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2009年10月21日 (水曜日)

庄内→長岡→川越→庄内の関係

 庄内藩を含む「三方国替え」のことは、藤沢周平原作の「義民が駆ける」で世間に広く知られるようになっ。この本には、遊佐、酒田界隈の村々の地名がSakai そのまま出てくるので、この村はどこだったろうと記憶を辿ったり調べながら読んでしまう内容だ。

 概略は、天保11年(1840)11月、8代・忠器(ただかた)の時に庄内藩に危機が訪れる。それは、庄内、川越、長岡の三藩の藩主に対して、水野忠邦を筆頭とする「三方国替え」を進める幕命が下りたことに始まる。内容は、荘内藩14万8千石の酒井忠器(ただかた)を長岡へ、川越藩15万石の松平斉典(なりのり)を庄内へ、長岡藩6万8千石の牧野忠雅を川越へ移封するということだ。「三方国替え」のきっかけは庄内藩江戸屋敷は、外堀に架かる神田橋近くにあり、その財政の豊かさから「神田大黒」と呼ばれ、他の大名らに妬まれていたからという。つまり言いがかりだ。

 国替を命じられた庄内藩は、藩主酒井忠器、藩首脳、酒田の本間光暉、遊佐郷升川村の佐藤藤佐(とうすけ)らが善後策を練る中、遊佐荘「玉龍寺」住職、文隣和尚をはじめ庄内藩農民たちは、「百姓と雖も二君に仕えず」と打ち首獄門を覚悟の上で、筵旗を掲げて江戸に上り、諸大名や幕府役人に直訴を試みた。

 当時の江戸町奉行は矢部駿河守だった。佐藤藤佐翁は取り調べで、三方国替えの間違い訥々と説明した。矢部駿河守はその訴えの誠実さに感激し、その口述書をとり閣議の席で朗読し、藤佐(とうすけ)翁の取調を停止し、農民等に有利な裁決を下した。
 当然、幕府の意向に従わなかったとして、天保13年矢部駿河守は、伊勢桑名藩松平家に幽閉され、幽閉中、断食で抗議しつつ55歳で逝去した。庄内藩は危機を脱し、その24年後の元治元年(1864年)には、江戸市中警護の功により2万7千石を加増され、石高は16万7千石に達したが、その財政の豊かさは20万石以上といわれた。これは庄内平野の恵みからだ。

 遊佐町江地の「玉龍寺」には其の碑があり、農民や矢部らの正義を貫いた行為に感謝し、その勇気を讃えた「戴邦碑祭(たいほうひさい)」が毎年行われ、この幕府をも動かした庄内農民の熱き血汐は、今に受け継がれている。

ウィキペディアから 「三方領知替え」とは、江戸時代に徳川幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ。大名3家の領地(知行地)を互いに交換させることを言う。例えば、領地Aを持っている大名家Aを領地Bへ、領地Bを持っている大名家Bを領地Cへ、領地Cを持っている大名家Cを領地Aへ同時に転封すること。「三方領地替え」「三方所替え」「三方国替え」とも書く。江戸時代を通じて何回か行われている。4家が関係した「四方領知替え」の例もある。

遊佐町江地の玉龍寺付近

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