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2009年11月25日 (水曜日)

木賃宿のはじまり

 木賃宿(きちんやど)は、中世から江戸時代にかけて発展し戦後まであった日本の庶民的宿泊施設で、客は相部屋で食料は持ち込み、煮炊き用のマキ代を支払うことから木賃Y1宿と呼ばれた。
 現在では、単に粗末な宿や安宿を意味する言葉となっている。また、木賃の「」とは自炊のための「」のことで、薪代金の宿と言うことから木賃宿と 呼ばれるようになった。食材も大抵の場合、木賃宿かその近所で売っていたが、庶民の旅が盛んになるにしたがい、食事を出す「旅籠屋」が増え、宿代は木賃宿の5倍以上もすることから、木賃宿は安宿の代名詞となった。という。

 「幸徳秋水 1871.9.22-1911.1.24」の「木賃宿ルポルタージュ」の記録がある。
掲載作は明治三十七年(1904)一月、はや百年前に書かれていた異色の「東京」スケッチであり、ルポルタージュの嚆矢(こうし)とも目される。
東京にては木賃宿をば、一般に安宿(やすやど)或は安泊(あんぱく)と呼び做(な)せど、其客となる人々の社会にては、ヤキ又はドヤとも呼び、又アンパクボクチンなど云ふ言葉もあり。
ヤキとは宿屋のヤの字と木賃のキの字を続けしにて、ドヤとは宿を倒(さか)しまに読める也。アンパクは安泊、ボクチンは木賃を音読せるは云ふまでもなし。労働に忙しき人々は其言葉も簡単にて響き強く聞ゆるを便とすれば斯る符牒を用ゆるが多し。
斯る怪しき符牒もて呼ばるる宿屋、昔は市内各所に散在せしが、去る明治二十二年(1889)の末、時の警視総監三島通庸は、市街の体面を保つが為めにと、そが営業の区域を限りて一定の場所に移らしめぬ。現在管業の場所と数とは、
浅草区浅草町…………………二十余戸
本所区花町、業平町…………七十余戸
深川区富川町…………………六十三戸
四谷区永住町……………………十八戸
芝区白金猿町(俗にエテ町)………七戸
麻布区広尾町(俗に古川端)……十一戸
本郷区駒込…………………………二戸
にて、其(その)お客様をいへば歯代借の車夫、土方人足、植木人夫、其外種々の工夫人夫、荷車挽、縁日商人、立ン坊、下駄の歯入、雪駄(せつた)直し、見世物師、料理屋の下流しなど、何(いづ)れも其日稼ぎの貧民ならぬはなし。昨年末の調べにては是等の客人九千七百四十六人に及べりとぞ。扨(さて)も夥しき数なるかな


 ※今も使われている隠語は、「ドヤとは宿を倒(さか)しまに読める也」とあるが、ドヤくらいと思うが。

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