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2010年3月14日 (日曜日)

江戸の大火がジョージを作った

 40年も前、中央線の吉祥寺駅付近で、短期間だったが仕事をしていた。
 当時一番高いビルが、コスモビルだった頃だ。
 間もなく、文京区内に転勤し、本駒込3丁目の曹洞宗吉祥寺近くに住むことになったKichijoji。この両吉祥寺が深い縁があるとは、当時は知らなかった。
 若者は、中央線の吉祥寺を親しみを込めて「ジョージ」と呼ぶ。
 
 まず駒込・吉祥寺のことだが、
  この吉祥寺は駒沢大学の前身といわれ、お寺には駒沢大学に通う学生20人前後が修行を兼ねて住み込んでいた。駒沢大学の仏教学部の学生が主で、地方の曹洞宗関連のお寺の子弟、つまりお坊さんの卵が多かったように記憶している。
 歳も近かったこともあり何人かとは親しくなり、飲食を共にしたことがある。

 境内には、お七・吉三の比翼塚もあった。
 比翼塚は、この寺に本郷の八百屋・お七も00025_2一時避難先として住んでいた縁から建てたと聞いた。
 この碑を眺めては、「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」などと白居易の詩を諳んじたものだ。
 当時、比翼の鳥、連理の枝となる片方は現れていなかった。

 この吉祥寺は、中央線・吉祥寺駅付近の地名、武蔵野市吉祥寺と関係が深い。
 JR中央線・吉祥寺界隈の地割りをみると、中央線が東西に一直線なだけに、土地が全て斜めに区割りしてあり、不自然に感じる。
 しかし、江戸初期からあった五日市街道や井の頭通りからみれば、道路に面して細長く、均等に短冊状に接していることがわかる。これを均田主義あるいは均分主義と呼ばれた。
 Photo
駒込吉祥寺と中央線・吉祥寺駅との関係
  吉祥寺駅付近は、かつて吉祥寺村と呼ばれていた。
 吉祥寺という寺はないのに、何故こんな名前がついたのか。

  その背景には、江戸の食糧難に伴う新田開発の歴史がある。
 死者約10万7千人、江戸城本丸、二の丸をはじめ江戸市中の大半を焼き払った明暦3年(1657)の大火(俗称・振袖火事)の頃、江戸の人口はパンク寸前だった。当然、野菜等の食料も不足してくる。

 幕府は防火対策として市街の改造に踏み切り、大寺院や武家屋敷を移転させる一方で、人口問題と食料難を一挙に解決すべく、万治2年(1659)、江戸市民の郊外地への入植政策に着手した。
 代替地とともに向こう5年間は扶持米を与え、造宅費用も貸し付けるから、希望者は申し出よと、おふれをだしたところ、大火で本郷元町から、駒込に移転していた吉祥寺門前の浪人たちが中心となって新田開発の名乗りを上げた。
 こうして、五日市街道沿いに短冊型の整然とした地割で土地をもらい、これが吉祥寺村の起こりといわれる。
 しかし、新田開発といえば聞こえはいいが、そもそも正保元年(1644)の調査によれば、現在の武蔵野市周辺には一軒の家もなかった。五日市街道は通じてはいたが、樹木も生えない見渡す限りの原野であったという。玉川上水は、承応2年(1653年)11月に完成し、翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始されたとあるので、命の綱の水は確保されていたのだろう。

 つまり、江戸の大火がきっかけで吉祥寺はつくられたともいえる。
 最近では若者に「ジョージ」と呼ばれる、若者に人気のお洒落に町に変身した。
 隣接する、西窪新田、宮前新田、連雀新田なども、似たような形で村々が形成されたが、範にしたのは吉祥寺新田だったという。

本間信治著「江戸東京、残したい地名」から
 ここに本間信治著「江戸東京、残したい地名」がある。地名研究の名著、待望の復刊だ。折を見て、この本から引用し、東京各地の「おもしろ地名」を知らせたい。

本間信治著「江戸東京、残したい地名」から
【吉祥寺は駒沢大学の前身】
 文京区の北部に昭和41年まで駒込吉祥寺町とよばれる地域があった。いまの本駒込一丁目から六丁目までのあいだで、かつては駒込村の農村地帯であったが、江戸時代初期には越後村上藩主・堀丹後守の下屋敷となった。
 曹洞宗吉祥寺の敷地になったのは明暦の大火のあとで、同寺が神田台から移ってきてから門前に町家がひらかれ、延享二年(1745)から明治2年まで、吉祥寺門前の名でよばれた。
 諏前山吉祥寺の歴史は古く、長禄元年、太田道混が江戸域をきずいたとき、地中から吉祥増上〃ときざまれた銅印がでてきたので、これを吉瑞とし、城内に吉祥庵を建立したのが、その起こりのようだ。それがのちに駿河台に移され、さらに駒込へ移った。
 当時は27の学寮がもうけられ、曹洞宗江戸四カ寺のひつとして権威があり、同宗の有名な学僧・禅匠はみなこの檀林に学んだとつたえられる。これが現在の駒沢大学の前身である。
 境内には二宮尊徳、鳥居耀蔵、板倉勝清、榎本武揚、川上眉山など著名人の墓が多い。このほか、江戸時代に吉祥寺門前といわれたところが江東区木場五丁目付近にあり、吉祥院門前とよばれた町が、台東区浅草三丁目と元浅草二丁目にもあった。
 一方、武蔵野市の吉祥寺は、江戸時代初期には五日市街道ぞいの幕府直轄の茅刈り場で、村民の自由にならない林野であったが、万治二年、明暦の大火で焼けだされた駒込吉祥寺門前の人たちが移住してきて、農地を短冊型に開墾し、旧址の名称をとって吉祥寺新田としたのが、その起こりである。
 したがって、ここには吉祥寺という寺はない。甲武鉄道(中央線の前身)の吉祥寺駅が開設されたのは明治32年。戦後、この地域の発展はいちじるしく、都内をしのぐ活況を呈している。吉祥寺の本尊、吉祥天女は別名を功徳天といい、本来婆羅門教の女神で、母は鬼子母神、父は徳叉迦といわれ、のちに仏教にとり入れられ、功徳成就して大功徳を衆生にあたえる天女として尊崇された。わが国では奈良朝の終わりごろから、この女神信仰がみられる。


文京区本駒込の吉祥寺付近地図


武蔵野市吉祥寺付近の地図

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