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2010年3月19日 (金曜日)

海坂藩のモデルは「庄内藩」

 「海坂藩(うなさかはん)」は藤沢周平作品の多くに登場する。
 架空の藩名だが、「江戸から北へ百二十里、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある」とあり、藤沢周平の出身地・鶴岡市「酒井家庄内藩」をモデルにしていることは確かだ。
 「たそがれ清兵衛」、「隠し剣鬼の爪」、「武士の一分」、「山桜」、

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「蝉しぐれ」、「花のあと」、「必死剣・鳥刺し」など、藤沢周平の小説がどんどん映画化・テレビドラマ化されヒットしていることもあり、藤沢周平のファンだという人が多い。
 それではと、「海坂藩のモデル庄内藩のことは藩か知っていますか」の質問には、殆どの方が「良く知らない」、知っていても、せいぜい「幕末に薩摩の江戸藩邸を焼き討ちした藩」程度の答えしか返ってこない。
 出来れば、幕末、京都守護職に就いたのが「会津藩」、江戸市中取締りに就いたのが「庄内藩」で、徳川四天王の家柄、という程度は知っておいて欲しいものだ。
 藤沢周平が、庄内藩のことに直接触れている著作物は少ないようだが、全集第23巻「荘内藩主酒井忠発の明暗」に詳しく記述があるので紹介したい。
 藤沢周平は、このような知識を元にして、小説が生まれたことを知ることができる。
 実在の人名をヒントにして、小説の登場人物に名を付けていることもあるようだ。
 藤沢周平自身も、「庄内藩の分限帳みたいなものをよく見ます」と話している。
 これからは「海坂藩」のモデルは「庄内藩」であり、藩主の酒井氏は、戦国武将で「徳川四天王」の一人である酒井忠次の嫡流、左衛門尉酒井氏で譜代の名門の家柄であることを頭において、本を読むなり、映画を観るなり、されてはどうだろうか。
  楽しみが倍加することだろう。
 なお、酒井左衛門尉(さえもんのじょう)とは、日本の律令制下の官職の一つ。
 平家追討では「源義経」も任ぜられている。

■藤沢周平全集第23巻「荘内藩主酒井忠発(ただあき)の明暗」(原文引用)
 江戸市中取締りとして、薩摩屋敷の焼打ちを断行し、戊辰戦争では最後まで官軍に抵抗した幕末の荘内藩は、生粋の佐幕派の印象を残している。
 たしかに荘内藩は、藩祖酒井忠次以来の徳川家譜代の藩であり、また三代忠勝が信州松代から荘内に移封された元和八年以来、天下の藩屏(はんぺい)、北国の押さえを祖法とした藩でもあった。
 しかし幕末期のはげしい情勢変化は、この生え抜きの譜代藩にも波及し、後のように佐幕体制を確立するまでには、藩内に公武合体派と佐幕派の激烈な主導権争いが演じられたのである。
 幕末期の情勢と荘内藩とのかかわりあいは、寛政五年松平定信が沿海諸藩に海岸防備の強化を下命したころにはじまる。この年荘内藩は領内の日本海岸三ヵ所、吹浦、今泉、鼠ケ関に外国船見張番所を設け人数を配置したが、翌六年には鶴ケ岡城大手前にかいて、大規模な異国船打ち払いの訓練を実施している。このころ酒田の豪商本間光丘は、泉州堺に五十匁砲、百匁砲五門を注文して藩に献じた。
 当時の、いわゆる外夷の脅威との、不確かなそしてはじめての接触であり、幕末期荘内藩の幕明けとでもいうべき新しい動きがそこに見られる。
 その後荘内藩では、文化四年には蝦夷地に出兵したり、また翌年には本間光丘が堺から取寄せた新式銃砲を使って、荘内海岸で試射を試みたり、次第に新しい時代の波を浴びはじめる。嘉永元年には、酒田沖の孤島飛島に、異同船が現われ、島を砲撃したので、藩では急速足軽組二組に砲手数名を添えて、飛島に派遣するということもあった。
 海岸防備は強化された。
 そして軍艦七隻を率いて、再度来航したペリー提督が、幕府との間に強引に日米和親条約を結んだ安政元年に、荘内藩は品川の五番台場の警備を命ぜられた。
 こうした外圧との接触が深まるのと並行するように、藩内ではひとつの抗争が進行していた。十代酒井忠器が隠居し、嫡子忠発が家督をついで十一代藩主となったのは、天保十三年である。そのとき新藩主出発は三十一歳だった。早くから世子と定められていたわりに、遅い家督相続とみられたが、これには藩内の事情が絡んでいたのである。
 荘内藩には両敬家と称し、格別の家柄とされる重臣がいた。
 酒井奥之助、酒井吉之丞の二人がそれで、奥之助直方は、三代忠勝の九男市之助忠直の裔で千百石、吉之丞可繁は、二代家次の四男酒井可次を祖とし、禄は千三百石を領していた。
 この両家は家臣というより藩主の相談役といった地位にいて、元来は役職を持たない家柄だったが、忠器が隠居し忠発が家督をついだという時点では、奥之助か家老、吉之丞が中老として藩政に参画していた。当然ながら、藩政に対する発言力は非常に強かった。
 ほかに中老に松平舎人敬親がいた。この松平家も、家次の次男松平甚三郎久恒を祖とする松平甚三郎家の分家で、二千石を領する大身である。
 この三重臣と隠居した忠器との間は、よほどウマが合ったらしく、それが忠発の家督を遅らせたひとつの原因だとされている。新藩主が出現すれば当然藩内の勢力地図にも変化が出てくる。そういう変化を、忠器も両敬家らの重臣層も歓迎しなかったということなの
だが、この後の経過をみると、必ずしもそれだけにとどまらない節がみられる。
 すなわち出発が家督をついだ直後、酒井奥之助、吉之丞、松平舎人らは、忠発を廃して酒井家の分家で徳川家の旗本となっていた酒井忠明を藩主に立てようと画策し、この画策は露見して忠明は支藩松山藩に預けられて幽閉されるという事件が起こっている。
 これは単純に前藩主と重臣層が、蜜月のような気の合った藩政を布いていて、ために新藩主への家督委譲を遅らせたという事情とは別に、新藩主忠発に対する重臣層の悪感情が存在したことを証明しているように思われる。
 この事件の裏には、隠居した忠器の内諾があったとも言われるが、ともあれここから新藩主と重臣層との深刻な抗争がはじまり、幕末期の思想的対立もからんで、以後二十五年にわたる藩内の確執が続くのである。
 この新藩主と重臣層の対立が先なのか、あるいは時代の変化がもたらした思想的な対立が先でこの確執が生まれたのか、そのあたりは不明なものがあるが、その後時代が移るに従って、この藩内抗争は、次第に思想的な対立の様相をはっきり打ち出してくる。
 両敬家、松平舎人ら改革派と呼ばれる重臣層の周囲には、照井長柄、広瀬厳雄など、鈴木重胤に国学を学んだ勤皇思想の人びと、また赤沢隼之助、服部毅之肋ら勝海舟塾で蘭学を学んだ開明的な考えの人びとなどが集まった。
 ほかに江戸定府の用人上野直記、江戸留守苦役大山庄太夫、また身分は低いながら池田駒城、深瀬清三郎などは、いずれもひろく天下の情勢に通じ、海外に対しても眼を開いていた人びとだった。
 一方新藩主告発の周囲にも側近勢力が育ち、次第に両敬家など旧重臣層を圧倒する力をたくわえて行くが、たとえば元治元年に江戸留守居添役、翌年本役に任ぜられた菅実秀に代表されるように、藩学である徂徠学の素養が身についた人物はいても、その中にいわゆる新知識を身につけ、新しい時代を見通している人間は欠けていたようである。
 大ざっぱに言えば国学、蘭学派と、旧来の儒学派の対立ともいうべきものがあり、文久初期にはこの対立は公武合体派と佐幕派という形の、藩内政治勢力の主導権争いに発展するのである。
 改革派は藩主廃立を二度画策し、二度失敗した。すると次には告発の世子忠恕に望みを託し、忠発の隠退、忠恕の家督、酒井大膳の後見という段どりて、藩政改革を実現しようとした。
 しかし彼らが望みを託した世子忠恕は、安政五年二十歳で急死した。その死因について奇怪な流言があったことからも、藩内抗争の激しさがうかがわれる。改革派は、忠恕の死によって大きな打撃をうけたが、次の継嗣問題で、今度は忠発がのぞんだ三男の繁之丞に対抗し、忠発の弟忠寛を継嗣に望む。
 この争いは、繁之丞が幼年だったために、幕府が改革派の推した忠寛を継嗣として認めたので、改革派の勝利となった。藩玉恵発との執拗な抗争が、はじめて実を結んだのである。
 しかしこの間に、改革派の領袖である大山庄太夫、上野直記はいずれも国元に呼びもどされて在所勝手を命ぜられ、また酒井奥之肋は家老職を解かれ、松平舎人は中老職から支城亀ケ崎城代に左遷された。中老酒井吉之丞はその前に辞職し、翌年には隠居して右京を名乗り、弟玄蕃に家督を譲っていた。
 藩主忠発を中心にする主流派の勢力が強まるとともに、嘉永七年隠居忠器を病気で失った改革派は、次第に追いつめられて行ったのである。そして万延元年には酒井奥之助か上書して藩政を批判したことを咎められ、隠居逼塞の処分を受けた。またその処分について諌言書を提出した酒井右京(吉之丞)も逼塞を命ぜられた。
 同じ年松平舎人は蝦夷地警備総奉行として北辺に派遣され、右京の養子玄蕃も副奉行として同じ任地に飛ばされたので、改革派の重臣たちは、ここにまったく藩政から遠ざけられた形となったのである。
 藩生忠発にしてみれば、この万延元年の両敬家処分は、長年の懸案を解決した感じがしたかも知れない。両敬家と松平舎人は、はじめは家督相続を邪魔し、藩士になると今度は別に藩主を立てて自分を廃そうとした連中である。しかし隠居忠器がいる間は、少しずつ彼らの勢力を押さえるだけで、正面から処分することも出来なかったが、ここに至って、漸く彼らの勢力を藩政から一掃し得たのである。
 忠発は、この両敬家処分を行なった翌年、隠居して家督を忠寛に譲った。
 忠寛は両敬家ら改革派が推した世子だが、すでに藩内の要職は、忠発が養った主流派が占めている。改革派が復帰する余地はない、と読んだかのような処置であった。
 だが改革派はその忠寛に望みをかけていた。そして 時勢は公武合体派に有利に勤いていた。改革派が藩政への復帰、念願の藩政改革を夢みたとしても無理はないし、また事実十二代藩士となった忠寛は「人品骨柄あっばれ英雄の気質を備えたり」と記録されているような人物だった。藩政が忠寛の主導のもとに展開すれば、改革派の接近と相まって、その後の荘内藩の進路はどう変ったかわからない。少なくとも、この後に来るような、一方的に佐幕派の姿勢を固守する事態は免れたのではないかという推測が成り立つようだ。
 だが改革派にとって、運命はあくまで悲劇的に出来ていた。
 文久二年という年は、全国に麻疹が流行した年である。江戸の将軍家茂と夫人和宮もこれに罹ったほどだが、その年の九月、改革派が最後の望みをかけた藩生忠寛が、麻疹にかかって急死したのである。二十四歳という若さだった。そのあとは、さきに隠居出発が後嗣に推したわずか十歳の繁之丞忠篤が継いだ。
 荘内藩が、佐幕派の色彩を強めるのは、この後からである。
 翌文久三年四月、荘内藩は、清河八郎が残した新徴組百六十九名を幕府から委任され、組頭松平権十郎が、物頭二名と各組下を率いて出府し、新徴組御用掛を拝領した。松平は間もなく中老にすすんたが、このとき二十三歳だった。次いでその年の暮には江戸市中警備を命ぜられ、国元からは藩士の嫡子、次、三男、徒およそ二百数十名がぞくぞくと出府した。
 翌元治元年、禁門の変が起こると、荘内藩は幕府の命を受けて長州藩邸を接収した。次いで八月に第一次長州征伐が下命されると、荘内藩は征討軍の先鋒を命ぜられ、国元からさらに家中、郷夫を江戸にのぼらせ、汽船で兵器弾薬を輸送した。だがその直後荘内藩は従軍を免ぜられて、江戸府中の取締りを命ぜられている。水戸方面に天狗党の挙兵蠢動があって、幕府は征長軍が進発したあとの後方の守備を心配したのである。
 荘内藩では、出府していた兵力を三手にわけ、昼夜江戸市中を巡回警衛して治安維持につとめた。警備隊の行動はきわめて規律正しく、また取締りにあたっては身分の高下を問わず、真の暴行者のみをびしびし処分して、依恬ひいきがなかったので、江戸市民には人気があった。「江戸の団十郎、荘内の権十郎」と、統率者の松平権十郎をたたえ、白面の青年中老松平権十郎は錦絵になったという。
 民衆の観察ほど鋭いものはない。
 この時期、荘内藩はもはや抜きさしならない佐幕派の立場へ急速に傾いて行ったのだが、江戸市民は、市中警備の荘内藩兵の姿から、恐らくは落ち目の徳川に力強い味方がついたことを敏感に嗅ぎつけていたのである。
 江戸市中警備の下命に対して、藩内には一度は幕命返上の動きがあったといわれる。藩主がまだ幼年だからという理由だったが、協議した重臣たちの胸には、引きうければ佐幕派の立場を決定することになる不安が去来したかも知れない。時勢はまだ流動的で、みずがらを佐幕派として固定してしまうことは危険なことであった。
 このとき、中老の松平権十郎を励まして、幕府受諾を主張したのは、菅実秀だった。菅は、荘内藩が最初の市中警備を受諾した文久三年には郡奉行の地位にいたが、菅の人物才幹を買っていた側用人山口三郎兵衛の推挙によって、郡奉行のまま藩政に参画していた。
 藩政に参画出来るのは、家老の子孫か、番頭以上の家柄の者というのが慣例である。菅は百五十五で上士ではない。上士と下士は同席せずと言われた藩内の身分制度の中で、菅の藩政参与は異例のことだった。菅はこのとき佐幕に踏み切ることによって、藩論の統一をはかろうとしたとも言われる。佐幕か、非佐幕かの決定を迫られたとき、菅の儒数的教養が、徳川に対する「義」を進んだとも言える。
 菅はこのあと江戸留守居添役から、留守居役、慶応元年には藩主忠篤の側用人と累進し、中老松平権十郎、老公忠発の側用人山口三郎兵衛と組んで、幕末期荘内藩を勤かす中心人物となるのである。江戸市中警備を命ぜられて、松平権十郎とともに出府した文久三年、菅は三十四歳。
 若いコンビだった。
 ともあれ、これで海内の改革派はまったく動きを封じられ、荘内藩は幕府と運命をともにする方向をたどる。それは徳川に対する藩祖以来の義を貫くことではあったが、政治的には広い視野を欠き、また藩主忠器と、家老酒井奥之助、松平甚三郎らが藩政を動かしていた天保期に、降って湧いた国替え命令に対して一藩をあげて抵抗したような主体的な姿勢をも失う結果となった。
 このような藩内情勢の中で、改革派は、元治元年末老中稲葉正邦に対して、藩政改革についての陳情書を提出するという最後の抵抗を試みる。だが結果的には この陳情が、改革派の命取りとなる。慶応二年十月に至って、改革派はぞくぞくと逮捕された。
 この年長州征伐にともなう物の値トりは全国的に経済的な混乱を引き起こし、荘内顛でも城ドに農民が蝟集して、年貢免除を嘆願するという騒ぎがあった。その背後に改革派の煽動があるとされたが、これは逮捕の口実に過ぎない。藩首脳部は、長州再往が幕府の敗退に終り、将軍家茂が大坂で病死したという、前年に引き続く幕府衰退の情勢に焦慮していた。そこから藩内の分裂動揺を恐れて、改革派の処分に踏み切ったことは自明である。
 改革派の領袖のうち酒井奥之肋と上野直記は前年に病死していたが、他は根こそぎ逮捕監禁された。大山庄太夫は自宅監禁中に自殺、松平舎人は取調べ中に自刃、勝塾の秀才赤沢隼之肋は取調べに対して、一歩もひかず論争を展開したが、悲憤のあまり絶食して牢内に窮死した。翌年九月十一日酒井右京(吉之丞)の切腹以下改革派に対する大断罪が下った。酒井右京は切腹を命ぜられて安国寺に入ると、自分でくわしく調べておいた切腹の古式にのっとって、従容と腹を切った。
 丁卯(ていぼう)の大獄と呼ばれ、その後長くタブーとされたことの大断罪によって、荘内藩の公武合体派は潰滅し、あとは急坂をころげるごとく幕府と運命をともにする道を歩むのである。
 慶応四年二月十八日、関西から菅実秀が荘内藩江戸屋敷に帰着したとき、鳥羽伏見の戦いに敗れて東帰した徳川慶喜は、すでに上野寛永寺の大慈院に謹慎し、荘内藩は明後日には藩邸をひきはらって国元に引き揚げるという情勢になっていた。
 そのとき菅は、家老の松平権十郎と郡代和田助弥にむかって次のように言った。
 荘内藩の取るべき道は三つある。藩士が将車慶喜の謝罪状を持ち、東征大総督の宮を東海道に迎えて、慶喜謹慎の実状をのべ、徳川家の存続を願うのは、志にも義にもかなう上策である。第二に、譜代藩として徳川家と存亡をともにすることは、武門の習いとして義でないとは言えない。譜代各藩、旗本に呼びかけて先頭に立ち、箱根の険によって敵をしめつけるなら、十にひとつの勝算はある。中策というべきだろう。「しかしいま江戸をひきあげ、荘内に帰るとなると、  庄内を怨んでいる薩長は必ず征討軍を差しかけてくる
だろう。こうなると北に退いて天下の兵を引きうける形になり、万にひとつの勝ちもない。下策である」しかし、と菅はさらに言った。藩論が帰国と決定した以上、もはやこれを変えるべきでない。しりぞいて守るにしかず。ただし以後事の成敗から一切心を断ち、荘内一円を焦土にし、城を枕に倒れる覚悟を決めるべきだ。
 菅のこの言葉は、彼の儒数的見識を示すものだった。
 菅はつねに儒数的倫理にてらして、藩の進退を決定しようとする。そこにいさぎよさもあり、同時に姿勢の固さもあったかも知れない。薩長の怨みというのは、長州藩邸の接収と、薩摩藩邸の焼打ちを指す。薩摩浪士の挑発に堪えかねた幕府は、前年暮の十二月二十五日、薩摩藩邸の攻撃を下命したが、このときもっとも強く攻撃を主張したのは荘内藩であった。
 慶応四年二月二十日、荘内藩主酒井忠篤は、前後に殺手隊、火器隊の精鋭をしたがえて、江戸を去った。そして帰国するとただちに本間光美の献金によって、エドワード・スネルから大量の西洋銃を購入し、短時日の間に兵制を洋式に編成替えしてしまった。
 この臨戦態勢をととのえ終ると、征討軍が来るのを、じっと待ちうけたのである。
 やがて奥羽列藩同盟が結ばれ、荘内藩もこの戦線に参加するが、荘内藩兵の主戦場は、秋田になった。六月、奥州白河口の同盟軍の救援にむかった松平甚三郎の一番大隊、酒井吉之示の三番大隊は、新庄藩の寝返りと秋田藩、薩長土肥の侵攻を闘くと、直ちに出羽街道を北に引き返し、新庄城を抜き、秋田頷に入った。
 秋田藩は、荘内を討つ名分が明確でないとして、奥羽鎮撫軍にたびたび討伐の大義名分の明示をもとめたが、あいまいなままに督促がきびしいため、止むなく出勤してきたのであった。
 荘内軍は、この秋田兵を主力にする奥羽鎮撫軍と戦闘をまじえながら、次第に秋田領深く侵入して行った。全将兵四千五百六十名のうち、農民兵一千六百四十名、商人兵五百七十名が含まれていたが、蓑を首て銃を待ったこの農商兵は、「荘内男子はノー、ワランケ着ったトーテモョ、いもやぼた餅、ひと囓んじりダー」と唱いながら進撃し、なかなか強かったという。ワランケとはフランケ(毛織の軍服)のもじりで、蓑だからワランケと言ったのである。いもは言うまでもなく薩摩兵、ぼたもちはお荻にひっかけて長州兵を指したものだ。
 九月十四日、新庄領から入った一番大隊、二番大隊は秋田久保田城の南東八里の刈和野まで進出し、また海岸ぞいに進撃した三番大隊、四番大隊は久保田城の南五里の道川まで進んでいたが、そこで「米沢藩すでに降る。仙台藩また降らんとす」という報告を入手した。荘内軍は、全将兵を返した。藩内はカラになっている。しりぞいて藩境を固め、降雪を待つにしかずと決定したのである。荘内領は一方を海、三方を険峻な山で囲まれていて、冬期の白雪は容易に敵を寄せつけない。天下の兵を引きうけても、なお守り通せると判断したのであった。
 このことは、鎮撫軍参謀大山格之助も知っていて、降雪の前に荘内藩を降服させるために、酒田港に敵前上陸させるべきだと西郷に進言したという。しかし荘内藩は九月十六日降服謝罪を決定した。菅実秀は最後まで抗戦を主張したが、老公忠発が裁決をくだした。改革派には毛嫌いされた忠発だが、荘内を焦土とすることから救ったという意味では名君いうべきかも知れない。(本文のまま)

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