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2010年1月27日 (水曜日)

米沢のキリシタン殉教53名

 日本の現代では信教の自由が認められ、何教を信じようが罰されることはないが、江戸時代まではキリスト教信者は厳しく罰されていた。
 今も続く、多く人々がどこかの寺に人別を登録する檀家制度(寺請制度ともいう)は、かつてはキリスト教信者をあぶり出すための制度であった。
 江戸時代は、寺院が発行する寺請証文(檀家証明書、戸籍謄本に あたる)がなければ、就職も旅行もできなかったし、発行を拒否されると「帳外れ」と差別された。
 キリスト教信者は当然登録されない。

日本のキリシタンの「三大殉教」は、
■「京都の大殉教(元和キリシタン殉教)」(1619年)
  ~52人火あぶり
■「長崎の大殉教」(1622年)~55人火あぶり、
■「江戸の大殉教」(1623年)~50人火あぶり
と言われているが、Img_2008111600164
 山形県米沢においても、殉教者の人数では最大規模のキリスタンが処刑されている。
■「北山原(ほくさんぱら)殉教
  ~53人が処刑
 寛永5年12月18日(1629年1月12日)未明、甘粕家一門らの信者53人は、聖母像を先頭に粛々と処刑場へ向かい、祈りを捧げたのち幼い者から順に殉教した。甘粕右衛門(あまかすうえもん、洗礼名ルイス)は米沢藩の上級武士で信者の中心的存在だった。
 北山原殉教遺跡は、山形県米沢市金池6-3にある。

 「北山原殉教地」の十字架像の手前には、十字架が刻まれた自然石が置かれ、その土台に埋め込まれた銅版には、
「この十字碑は徳川幕府の切支丹禁令により寛永5年12月18日永遠の生命を求めてここで死刑に服したカトリック信者米沢藩士甘糟右エ門一族が無足町の自宅でひそかに信仰の対象としていたものである。

 それが無足町の立身不動尊内に遺してあったので米沢カトリック教会内の北山原会が彼の処刑後335年目の昭和39年12月18日この地に移したものである」とある。

※なぜ米沢で、これほど多くが殉教したかは、次のホームページで詳しい。

  山形新聞
「米沢藩のキリシタン53人「列福」へ
江戸時代初期に弾圧、殉教の甘糟一族など」
http://yamagata-np.jp/news/200811/16/kj_2008111600239.php

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