主党議員の多数は反対している。
     民主党が、本当に国旗・国歌を否定するなら、再度やり直したらいい。
     下段には「民主党議員」の当時の反対者を列挙した。
     民主党は、日本の象徴」である国旗・国歌をも否定する
     この程度の党なのだ。
    それが国民代表として多数の議席を占めるのだから、国がおかしくなるのも当然だ。
     それとも、写真のように「中国」の国旗には忠誠を尽くすのだろうか。
     民主党議員の中には、共産党より左の、極左と言われる怖ろしい方々が何人もいることを忘れてはならない。

     もう一点追記すると、「日本共産党」は天皇陛下が出席する国会の開会日には必ず欠席する。
     これは、共産党は天皇制を認めず国旗・国歌などもってのほかと考えているからだ。
     天皇の国事行為の一つに「国会を召集すること(第7条第2号)」とある。
     欠席しても処罰規定はないようだが、
     開会式のような儀式には、主義主張は別にして、国民の代表として出席するのがは当たり前と思う。
     日本共産党は天皇陛下の侮辱だけでなく、国民をも侮辱している。

     現在の「日本共産党」は、マルクス・レーニン主義特有の用語や国民が警戒心を抱きそうな表現を削除、変更するなど、「革命色」を薄めソフトイメージを強調している。
     「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」と変更したことが、その一例だ。
     しかし、二段階革命論、統一戦線戦術といった現綱領の基本路線に変更はなく、暴力革命を捨てたわけではない。
     1921年ソ連共産党、コミンテルン支部・日本共産党として誕生し、ソ連共産党の言いなりで活動していた党だ。
     この誕生母胎をみても、どのような組織か伺い知ることができる。

    橋下知事が任命式の君が代斉唱に「声が小さい!」2010.4.1
     大阪府の新規採用職員任命式が1日、大阪市中央区の府庁新別館で開かれた。今年度から式典の開会にあわせて国歌斉唱を導入。橋下徹知事は「声が小さい」と一喝。「みなさんは国家のもとで仕事をするのだから、思想信条の自由とかいっている場合ではない。国歌はきちんと歌うのが義務」と早速、新職員に橋下流の洗礼を浴びせた。
    ■橋下家の子供も歌えず…/市長「大阪市こそ中心」
     任命式では例年、国歌斉唱は行われていなかったが、橋下知事からの指示を受けて実施することに。今年は新たに137人が入庁。国歌を歌っている職員も、そうでない職員もいたが、みな緊張した面持ちで式典に臨んでいた。
     訓示のなかで、橋下知事は「うちの子供が国歌を歌えなくてびっくりした。みなさんは公務員になって憲法を順守すると誓った。国家のもとで仕事をするのだから、国家国民を意識しないといけない。これからはことあるごとに国歌斉唱をしていきます」と訴えた。これまで国歌をきちんと歌ったことがないという男性職員は「学校などで国歌を学ばなかったので、歌えなかった。日本人なのでこれからは歌えるようにしたい」。別の女性職員は「歌えるけど、恥ずかしくて声が小さかった」と話した。
     また大阪市でも新規採用者の発令式が行われ、平松邦夫市長が新職員約120人にあいさつ。「市職員の不祥事が続発しており、周囲から心配された人もいるかもしれないが、市民のために動ける大阪市を皆さんの力を借りながらつくっていきたい」と呼びかけた。さらに「府市再編とか一方的に言っている人がいるが、地域主権の主体である基礎自治体をリードしていくのは大阪市だ」と橋下知事を牽制した。 

    ■国旗及び国歌に関する法律案を委員長報告のとおり決するを否とする議員の氏名
    共産党全議員」、「社会民主党全議員」、「民主党議員の内(衆議院46人)」
    赤松 広隆    
    伊藤 忠治  
    家西 悟     
    池田 元久
    池端 清一    
    石毛えい子
    石橋 大吉    
    岩國 哲人
    岩田 順介    
    上原 康助
    生方 幸夫    
    枝野 幸男
    小沢 鋭仁    
    大畠 章宏
    海江田万里   
    金田 誠一
    河村たかし    
    菅 直人
    北橋 健治    
    桑原  豊
    小平 忠正    
    小林  守
    五島 正規    
    近藤 昭一
    佐々木秀典
    佐藤謙一郎
    坂上 富男    
    末松 義規
    辻  一彦    
    土肥 隆一
    中桐 伸五    
    中沢 健次
    葉山  峻    
    鉢呂 吉雄
    原口 一博    
    日野 市朗
    肥田美代子    
    福岡 宗也
    細川 律夫    
    前原 誠司
    松本 惟子    
    松本  龍
    山元  勉    
    山本 譲司
    山本 孝史    
    横路 孝弘
    石井 郁子    
    大森  猛
    金子 満広    
    木島日出夫
    児玉 健次    
    穀田 恵二
    佐々木憲昭    
    佐々木陸海
    志位 和夫    
    瀬古由起子
    辻  第一    
    寺前  巖
    中路 雅弘    
    中島 武敏
    中林よし子    
    春名 直章
    東中 光雄    
    平賀 高成
    不破 哲三    
    藤木 洋子
    藤田 スミ    
    古堅 実吉
    松本 善明    
    矢島 恒夫
    山原健二郎    
    吉井 英勝
    伊藤  茂    
    北沢 清功
    知久馬二三子   
    辻元 清美
    土井たか子    
    中川 智子
    中西 績介    
    畠山健治郎
    濱田 健一    
    深田  肇
    保坂 展人    
    前島 秀行
    村山 富市    
    横光 克彦

    鳩山由紀夫
     私は、民主党を代表し、国旗及び国歌に関する法律案に対する修正案について、その提案理由及び概要を御説明いたします。今、多くの国民が、窒息しそうなほどの息苦しさを感じています。数に物を言わせ、国家の管理を強化しようという政権が誕生しようとしているからです。まさにこのようなときに、日の丸を国旗に、君が代を国歌に定めるという法案が提出されました。その審議に際して、我が党の石井一議員の質問に対し、野中官房長官は、まさに恫喝とも思えるような答弁をされました。それはまさに、国民に対して、国民に言われる筋合いではないと開き直っているのと同じであります。
     ここ数年来の長官の変節とも言える言行不一致と無責任発言は、到底許容しがたいものであり、次世紀の我が国のあり方にもかかわる本法案が、そのような大臣の主管のもとで審議を進めなければならないことは、日の丸・君が代はもとより、日本国民にとってまことに不幸なことであります。日の丸・君が代が国旗・国歌として定着していることは、多くの国民が認めるところであります。
     だから、わざわざ法律にすることもないという意見もあるほどです。しかし、日の丸・君が代が国旗・国歌として定着していることと、日の丸・君が代を法制化することとは、全く別の問題です。
     現実に、日の丸の法制化については多くの国民が賛成しておりますが、君が代に対しては、歴史観の相違や世代間の受けとめ方の違いなどから、さまざまな意見があり、法制化することについては慎重論がふえております。
     それにもかかわらず、政府が、通常国会冒頭ならまだしも、延長された国会の中で本法律案を提出したことは、余りにも唐突であると言わざるを得ません。その上、政府が本法律案を提出した動機も、教育現場の混乱を押さえつけるためだけとしか考えられず、不純なにおいが感じられ、また、結果として、残念ながら、教育現場もさらに混乱する懸念すらあります。

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    男多数の街に誕生した吉原

     江戸は武士の街として開かれたが、生活物資供給のため商工業関係者が徐々に集まり、無秩序に街が拡大した。そこに、明暦3年(1657)の「振袖火事」で街がほぼ壊滅したことが再開発のきっかけになる。人口は急増し早々に百万都市になったが、江戸初期から圧倒的に男が多く、一説には、男65%、女35%だったという。
     すると当然のように、男達のはけ口と懐を目的にした遊女街が誕生する。
     これは、需要と供給から自然発生する最古の商売だ。

     現代社会でも、日本、外国関係なく軍隊等の男の集団組織がある近くに、必ずといっていいほど歓楽街が形成され、女達が集まるのと同じ理屈だ。
      つまり商売になるのだ。
     江戸では、まず麹町、鎌倉河岸、内柳町辺りに遊女屋が出現したが、その後、幕府は公娼制度を認め、「吉原」は、日本橋葺屋町(日本橋人形町)に作られた。これが大火の後1657年(明暦3)浅草寺裏の湿地の田圃ばかりの日本堤に移転することになる。
     これが「新吉原」で、移転の見返りとして広大な土地が与えられ夜間営業も認可された。新「吉原」は、周囲に幅5間の鉄漿溝(おはぐろどぶ)を巡らし、東西180間、南北135間。総坪数は3万坪弱もあった。昭和33年まで続くことになる。Photo_2

     ここには数千人の遊女の他、妓楼の従業員、商店、本屋・質屋・銭湯、芸事の師匠等、大勢が働く街が形成された。また、1765年には、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女(娼婦)が規制されるが同時に吉原の遊女増員が許可された。更に1842年には吉原以外での売春は禁止されるという歴史があった。
     
     江戸初期から昭和33年まで300年間に及ぶ遊郭街・新吉原の歴史は、江戸の街にとっては必要悪でもあった。
     残念ながら年齢的に利用体験はないが、昭和33年売春防止法が制定した約10年後に上京しており、当時を知る先輩方の自慢話は良く聞いたものだ。
     吉原は消えたが、明治通りの「吉原大門」の地名や街並に名残がある。
     なお、「吉原」の語源は、最初の土地が「芦の原っぱ」だったとも、遊廓を開拓した庄司甚内の出身地・吉原宿から付けられた説がある。
     そして最後に、最近、中・高生ら少女達による援助交際という名の売春Image0006を聞くと「吉原」の存在意義は、簡単には否定出来ないと思っている。もっとも、今のような規範の弛んだ時代では、吉原が有っても無くても、自然発生したのかも知れない。
     売春は、社会の問題点と裏側を形を変えて姿を現すのだろう。
     といって、「復活」という意見には、大きな反対運動が起きるのは確実だ。
     それを世間に納得させるだけの論陣を張れる男は、まずいない。
     援助交際の次は何が出るのか。
     「老女売春」、「アンドロイド売春」?、本当に何がでるか予想が付かない。

    Photo_4

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    2010年4月 1日 (木曜日)

    「文春」と「新潮」は本日発売

     今日は「週刊文春」と「週刊新潮」の発売日だ。
     週刊誌を買うときは、このどちらかが殆どだ。
     選ぶときは、中吊りの「みだし」に左右されるから、編集者も大変だと思う。

     この雑誌社はいずれも老舗であり、ともに「新聞・テレビが書かない記事」を書く週刊誌というスタンスで信頼性が高い。
     逆に言えば、それ程信頼出来ない新聞、テレビ等の大手マスコミが多いのだ。
     もし、これらの雑誌社まで、共産党や社民党などの左翼政党、創価学会などの宗教団体、右翼や暴力団、日教組、朝鮮、中国などの日本を敵視する外国におもねる記事を書くようになったら、それこそ日本はおしまいと感じるだろう。

     また、かつて「週刊現代」や「週刊ポスト」が女性ヌードを掲載して売り上げを伸ばしたあとも、「女性ヌード」はなく、通勤時など人前でも安心して読める雑誌だ。

    ■「週刊文春
      発売日:毎週木曜日。価格:350円
      http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/

    100408

    ■「週刊新潮
     発売日は毎週木曜日、価格は320円。
        http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/

    20100401

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    おもしろ地名「今川」「八丁」

     今日は4月1日新年度であるが、学生や職業によっては、新暦(グレゴリオ暦)Carwg63qの正月よりこの年度変わり、「会計年度」の区切りを強く意識することが多いのではなかろうか。
     昨日31日は杉並区「今川」の「観泉寺」の横を通りがかった。
     桜は五分咲きほどだった。桜を観ながら駄作が浮かんだ。
    五分もよし 満開もよし 散るもよし
    「様々の 思いで胸に 桜観る」
    「桜咲き 区切りの時に 旅立ちぬ」
    「散る河津 思いを託す 八重桜」

     さて、地名「今川」の由来だが、戦国時代の今川家に由来する。
     今川氏は、室町時代~戦国時代にかけて駿河国などを治めた大名であったが、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に敗れたのち没落した。
     徳川家康は6歳当時、今川義元の人質として暮らした縁から、義元の子・今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、慶長19年(1614年)に江戸で没した。
     氏真の嫡孫今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって正保2年(1645年)に徳川家光から、井草村・鷺宮村・中村3ヶ村500石を知行地を与えられた。
     以後、当地は幕末まで今川家一円知行の所領として続くことになる。敷地の広さは、南は青梅街道、北は早稲田通り辺りまで「八町」もあったという。青梅街道に「八丁」という交差点名として名残がある。
     江戸時代の観泉寺は知行地支配の拠点でもあり、領民からの年貢の取立てや裁判なども寺の門前で行われていた。
     よって、斬首の刑も境内の北外れで行われていたという噂がある。
     裁判が行われていたのだから、当然あり得る話だ。
     ほぼ正確な位置も知っているが、ここには書かない。
     なお、今川氏は明治時代に断絶したが、地名『今川』や『八丁』の由来となっている。

    ■東京都杉並区今川2丁目16−1
        03-3390-0015

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