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2009年10月20日 (火曜日)

南洲神社は酒田にもある

 山形県、庄内・酒田市に西郷隆盛を奉った「南洲神社」が、何故あるのかは余り知られていStory02_ph06_2 ない。今回は、なぜ酒田に「南洲神社」があるかと、「西郷南洲遺訓集」についてご紹介したい。

 庄内藩の始まりは、徳川家康の側近「徳川四天王」の一人・ 酒井忠次だ。鶴ヶ岡城には、第3代藩主・酒井忠勝の時に入り、以後、明治にいたるまで酒井家が庄内を治めた。幕末、庄内藩は、会津藩と並ぶ佐幕派の双壁といわれ、混乱が続く国内の治安維持のため、会津藩は京都守護職、庄内藩は「江戸市中取締り役」を勤めた。

 鳥羽伏見の戦いの切っ掛けになった「江戸三田の薩摩藩邸焼き討ち」を行い。戊辰戦争が始まってからは、江戸城無血開城、会津落城後も秋田方面や新庄方面で、果敢に新政府軍と戦い続け、藩内に一兵も入れない程、百戦百勝の強さだった。しかし、いかに庄内藩が孤軍奮闘しようと奥羽諸藩は次々と降伏し、時の勝勢は明らかだった。

 庄内藩は、新政府軍から藩主・酒井忠篤(ただずみ)の切腹を含めた、過酷な条件が提示されることを覚悟しながらも降伏を決定した。庄内藩の降伏を受けたのは、庄内方面司令官の薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)だ。西郷から指示されていた黒田は、実に寛大な降伏措置を取った。会津の23万石から3万石削減に対し、庄内藩は17万石から12万石に減じただけだった。この寛大な処置に感激した藩主や藩士らは、生涯西郷を慕うこととなり、藩主自ら鹿児島の西郷の元へ教えを請いに出向くなど、庄内藩士と西郷の交流は長く続くことになった。

 明治3年には、旧庄内藩から選抜隊70余名を鹿児島へ派遣し3ヵ月間留学させた。明治10年の「西南の役」では、西郷とともに戦った庄内藩士からも戦死者を出したほどだ。以後、賊軍の将となった西郷隆盛は官位を剥奪されたが、明治22年2月、明治天皇の大日本憲法発布記念の恩赦により、正三位として名誉回復を果たした。

 その恩赦運動の中心は庄内藩の人々だったと言われる。西郷隆盛の語録をまとめた「西郷南洲遺訓集」(岩波文庫)は、西郷の著作ではなく、明治3年、庄内藩主、酒井忠篤らが鹿児島を訪ね、寝食を共にして直接教えを乞いたときの、西郷の言行をまとめたものだ。この遺訓集は、私がかつて「南洲神社」を訪問した際は無料で頂くことができたが、最近のことは知らない。

 社殿は、昭和51年6月に竣工しているが、用材は安岡正篤(やすおかまさひろ)の取計らいで、伊勢の皇大神宮から、御古材の払い下げを賜ったという。

荘内南洲会http://www1.ocn.ne.jp/~x48ue66i/data/frame.htm
山形県酒田市飯森山2丁目304-10 Tel(0234)31-2364

 

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