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2010年3月29日 (月曜日)

庄内藩預かり「新徴組」屯所

 Photo

 京都守護職に就いた会津藩の元で活躍したのが「新撰組」。
 江戸市中取締りに就いた庄内藩の元で活躍したのが「新徴組」(総勢約169名)だ。
 新徴組も新選組も、庄内町(旧立川町)出身の清河八郎が結成した「浪士組」が母体だ。つまり兄弟組織なのだ。

 JR飯田橋駅から徒歩数分、千代田区飯田橋1-9-7先、目白通りの歩道上に、「新徴組屯所跡」の碑がある。かつて、徳川四天王・庄内藩、酒井左衛門尉忠発(ただあき)17万石の江戸屋敷があった近くだ。この当時は外堀に「飯田橋」は無かった。
 印の御用屋敷が屯所があった場所。
 
  幕末、江戸の治安が悪化すると、庄内藩は江戸市中警護の主力として「新徴組」を当てた。「新徴組」は関東近辺で募集した「浪士組」Photoが前身で江戸の地理や事情に詳しく、その任に向いていた。                                                    庄内藩預かり「新徴組(しんちょうぐみ)」の活躍を江戸の人々は、
「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」、「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」、「カタバミはウワバミより怖い」(カタバミは酒井家の家紋) などとうたわれた。会津藩預かり「新選組」が京で活躍している頃、  庄内藩預かりの「新徴組」もまた江戸で活躍していたのだ。

 しかし歴史は大きく動いた。
 幕府と薩長との対立が激化した慶応3(1867)年12月25日、庄内藩の「薩摩藩邸を焼き討ち」が引き金になり戊辰戦争が始まる。
 続いて起きる「鳥羽・伏見の戦い」では、幕府軍は薩長連合軍に惨敗し、将軍は恭順。幕府軍が敗北すると「新徴組」は庄内藩士と共に庄内へ帰国。
 庄内藩に編入された新徴組隊士は湯田川の旅館民家37軒に分宿、隼人旅館を本部として部隊を編成した。
 再編した新徴組は 慶応4年7月20日付で編成された庄内藩兵第四大隊に付属、秋田・矢島藩との戦い「椿台の戦い」等に従軍するなど、新政府軍相手に奮戦するも、最終的に庄内藩も降伏することになる。

  明治期に入り、庄内藩士約3,000人は松ケ丘の荒れ野開墾事業に着手、新徴組も参加するが、「新徴組」は関東周辺の出身者が多く、慣れない土地での開墾生活は苦痛を強いられ次々に庄内から脱走。明治14年7月当時、開墾事業に着手していた名簿には、元新徴組の隊士はわずか11名しか記載されていないという。(※このDscn3655項目は関係資料から引用)。

 「新選組」に比べ「新徴組」は知名度が低く、いずれ歴史から消え去る運命にあるのか。わずかに「新徴組屯所跡」の碑から往時を忍ぶが、事情を 知る方も関心を払う方もいないようだ。二合半坂と目白通りの間に新徴組の屯所跡があった場所だ。

 地図は、「新徴組屯所跡」の碑がある千代田区飯田橋1-9-7周辺です。

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