« 藤沢周平記念館まもなく開館 | トップページ | 希望という名のあなたをたずねて »

2010年1月10日 (日曜日)

作家・藤沢周平の闘病生活

 作家・藤沢周平の誕生には、本名・小菅留治自身の長期間の故郷をP_019_3離れた闘病生活があるという。それは、闘病生活中に、いろんな本を読みあさったこともあろうが、自身の厳しい身の上が作家としての土壌を豊かに育てたのだろう。
 まだ10冊程度しか読んでいないが、作品には人へのやさしさ思いやり、そして、帰るに帰れない望郷の念が溢れている。
 小菅留治は、山形師範学校を卒業し勇躍1949年湯田 川中学校に赴任したが、 2年目の1951年春の集団検診で肺結核と診断され休職を余儀なくされた。24歳、このときから長い長い闘病生活がはじまった。
 
  今日は、闘病生活を送った保生園(現・新山手病院)に出かけ、若き日の藤沢周平の生活ぶりを偲んできた。建物は鉄筋建てになったが、敷地や周辺環境はそれ程変化していないところだろう。

中目医院
 中目医院は今も鶴岡市末広町6−38に所在するが、ここに1951年半年間入院し、その後は自宅療養に入るが良くならなかった。ここで、東京都東村山市の篠田病院を紹介される。
篠田病院・林間荘
 「篠田病院・林間荘」は、東村山町(現東村山市)の西武新宿線久米川駅東側にあった。林間荘は結核療養所だが、同じ東村山にある結核専門病院「保生園」と契約していて、手術が必要な人は保生園で手術出来るようになっていた。1953年2月上京し同年6月保生園で手術、同年10月に篠田病院に戻っている。それから丸4年余闘病生活が続いた。
 林間荘は今なく、藤沢周平は、「それは西武新宿線久米川駅の東方で、伊豆殿堀(野火止用水)と斜めに交叉する道とで出来る大きな三角形の敷地で 」と紹介している。
 この場所は、現在は新青梅街道に面しており、「久米川ボウル」がある一角だが、当時を忍ぶことが出来るのは野火止用水くらいだ。
保生園(現・新山手病院)
 保生園は、東村山市諏訪町3丁目6−1にあったが、現在は「新山手病院」と形態が変わっている。1953年6月、ここで右肺上葉部と肋骨5本切除という大手術が行われた。
 「となりのトトロ」の「七国山病院」のモデルは保生園で、サツキとメイの母親が入院していた病院だ。
闘病後の再就職活動
 1957年1月「篠田病院林間荘」を退院する。長期の闘病生活後の30歳当時、一旦、故郷・鶴岡に帰り、再び教壇に立つことを模索したが、当時の結核患者には冷たい返事しかなかった。また、通常の仕事ですら労咳と揶揄され、故郷での就労の道は閉ざされた。そして、再び療養生活を送り慣れ親しんだ西武鉄道沿線に移り住み、業界紙の記者として就職をする道を選んだ。つまり、当時の生まれ故郷では、労咳やハンセン病(旧称:らい病)に対する差別意識は根強いものがあった。この忸怩(じくじ)たる思いが作品に、そして生き方にも貫かれている。
 故郷を去る時、きっと「このままでは終わらないぞ、今に見ていろ」と強く決意し、苦労の末、念願の作家になったが、故郷を恨むことはなかった。多くの作品の中に、故郷の山河が満ち溢れている。
保谷厚生年金病院
 1996年3月肺炎のため、保谷厚生年金病院(西東京市栄町1-17-18)に入院するも、同月国立国際医療センター に転院した。
24歳頃、肺結核の手術の際仕方なく使った輸血の後遺症で肝炎を患ったと言われる。
国立国際医療センター
  1996年3月国立国際医療センター(新宿区戸山1-21-1)に転院し、7月に一旦退院するも、同年9月再入院。そのまま快方に向かわず1997年1月26日死去した。

■藤沢周平が亡くなって1月26日で14年になる。
 現在、八王子市元八王子町の八王子霊園に小菅留治として、戒名は「藤澤院周徳留信居士」と号し、若くして死別した先妻や死産の子とともに眠っている。そして、没後もその人気は衰えず、文庫本の総発行数は2300万部を超える。 

地図は東村山市の保生園(現在、新山手病院)付近

篠田病院林間荘があった付近(現在の久米川ボウル付近)

|

« 藤沢周平記念館まもなく開館 | トップページ | 希望という名のあなたをたずねて »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 作家・藤沢周平の闘病生活:

« 藤沢周平記念館まもなく開館 | トップページ | 希望という名のあなたをたずねて »