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2010年3月12日 (金曜日)

米軍は明かに一般住民を狙った

 史上最大の東京大空襲

 気にくわなかったら今でも牙をむいて戦いを挑んで来るだろう。Scan10007_2
 理屈は後から、どうにでも付けることができる。
 最近では「トヨタ」や太地町の「イルカ漁」に向ける視線と同じだ。国益が全てに優先して行動を起こしている。
 アメリカの本性は、昔も今も変わっていない。

 1945年(昭和20年)3月10日未明、アメリカ軍B29、330機により無差別空襲を受け、東京の主要地域は「炎の夜」と化した。この東京大空襲により下町は壊滅状態に陥り、死者約10万人、負傷者約11万人、約100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
http://www.geocities.jp/torikai007/war/1944/b29.html

 この空襲は、F13(B29改装偵察機)によって、東京地区をくまなく撮影した後に行われた。これ 一つをとっても、非戦闘員を狙ったことが分かる。
 ※右の写真は、右上が駒込・六義園。この公園の煉瓦塀の内側には、空襲の犠牲者約600体が葬られた。塀に沿って内側が土手のように坂になっていることを確認できる。

米軍指揮官の論理
 本土空襲の指揮を取っていた、カーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べている。
 「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだこれをやっつけて何が悪いのか…。」
 これがアメリカ側の普通の論理だ。
 カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く関係している。

■米軍が記録した「日本空襲」」(発行社・草思社1995.6.5)

 たった一機の「超空の要塞B29」が東京の空に初めて姿を見せたのは昭和19年(1944)11月1日であった。
 写真撮影を目的にした偵察だった。
 11月5目と7日にも数機で姿を見せ、なにげなく立ち去った。そしてマリアナ諸島に日本空襲の飛行場を獲得した米軍が、本格的に本土空襲を開始したのは昭和19年11月24目であった。
 すでに紹介したように、その第一弾は東京郊外の中島飛行機製作所に落とされ、以後、首都・東京は昭和20年8月15日の敗戦の目までつねにB29の空爆目標にされていた。
 東京はこの間の9カ月に約130回の空襲を受け、米軍が戦後の使用を目論んで空爆目標から外していた建物や施設を除き、ほとんどが灰燼に帰してしまった。
 米軍の空爆戦略から東京空襲を大きく分けると、おおよそ次の三段階に分けられる。
○第一段階 昭和19年11月24日から20年3月5目にいたる軍需工場などを中心とした精密爆弾。
○第二段階 昭和20年3月10日に始まり、5月中旬まで続いた焼夷弾による都市部への無差別爆撃。
○第三段階 昭和20年5月下旬から終戦の日まで続いた東京の山の手一帯から周辺都市への空襲。
 いわゆる3月10日の束京大空襲の前にも、天候不良などで目標の軍需工場などが確認できずに都内へ投弾して行ったケースもかなり多かった。たとえば11月29日には神田一帯は初の夜間焼夷弾攻撃に見舞われているし、20年1月27日には72機のB29が午後2時すぎに銀座周辺を猛爆撃して花の銀座を瓦礫の街にしている。
 2月に入っても東京空襲は断続的に続き、次第に無差別爆撃の様相を濃くしてきた。19日には百余機のB29が王子、深川、京橋、赤坂、葛飾、江戸川、渋谷を襲い、25日には空母搭載の艦上機延べ約六百、B29二百数十機の大群が神田、本郷、下谷、浅草、荒川などを襲い、それまでの空襲の中では最大の爆弾と焼夷弾を投下していった。
 そして迎えたのが3月10目午前零時8分からの「東京大空襲」と呼ばれる首都壊滅作戦だった。この夜来襲したB顛一は、日本側資料では約130機、米側資料では334機で、超低空で侵入したB29は墨田、江東地区に焼夷弾の絨毯爆撃を行ったのである。
マリアナの第21爆撃軍司令官ルメイ少将によって練られたこの日の空襲にはいくつかの特徴があった。その第一はより多くの焼夷弾を積み込むために機銃を取り外し、弾薬も積まず、搭乗員の数も減らされたことだ。そして各B29は爆弾搭載能力いっぱいの平均約六トンの焼夷弾を積み込んだ。『米陸軍航空部隊史』は記している。「先頭のB29大隊は遥t備火災〃を発生させることを目的としたナパーム充填のM47焼夷弾(70ポンド)180発を携行した。この準備火災は相手の消防自動車陣の注意を集めるための火災であった。これらの照明弾投下機の後から続いて爆撃する他の機は500ポンドのM69集束弾24発を還んだ。照明徴の投弾間隔は30メートル、他の機のそれは15メートルと決定された。後者の間隔によって一平方マイルあたり最小限25ヤンの密度を与えるものと想定された」一機平均六トン、B29、334機では合計二千トンの焼夷弾である。
 第二は、それまでの編隊飛行をとりやめ、B29は単独で行動し、高度千五百から二千八百メートルの低空から進入して焼夷弾を投下、各機ただちに帰還するというものだった。そして絨毯爆撃は予定通り深夜の午前二時半まで続き、隅田川をはさんだ本所、深川、浅草、日本橋地区は一面火の海につつまれた。『米陸軍航空部隊史』は爆撃直後のB29からの報告をこう伝えている。
 「目視により目標を爆撃。全面的に大火災が生じており、煙により視界が非常に阻害され、また大熱波により生じた強風によって爆撃航路をとることが困難であったために、後続の編隊は目標を求めて広く探し回ることを余儀なくされた。帰還飛行中の尾部銃手は240キロの距離からでもまだ火災の赤い輝きを認めることができたという」。空襲警報は午前3時20分に解除されたものの火炎はおさまらず、ようやく火の手が衰えたのは午前六時すぎであった。
 そして生き残った人々が目にしかものは、一面の焼け野原と隅田川や下町を流れる運河、学校、寺院、公園、道路などに折り重なる黒こげの死体だった。警視庁の調べでは、この日の犠牲者は死者8万3千7百93名、負傷者4万9108名、死傷合計12万4千7111名となっているが、正確な数字はいまだに分かっていない。消防庁の数字は死者、負傷者とも若干ずつ違うし、「帝都防空本部情報」には負傷者11万3千62名という数字もあるからだ。いずれにしても膨大な死傷者に加え、戦災家屋26万8千戸、罹災人口百万余という被害は、原爆の広島に匹敵する数字である。

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