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2009年10月29日 (木曜日)

長さ日本一の庄内砂丘

 日本一長い、「庄内砂丘」のことを自慢しておきたい。この砂丘が、どのように形成されたのかは、高校当時の恩師・土岐田正勝 著「最上川河口史」からそのまま抜粋することとする。

庄内平野は内湾状態
 庄内平野は、かつて海の底であったことが最近の地質学分野の研究から明らかMap_021になってきた。それでは庄内平野はいつごろ、どのようにして海底から陸地へと変わってきたのであろうか。そもそも、わたくしたちが生活しているこの地球は、今からおよそ四十五億年前に誕生したといわれている。
 その後地球は、地質学上の壮絶なドラマを展開してきた。今から五億年前ころにも地殻の大変動があり、火山活動が活発であった。そのころ庄内地方も三回の沈降と隆起による地殻変動があり、大陸→ 大海→ 大陸→ 大海をくり返していたらしい。      ・・・中略・・・・
  日本海の海岸線に沿って発達している庄内砂丘は、南北の構造線上にある。また、砂丘南端の加茂地塊から、漸次高度を減じていく地累状の第三紀層山地がある。この地層と、庄内平野北端から南へ発達している第三紀層地累を基盤とする砂州によって囲まれた時代は、外海から遮除された潟湖(海の一 部が砂州や沿岸州などのたPhoto_5めに外海と分離してできた浅い沼や湖)の形を示していた。
 すなわち庄内平野は、内湾のような状態であったといってよい。このような内湾、あるいは潟湖(せきこ)の時代に、ここへ注いだ諸河川が三角州を形成していった。その後、地殻変動によって土地が隆起したり、海流の変化や季節風によって砂州を形成して、湾口をせばめることもあった。
 洪水による氾濫によって土砂が堆積し、入江はやがて狭くなり、ついには平野に変貌して、今日の庄内平野ができたものといわれている。近くでは新潟県の新潟や、秋田県の象潟(きさかた)や八郎潟、青森県の十三潟(じゅうさんかた)などに、その例を見ることができる。

 庄内砂丘には、延々と黒松の防砂林が植林され、厳冬期はシベリアおろしの強い季節風から、庄内平野の集落と田畑を護っている。この砂防林の本格的植林が始まったのは、江Mogamigawa_1戸時代中期以降だという。この植林に携わった先人は、佐藤藤左衛門・藤蔵父子、本間四郎三郎(本間光丘)、佐藤太郎右衛門、曽根原一族、来生一族、近代では鶴岡市宝町出身の富樫兼治郎らの活躍がある。

 近年の課題として、庄内砂丘地の黒松を犠牲にした道路伸延、空港開発、工業団地などの建設から、砂防林の危機が叫ばれている。砂防林の育成は長い年月を必要とするが、破壊は一瞬である。人間の業を見る思いだ。この地に住む人々の器量が問われている。

http://www.youtube.com/watch?v=fZAU648pI14

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