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2009年10月に作成された記事

2009年10月31日 (土曜日)

庄内地方の義経伝説

 期待されながも夭折した人物を応援したい心情からか、日本人は義経のような人物に強く惹かれるところがある。平泉に落ち延びる経路であった庄内地方には、至る所に義経伝説が残り、語り継がれている。

伝説第一話
 「念珠関(ねずがせき)」では、義経一行は羽黒山の山伏姿になり、弁慶は義経には二つの笈を負わせて、後ろから「歩けや法師」と杖で打ちすえて、関所を通ることができたと言われる。昭和40年頃、ドラマ「源義経」の放映を記念し、原作者村上元三の筆による「源義経ゆかりの浜」という碑を「鼠ヶ関」に建立している。(史実と思う
伝説第二話
源義経一行が庄内町清川に立ち寄り、御諸皇子神社(ごしょのうじじんじゃ) で一夜を明かした。その時、御諸皇子神社に奉納されたという義経の笛や弁慶の祈願文が今でも残されている。幕末に活躍した清川八郎の祖母は余目の宮曽根村・佐藤市郎左右衛門の出で、この家は義経四天王の一人佐藤継信の子孫だという。(史実と思う
伝説第三話
  酒田市本楯には「新田目城」(あらだめ)があるが、ここにも義経一行がPhoto立ち寄り、太刀一振りを献上したという伝説が残る。この太刀は今もあるが、それを証明する古文書は戦後まもなく失火で消失したという。義経の当時、「新田目城」 は東北では、多賀城と並ぶ規模の大きい城であり、義経一行が挨拶を兼ねて立ち寄ったことも想像は出来る。あるいは、新田目城側から挨拶に出向いたことも考えられる。
 ただ、先を急ぐ一行は清川辺りから最上川を舟で遡ったとの伝説の方が自然に思われる。(本楯の人は残念だろうが、疑問が残る
伝説第四話Mompe1
 遊佐町の月光川(がっこうがわ)に架かる、映画「おくりびと」が撮影された「朝日橋」から、約一キロ上流の右岸あたりに、「もんぺはげ」と呼ばれる崖が ある。この崖は、遠くから見ると「もんぺ」のような形で、崖の地肌が見えることから「モンペはげ」と呼んでいた。この崖は弁慶が滑り降りたときに出来たという伝説がある。(そう聞かされたが、作り話だろう
 この「モンペはげ」前の月光川の河原では、よく「芋煮会」をやったものだが、最近では、朝日橋の辺りが指定の場所のようだ。

庄内地方の義経伝説は、ほかには、
■田川の豪族・田川太郎の子供の病気をなおした。
■鶴岡の大梵寺に立ち寄った。
■北の方の産月間近なので羽黒山に弁慶を代参させた。
■清川八郎の生家・斎藤治兵衛の家に迎えて数日歓待した。
そして、文治三年(1187年)、義経一行は最上川を遡行して奥州平泉にたどり着いたという。

地図の中央付近が「モンペはげ」と呼ばれる付近

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庄内地方の富樫姓の方々

 先般、郷里に住む甥の結婚式に参列したが、お相手の方は富樫さんだった。

 庄内地方に「富樫姓」が比較的多いことは前項でも紹介したが、富樫姓は、「勧進帳」の関守・富樫左衛門秦家が有名だ。そして、その子・泰景が鶴岡市(旧・温海町)砂谷(イサゴダニ)に住み着き、出羽の富樫の祖となったといわれている。
 結婚式の席上では、新婦側の殆どの方々が「富樫姓」でもあり、つい私のうんちくを披露することになった。そこで私が驚いたことは、こちらの富樫さん方は、数代前まで砂谷(イサゴダニ)に住んでおられた方々で、「私どもがその本家筋にあたる。」と言われたことだ。そして、砂谷には、数年前に全て引っ越し、今は無人の状態だということを知った。

  逆に驚かれたことは、砂谷(イサゴダニ)という地名は、 地元でも知る人_fig001が少ないのに、東京から来た男の口から出たことだ。という。私からは、「皆さん方は、富樫左衛門秦家の子孫にきっと間違いないので、家系図などを出来るだけ記録しておいて下さい」とお願いしてきた。私とは、遠縁であるがいつか再会することもあろう。その節は、もっと深いお話を伺いたいものだ。

庄内地方で、名を残した「富樫姓」の方を何人か紹介すると。
■第47代横綱柏戸は「富樫剛」鶴岡市(旧櫛引町)生まれ
■庄内砂丘の黒松の植林から砂防の人と呼ばれる「富樫兼次郎
■庄内砂丘イチゴの生みの親、十里塚の「富樫進
■日本海近海沿岸の養殖漁業の立て役者「富樫誠」 
現役でご活躍の方々では
■富樫ろうそくの伝統工芸継承者「富樫雄治
■彫刻家・成安造形大学名誉教授「富樫実」(旧櫛引町生まれ)
■鶴岡・市左衛門白山だだちゃ豆の「富樫護
■鶴岡ロータリークラブ会長「富樫松夫http://www.tsuruokarc.org/president.htm
■漫画家『幽☆遊☆白書』の作者「冨樫義博」(新庄出身)

義理人情にあつい富樫左衛門秦家の血を引く方々は、しっかりと庄内の地に根付いているものと思う。

地図は、鶴岡市砂谷付近

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2009年10月30日 (金曜日)

勧進帳の本当の舞台は「鼠ヶ関」

 職場に富樫姓がいるので、ずばり、「山形か新潟の出身か」と質問すると、案の定、新潟県北端の生まれだという。

 富樫姓は、「勧進帳」のクライマックス場面、富山県の「安宅(あたか)のLarge関守」・富樫左衛門秦家が有名だ。しかし、この舞台は、実際は庄内・鶴岡「鼠ヶ関」の出来事だといわれており、近くには義経上陸の地とされる碑もあり、近隣には富樫姓も多い。

 この関所で、義経一行をわざと逃したことが頼朝の耳に達し、関守・富樫泰家は職を解かれ、仏誓と号し名を重純(しげすみ)と改め、義経のいる奥州路へと落ち義経に再会したという。

 富樫泰家には、庄九郎の他に何人かの子があり、その中の富樫泰景出羽の富樫氏の祖となったという。鶴岡市(旧・温海町)砂谷(イサゴダニ)がはじまりで、現在では、鶴岡界隈から南は新潟県村上市辺りに富樫姓が多いと聞く。

「義経記」によれば、
  岩船を通りて、瀬波と云ふ所に、左胡■(竹+録)、右靱、せんが桟などと云ふ名所々々を通り給ひて、念珠の関守厳しくて通るべき様も名ければ、「如何せん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、「多くの難所を遁れて、是までおはしましたれば、今は何事か候べき。さりながら用心はせめ」と、判官をば下種山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高に持たせ奉り、弁慶大の■(しもと:木+垂)杖に〔突き〕、「歩めや法師」とて、しとど打ちて行きければ、関守共是を見て、「何事の咎にて、それ程に苛み給ふ」と申しければ、弁慶答へけるは、「〔是は〕熊野の山伏にて候が、是に候山伏は、子々相伝の者にて候が、彼奴を失うて候ひつるに、此程見つけて候間、如何なる咎をも当ててくれうず候。誰か咎め給ふべき」とて、いよいよ隙なく打ちてぞ通りける。関守共是を見て、難なく木戸を開けてぞ通しける。程なく出羽國へ入り給ふ。 とある。Photo

 歌舞伎「安宅(あたか)の関」では、義経一行は白装束となり、武蔵坊弁慶は「これから羽黒山に向かうところだ。」と告げるが、まだ「羽黒山」まで遠距離の富山県下・安宅(あたか)の関で、既に白装束に着替え「羽黒山」の名称を出すのは、あまりにも不自然だ。

 しかし、これが「鼠ヶ関」が舞台なら歩いて、二日から三日の距離であり自然な話だ。このような話しの流れから、私は、「勧進帳」の舞台は安宅(あたか)ではなく、「鼠ヶ関」に間違いないと思っている。なお、「鼠ヶ関」は「白河の関」、「勿来(なこそ)の関」とともに、古代における奥羽三大関所の一つとされている。

 「鼠ヶ関」も観光地として整備して、もっと自信を持ってアピールすればいいのにと思っている。


安宅の関

下段は、鼠ヶ関付近の地図です。

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2009年10月29日 (木曜日)

長さ日本一の庄内砂丘

 日本一長い、「庄内砂丘」のことを自慢しておきたい。この砂丘が、どのように形成されたのかは、高校当時の恩師・土岐田正勝 著「最上川河口史」からそのまま抜粋することとする。

庄内平野は内湾状態
 庄内平野は、かつて海の底であったことが最近の地質学分野の研究から明らかMap_021になってきた。それでは庄内平野はいつごろ、どのようにして海底から陸地へと変わってきたのであろうか。そもそも、わたくしたちが生活しているこの地球は、今からおよそ四十五億年前に誕生したといわれている。
 その後地球は、地質学上の壮絶なドラマを展開してきた。今から五億年前ころにも地殻の大変動があり、火山活動が活発であった。そのころ庄内地方も三回の沈降と隆起による地殻変動があり、大陸→ 大海→ 大陸→ 大海をくり返していたらしい。      ・・・中略・・・・
  日本海の海岸線に沿って発達している庄内砂丘は、南北の構造線上にある。また、砂丘南端の加茂地塊から、漸次高度を減じていく地累状の第三紀層山地がある。この地層と、庄内平野北端から南へ発達している第三紀層地累を基盤とする砂州によって囲まれた時代は、外海から遮除された潟湖(海の一 部が砂州や沿岸州などのたPhoto_5めに外海と分離してできた浅い沼や湖)の形を示していた。
 すなわち庄内平野は、内湾のような状態であったといってよい。このような内湾、あるいは潟湖(せきこ)の時代に、ここへ注いだ諸河川が三角州を形成していった。その後、地殻変動によって土地が隆起したり、海流の変化や季節風によって砂州を形成して、湾口をせばめることもあった。
 洪水による氾濫によって土砂が堆積し、入江はやがて狭くなり、ついには平野に変貌して、今日の庄内平野ができたものといわれている。近くでは新潟県の新潟や、秋田県の象潟(きさかた)や八郎潟、青森県の十三潟(じゅうさんかた)などに、その例を見ることができる。

 庄内砂丘には、延々と黒松の防砂林が植林され、厳冬期はシベリアおろしの強い季節風から、庄内平野の集落と田畑を護っている。この砂防林の本格的植林が始まったのは、江Mogamigawa_1戸時代中期以降だという。この植林に携わった先人は、佐藤藤左衛門・藤蔵父子、本間四郎三郎(本間光丘)、佐藤太郎右衛門、曽根原一族、来生一族、近代では鶴岡市宝町出身の富樫兼治郎らの活躍がある。

 近年の課題として、庄内砂丘地の黒松を犠牲にした道路伸延、空港開発、工業団地などの建設から、砂防林の危機が叫ばれている。砂防林の育成は長い年月を必要とするが、破壊は一瞬である。人間の業を見る思いだ。この地に住む人々の器量が問われている。

http://www.youtube.com/watch?v=fZAU648pI14

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2009年10月28日 (水曜日)

酒田と安岡正篤の接点

 庄内地方・酒田市飯森山2丁目にある「南洲神社」に関連し、神社の材料は1d0岡正篤(やすおかまさひろ)の口利きで伊勢の皇大神宮から譲り受けたことを知った。

 陽明学の大家、安岡正篤(やすおかまさひろ)がこのようなところで、酒田と接点があるとは思わなかった。

 安岡正篤は、明治31年2月13日大阪府生まれで昭和58年12月13日85歳で没している。陽明学者の大家であり、右翼思想家ともいわれ、岸、池田、佐藤、田中、福田、大平、鈴木、中曽根と続く歴代総理の指南番だった。(三木の名は出てこない。考え方が違ったのだろう?)

安岡正篤に関して知っていることを列挙すると、
■終戦の詔書「玉音放送」の草案に加筆した。
■「平成」の元号の発案者。(竹下登が示唆)
■二・二六事件の首謀者らに影響を与えた一人と言われる。
■血盟団事件の井上日召とも親しい。
■北一輝や酒田出身の大川周明の猶存社のメンバーだった。
■三島由紀夫が師と仰いだ。盾の会のメンバーは細木を嫌った。
■晩年、細木数子と結婚騒動があった。
■細木数子が先生と呼び、いかにも「弟子だった」ことを吹聴している。
■埼玉県比企郡嵐山町に「安岡正篤記念館」がある。http://www.kyogaku.or.jp/
 

 安岡正篤は、昭和史を語るうえで、外すことのできない大物だ。晩年(享年85歳)は痴呆状態だったというが、細木数子との結婚騒動だけは、晩節を汚した感がある。酒田市と安岡正篤(やすおかまさひろ)にどのうような縁があって、口を利いてもらったかは分からない。

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2009年10月27日 (火曜日)

公益の祖・本間光丘

 酒田市には、全国で初めて公益を教える「東北公益文科大学」がある。ただI33_1_0、この公益という言葉は分かりにくく、分かりやすい説明を聞いたことがない。今回は、公益のことを多少勉強しておきたい。
 小松隆二公益大学学長は、「公益とは一口に言えば「世のため、人のためを目的に活動・機能すること」であり、公益学とは、「それを総合的に研究解明する学問」である。と述べている。
 この「世のため人のため」に尽くすということを具体的にいうなら、「企業の社Honnmamituoka1会的責任」という原則があるからと思う。そもそも会社・企業は基本的に利益を追求するものであり、そこから余裕がある儲けが出たなら、それを世のため人のために回せ(地域への還元)、という考え方ではないだろうか。

 この考えを、当然のごとく実践していた人たちが酒田にいた。それは、「公益の祖」として「本間光丘」を第一に上げることが多いが、本間家はこの三代光丘だけでなく、代々様々な社会貢献活動や事業を行っている。
■飢饉の際に備蓄米を放出し、庄内では餓死者ゼロ
■天災、人災、戦争など危急には富を復興に供出
■飛砂に苦しむ農民のため、庄内砂丘への黒松の植林事業 
■防火設備の寄付
■越冬資金の提供
■酒田祭の活性化 
上杉鷹山当時の米沢藩への援助(養山は光丘を師と仰いだ)
■幕末・戊申戦争賠償金として庄内藩への多額の援助
■松山藩、亀田藩、八島藩、本庄藩、二本松藩、津軽藩等の援助
■庄内藩の日光東照宮の廟の修理命令には一万二千両を献上
■幕末酒井家の磐城平転封の沙汰には七十万両を献納し中止
■江戸取締り役「新徴組」を藩が預かった為に軍用金を献納
■酒田町立酒田商業学校の建設時には土地と建設費の援助
■山形高等学校の建設時には建設費の寄付、等々だ。

 この本間家も30年近く前、現社長・真子(ますこ)の夫・興造(後に離婚)が社長当時、経営が悪化し再建に呼んだ枡野寅之助(当時60歳位)からの乗っ取り騒ぎがあった。この当時、私の妻が関連会社に勤めていたことから、ことの成り行きを目の当たりにしている。しかし、後に枡野寅之助は使い込みが発覚して失脚し、経営の本体は本間家に戻っているという。ここ数十年、本間家は危ういとの噂が流れていたが、不動産業等の株式会社・本立信成(酒田市本町1-2-55)を中心に事業は好転しているという。公益の祖・本間家の底力を見せてほしいものだ。当主の長女、本間万紀子に期待がかかる。

 ちなみに、本間家に関連し、「本間ゴルフ」が有名だが、ここの創業者の本間敬啓、裕朗兄弟は本間家の庶流にあたる。結構、誤解されている。

 なお、枡野寅之助は本間家を仕切っていた当時、週に一度は酒田を訪問して社員に朝礼し、幹部を指揮していたというが、妻は、この接待に当たらせられたというから隅に置けない。この辺りの事情は、あまりにも詳し過ぎるので必要以上の記載は差し控える。

東北公益大学付近"

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2009年10月25日 (日曜日)

鉄道の父・佐藤政養

佐藤政養 (さとう・まさよし)(※地元では「せいよう」と呼ばれる)(1821~18727明治10年8月2日、勝海舟邸で没)
 やや掲載のタイミングを逸したが、毎年、1 0月14日は鉄道記念日、「汽笛一声新橋を、はや我が汽車は離れたり・・・」の鉄道唱歌の生まれた日だ。この10月14日の決定には、山形県遊佐町升川(高瀬)の農家に生まれた佐藤政養が大きく関係している。それは、明治5年10月14日、日本で初めて列車を、新橋~横浜間を走らせることに成功した日であり、明治4年に「初代鉄道助(今の運輸次官)」に就任した政養の功績である。
  毎年この日に、吹浦駅前にある鉄道助の正装姿の政養像前で、偉業を讃える「政養祭」が開催されているが、この「」は、銅像が建立された昭和39年から続けられ、今では「遊佐四大祭」の一つとなっている。また、政養のことを「横浜開港の恩人」と呼ぶ人もいるという。それは、日米修好通商条約によって幕府が開港を決Satou_mめた三港のうち、横浜を強く推薦したのが政養だったからだという。
 

 政養は33歳のときに遊佐から江戸に出て、西洋の砲術や天文、航海術 などを学び、幕末から明治初期にかけて、多大の功績を残した郷里の偉人であるが、全国的には今ひとつ知られていない点が残念だ。

 因みに、「○○の父」と呼ばれる方々を数名あげると、
■「騎兵の父」は秋山好古(秋山兄弟の兄)
■「警察の父」は川路利良(初代・警視総監)
■「民生委員の父」は林市蔵 (第15代大阪府知事)
■「日本スキーの父」はレルヒ少佐(スキー術の普及)Photo

下段の地図は「遊佐町升川」あたり。右の写真は生家。

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2009年10月24日 (土曜日)

特定の店は応援しない

 このブログを開設し約70日になるが、アクセス数も2千8百を超えた。当初、自分が確認するためアクセスしても数値が反応していることに気づき、あわてて、「生ログ」機能Rdで自分の訪問者IDを調べ、「フィルタ設定」をした。「フィルタ設定」とは、指定した条件下にあるアクセスデータを集計・表示させないように設定することができる機能で、例えば、自分の「訪問者 ID」をフィルタ指定しておくことで、自分のアクセスは集計から除外され、純粋に外部からのアクセス結果のみを知ることが可能になる。

 さらに、ブログ「ココログ」では「ページ別アクセス数」を 調べることができる。配信した各記事ページ別に、どれだけのアクセスがあったのかを調べることができる。そして右のように、どのようなフレーズで検索されたかや、人気ページを知ることができる。   

 つまり、アクセス数の一番多い記事を、なぜたくさんの人が読みにきてくれたのかを分析すれば、人気記事の傾向を知ることができる。そこから、今後どのような記事をアップするとアクセスの増加につながるのかも見えてくる。

 ただ、失敗したのが、「近所にできた寿司屋の情報」を掲載したところ、そのブログ情報をご商売に利用されていることがわかった。この商魂たくましさには、いまひとつ賛同できかねるので、関連情報はすべて削除することにした。特定のお店を集中的に応援するつもりはないので、ご理解願いたい。

 

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2009年10月23日 (金曜日)

遊佐町にある石原莞爾の墓

 数年前のことだが、自衛隊を卒業されたそれなりの知人と石原莞爾の話になった。

 この方は、石原莞爾の「世界最終戦争論」や人生観を熱く語りはじめた。私が知200pxkanji_ishiwara2る範囲で石原莞爾を語る方々は、まず悪い人ではないが、やや、かつての敗戦の悔しさを自分のことのように背負っている人たちである。私も、あの戦争を東条英機ではなく、戦争の神と言われた石原莞爾が指揮を執っていたらどうなっていただろう。と同様の思いはあるが、それはそれとして、その方に「石原莞爾が今どこに眠っているか、ご存知か?。」と質問すると、「知らない」という。

 私は、「山形県遊佐町の国道七号線沿線で、道の駅の近くにある」と詳細に教えたところ、その数日後、「行ってきましたよ。立派な墓なので感激しました。」と報告して来た。この方は、自分が尊敬する石原莞爾に関することを、私の方が今ひとつ上の情報を持っていたことに余程悔しかったに違いない。しかし、会話があった、数日後には墓参りに行くという、この行動力に頭が下がった。

 伝えたいのは、石原莞爾を尊敬する人は、このように純粋な方々が多いということだ。

ウィキペディア(Wikipedia)石原 莞爾、明治22年(1889年)1月18日~昭和24年(1949年)8月15日)は、昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、戦犯指定を免れた。とある。また、インターネット上には、かなりの量の情報が配信されている。

 付け加えると、近代で、庄内出身の著名人を数名上げるとしたら、清川八郎、石原莞爾、大川周明、そして、遊佐町では鉄道の父・佐藤政養、酒田市では公益の祖・本間家3代目・本間光丘、鶴岡からは作家・藤沢周平あたりか。今、ご存命の方の名を上げることはやめる。

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    2009年10月22日 (木曜日)

    羽田空港のハブ化

     東京国際空港(羽田)のハブ化のことが話題になっているが、かつては、立川市緑町ある「立川飛行場」が日本国内唯一の国際空港だった。

     「立川飛行場」は大正11年完成と同時に、「陸軍飛行第五連隊」が岐阜県から移転し、陸軍と民間で共用した時期があり、大正から昭和初期にかけては、日本唯一の国際空港として利用されていた。

     昭和6年に羽田飛行場に国際空港が移転後は、陸軍飛行第五連隊の専用飛行場として、帝都防衛の主要基地だった。戦後は、米軍に接収されていたが返還後は、陸上自衛隊の立川駐屯地として再整備され、現在では「広域防災基地」としての役割もあり、陸上自衛隊のほか、警視庁航空隊のヘリコプターや東京消防庁航空隊Handa_0なども共用している。滑走路の長さは1200mである。

     さて、今回の話の主体は、その後の羽田空港のことだが、羽田空港の発展は、国民の期待の大きさと利便性の割りには、思うように進んでいなかった。その理由は、昭和40年ころの、成田建設当時に決められた、羽田は国内線、成田は国際線という「内際分離の原則」の縛りがかかっているからだ。

     それが、昭和63年に始まった沖合展開工事が、ようやく完成近くになったことから、この方針が変更されようとしている。

     羽田空港4本目の滑走路「D滑走路」の完成は平成22年10月の予F8567fc09aee6eec5bb3ad2ab093e809定だからだ。4本目の滑走路の完成で、現在年間約30万回の発着回数を更に約10万回数増やすことが出来るそうで、韓国の仁川(インチョン)空港は滑走路3本でハブを運用しているそうだが、羽田も4本あれば十分に対抗できるのだろう。た だ、滑走路の長さと24時間運行の問題が残りそうだ。それに、羽田の有利さは埋立地であり、今の技術なら5本目を作ることも可能と思われる。

     それから、立川飛行場や福生の横田飛行場から羽田までのエアバスの運行や、南武線などを利用した直通の電車があれば、多摩地域居住者には便利なのだがと思う。

    下段は現在の立川川飛行場

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    2009年10月21日 (水曜日)

    庄内→長岡→川越→庄内の関係

     庄内藩を含む「三方国替え」のことは、藤沢周平原作の「義民が駆ける」で世間に広く知られるようになっ。この本には、遊佐、酒田界隈の村々の地名がSakai そのまま出てくるので、この村はどこだったろうと記憶を辿ったり調べながら読んでしまう内容だ。

     概略は、天保11年(1840)11月、8代・忠器(ただかた)の時に庄内藩に危機が訪れる。それは、庄内、川越、長岡の三藩の藩主に対して、水野忠邦を筆頭とする「三方国替え」を進める幕命が下りたことに始まる。内容は、荘内藩14万8千石の酒井忠器(ただかた)を長岡へ、川越藩15万石の松平斉典(なりのり)を庄内へ、長岡藩6万8千石の牧野忠雅を川越へ移封するということだ。「三方国替え」のきっかけは庄内藩江戸屋敷は、外堀に架かる神田橋近くにあり、その財政の豊かさから「神田大黒」と呼ばれ、他の大名らに妬まれていたからという。つまり言いがかりだ。

     国替を命じられた庄内藩は、藩主酒井忠器、藩首脳、酒田の本間光暉、遊佐郷升川村の佐藤藤佐(とうすけ)らが善後策を練る中、遊佐荘「玉龍寺」住職、文隣和尚をはじめ庄内藩農民たちは、「百姓と雖も二君に仕えず」と打ち首獄門を覚悟の上で、筵旗を掲げて江戸に上り、諸大名や幕府役人に直訴を試みた。

     当時の江戸町奉行は矢部駿河守だった。佐藤藤佐翁は取り調べで、三方国替えの間違い訥々と説明した。矢部駿河守はその訴えの誠実さに感激し、その口述書をとり閣議の席で朗読し、藤佐(とうすけ)翁の取調を停止し、農民等に有利な裁決を下した。
     当然、幕府の意向に従わなかったとして、天保13年矢部駿河守は、伊勢桑名藩松平家に幽閉され、幽閉中、断食で抗議しつつ55歳で逝去した。庄内藩は危機を脱し、その24年後の元治元年(1864年)には、江戸市中警護の功により2万7千石を加増され、石高は16万7千石に達したが、その財政の豊かさは20万石以上といわれた。これは庄内平野の恵みからだ。

     遊佐町江地の「玉龍寺」には其の碑があり、農民や矢部らの正義を貫いた行為に感謝し、その勇気を讃えた「戴邦碑祭(たいほうひさい)」が毎年行われ、この幕府をも動かした庄内農民の熱き血汐は、今に受け継がれている。

    ウィキペディアから 「三方領知替え」とは、江戸時代に徳川幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ。大名3家の領地(知行地)を互いに交換させることを言う。例えば、領地Aを持っている大名家Aを領地Bへ、領地Bを持っている大名家Bを領地Cへ、領地Cを持っている大名家Cを領地Aへ同時に転封すること。「三方領地替え」「三方所替え」「三方国替え」とも書く。江戸時代を通じて何回か行われている。4家が関係した「四方領知替え」の例もある。

    遊佐町江地の玉龍寺付近

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    2009年10月20日 (火曜日)

    南洲神社は酒田にもある

     山形県、庄内・酒田市に西郷隆盛を奉った「南洲神社」が、何故あるのかは余り知られていStory02_ph06_2 ない。今回は、なぜ酒田に「南洲神社」があるかと、「西郷南洲遺訓集」についてご紹介したい。

     庄内藩の始まりは、徳川家康の側近「徳川四天王」の一人・ 酒井忠次だ。鶴ヶ岡城には、第3代藩主・酒井忠勝の時に入り、以後、明治にいたるまで酒井家が庄内を治めた。幕末、庄内藩は、会津藩と並ぶ佐幕派の双壁といわれ、混乱が続く国内の治安維持のため、会津藩は京都守護職、庄内藩は「江戸市中取締り役」を勤めた。

     鳥羽伏見の戦いの切っ掛けになった「江戸三田の薩摩藩邸焼き討ち」を行い。戊辰戦争が始まってからは、江戸城無血開城、会津落城後も秋田方面や新庄方面で、果敢に新政府軍と戦い続け、藩内に一兵も入れない程、百戦百勝の強さだった。しかし、いかに庄内藩が孤軍奮闘しようと奥羽諸藩は次々と降伏し、時の勝勢は明らかだった。

     庄内藩は、新政府軍から藩主・酒井忠篤(ただずみ)の切腹を含めた、過酷な条件が提示されることを覚悟しながらも降伏を決定した。庄内藩の降伏を受けたのは、庄内方面司令官の薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)だ。西郷から指示されていた黒田は、実に寛大な降伏措置を取った。会津の23万石から3万石削減に対し、庄内藩は17万石から12万石に減じただけだった。この寛大な処置に感激した藩主や藩士らは、生涯西郷を慕うこととなり、藩主自ら鹿児島の西郷の元へ教えを請いに出向くなど、庄内藩士と西郷の交流は長く続くことになった。

     明治3年には、旧庄内藩から選抜隊70余名を鹿児島へ派遣し3ヵ月間留学させた。明治10年の「西南の役」では、西郷とともに戦った庄内藩士からも戦死者を出したほどだ。以後、賊軍の将となった西郷隆盛は官位を剥奪されたが、明治22年2月、明治天皇の大日本憲法発布記念の恩赦により、正三位として名誉回復を果たした。

     その恩赦運動の中心は庄内藩の人々だったと言われる。西郷隆盛の語録をまとめた「西郷南洲遺訓集」(岩波文庫)は、西郷の著作ではなく、明治3年、庄内藩主、酒井忠篤らが鹿児島を訪ね、寝食を共にして直接教えを乞いたときの、西郷の言行をまとめたものだ。この遺訓集は、私がかつて「南洲神社」を訪問した際は無料で頂くことができたが、最近のことは知らない。

     社殿は、昭和51年6月に竣工しているが、用材は安岡正篤(やすおかまさひろ)の取計らいで、伊勢の皇大神宮から、御古材の払い下げを賜ったという。

    荘内南洲会http://www1.ocn.ne.jp/~x48ue66i/data/frame.htm
    山形県酒田市飯森山2丁目304-10 Tel(0234)31-2364

     

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    2009年10月19日 (月曜日)

    遊佐出身者の本「余命ゼロを生きる」

     遊佐町は映画「おくりびと」の舞台。この遊佐町出身者・佐藤由美(47)さんの本が話題になっている。

     四つのガンと戦いながら、力強く生きる女性の本を最近知った。「余命ゼロを生きる」の著者は現役美容師、佐藤由美(47)さん=山形県飽海郡遊佐町直世字村根73「ヘアメイク・ディア」の経営者が単行本を発行している。

     佐藤さんは、昭和37年遊佐町生まれ。地元の遊佐高校を卒業後、東京や米国・Img_2_2ニューヨークで美容師として働いた後、家族の看病のために帰郷する。まず両親を見送り、次は祖母を自宅介護しつつ見送る。そして、2002年地元遊佐町で、妹とめいと暮らしていくため、実家の車庫を改装して念願の美容サロン「ヘアメーク DEAR」を02年10月に開店した。

     その2年後、42歳で顔のがん「腺様(せんよう)のう胞がん」が見つかった。摘出手術を受けたものの、44歳の時に首の骨と肺に転移、さらに46歳で眼底に転移。治療法はなく、47歳の現在は山形大医学部付属病院と日本海総合病院に通いながらも、美容師として働いている。

     入院中も「心は病人になりたくない」と、店からシャンプー剤を持ってきて同室の患者や医師、看護師の洗髪をした。シャンプーを通じて心の会話ができるのだという。遊佐出身者の本は、めったにお目にかかることはない。さっそく、購入手続きをした。

    余命ゼロを生きる」の目次は 
    第1章 42歳、独身の私は、ひとりで告知を受けた(告知/外泊 ほか)
    第2章 あこがれのニューヨークで、新しい私になる(生きてきた道/ニューヨーク ほか)
    第3章 念願の自分の城、そして突然の入院(大黒柱/1回目の手術 ほか)
    第4章 顔のガンとの闘い(シャンプー/2回目の手術 ほか)
    第5章 美容師をつづけながら、4つのガンと生きる(『死』への恐怖/再発 ほか)

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    2009年10月18日 (日曜日)

    要石とデエダラボッチ

    今回は東京都東大和市の話題だ。ASA大和北部(東大和市高木2-101-6 ℡ 042-561-3039)では、毎月第一・第三日曜日に「たまこ」という広報誌を発行している。今回は、東大和市在住の郷土研究家・安島喜一(あじまきいち)先生のコラムが掲載されていたので紹介します。

    要石とデエダラボッチ」(村山三里の誕生)
     一帯は海の中、狭山丘陵はデエダラボ ッチがショッ(背負う)てきた。となると破天荒なようですが、まんざらてはありません。 東大和市の芋窪三丁目1603、蓮華寺(れんげじ)の南に一つの石がまつられています。耕作の妨げになるからと、村人達が集まって、取り除こうとしました。掘っても掘っても根が深くて、地下にいくほど大きくて、どうしても掘り出すことが出来ません。いわれを辿ると、大昔、この辺が海だった頃、建御雷命が来て、船をつないだところだ、ということで「鹿島様の要石」と名付けて、大事にしたそうです。

     建御霊命(たけみかづちのみこと)は古事記や日本書紀に有名で、豊鹿島神社の祭神です。茨城県鹿嶋市の鹿島大神宮と同じ神様で、「武」の神とされ、ここにも要石があって、神社同士が親戚なのでしょう。昭島市役所のロビーに鯨の骨が飾ってあります。アキシマクジラで、要石の廻りをゆうゆうと泳いでいた証拠です。多摩川の河原で発掘されました。要石から武蔵村山市に向かぅと、大曲、神明が谷戸にでます。これもまた大昔、大力無双の大男・デエダラボッチ(大平法師)が藤するで山を背負って、のっし、のっしと歩いてきました。ここまで来ると、急Idoに背負っていた山が落ちそうで、ぐっと両足を踏ん張ります。でも、背中の山は落ちてしまいました。踏ん張った足跡からはこんこんと水が湧き出し、平らだった原に突然丘が出来ました。今に伝わる「でいだらの井戸」「丸山・向山」=狭山丘陵の誕生です。

     東大和市で狭山丘漣の裾野を掘ると手の拳ぐらいの大きさの砂利が出てきます。古多摩川が海の底に運んできたもので、地質学では「芋窪礫層」と名を付けました。武蔵村山市神明が谷戸では、貝の化石が出ます。海の貝、淡水に住む貝が発見され、海と川があったことを示します。さらに、メタセコイヤなどの植物の化石が見つかっています。やがて、海の水が引いた後、多摩川は長い時間をかけて現在の位置に移りました。その時、削り残しだのが狭山丘陵とされます。さてさて、いつ頃のことなのでしょうか? 要石やデエダラボッチが目を輝かすような、新しい民話が生まれると良いですね!! 東大和市在住 安島喜一

    「おたまじゃくし」http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/

    東大和市芋窪三丁目1603、蓮華寺付近

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    2009年10月16日 (金曜日)

    公開 健康管理!

     このブログを公開するきっかけは、この「メタボレコーダー」を知ったからだ。時に見ていただく方には迷惑かも知れないが、これも、お約束と思って掲載することにする。

     このようにメタボレコーダーを取り付け、人に見られていると思うと、一層、食事や運動に気を払うようになるものだ。今日は、帰宅が早かったので、多摩湖を一周してからの体重などの計測であり、参考ではあるが、体重は64キロ代に入り、BMI(Body Mass Index)も標準といわれる「22.2」と安定している。この『BMI22』は、一番肥満に関係する病気(糖尿病や高血圧など)になりにくいということから、中高年に知られているようだ。

     因みに、肥満に関連する具体的な病気としては、糖尿病、高コレステロール血症、高脂血症、高血圧、動脈硬化、肝臓病(脂肪肝)、痛風やメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)などがあるが、どれにもなりたくない。最期はピンピンころりが理想だ。

    このような格言がある。
    ■「たいていの人は、剣によるよりも、飲み過ぎ、食い過ぎによって殺される。」オスラー
    ■「君がどんなものを食べているかを言って見たまえ。君がどんなであるかを言ってみせよう。」サヴァラン
    ■「私は生きんがため、奉仕せんがために食べるし、またたまたま楽しむために食べることがあっても、享楽のために食べるものではない。」ガンジー
      それぞれの格言は、大量生産、大量輸入、大量販売、大量消費、大量廃棄のパターンが、ぴったり当てはまる多くの現代日本人への警告ではなかろうか。   

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    2009年10月15日 (木曜日)

    超らく・ジョギングを実践!

     ジョギングは多摩湖周辺の約7~8キロメートルを約40分もかけ、ゆっくりとした速度で行っている。いつも駆け足をしている方なら、どの程度の距離でスピードか直ぐわかるだろう。

     何も大会に出場するわけでないので、マイペースで疲れたら歩くこともありだ。走る時間帯は、休みのときは早朝だったり、時には夕方にしたり、いい加減なものだ。若いころは一日置きにしたこともあったが、最近は週二回程度(一回のときも多い)に減った。それでも自分の健康管理の中心に位置づけ継続している。

     ジョギングは40分以内だが、途中の公園で筋トレ約10分の時間を挟んでいるので、家を出発してから帰宅まで1時間以内の運動だ。この辺りに住み約25年になるが、良く飽きずに続けているものだと我ながら感心している。けっして無理しないことが長続きのコツと思っている。

     今年の春ころ、NHKのためしてガッテンで、「超らくジョギング革命」がテーマで放送していた。

     「超らくジョギング」とは、乳酸がたまりにくく疲れにくいジョギングの方法で、速筋を使わない走り方でスロージョギングと呼ぶそうだ。この「スロージョギング」は、まず背筋を伸ばして、やや前傾姿勢、足は押すだけ、蹴らない、きつかったら歩く、1日30分程度が目安だそうだ。このような内容だった。

     このほとんどが、私が行って来た方法と一緒だったので、先取りしていたようで嬉しかった。お陰で、定期健康診断は血圧から血糖値、尿酸値、BMI等々7km_4 オールA(基準値の範囲内)であり、中年男としては珍しいらしい。

    距離測定が出来るマップはこちら


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    2009年10月14日 (水曜日)

    「不毛地帯」の主人公は遊佐町杉沢出身?

     フジテレビ開局50周年記念ドラマとして、明日、10月15日(木)午後9時から山崎豊子原作の「毛地帯」が放送される。10110440

     30年位前は、仲代達矢主演で映画化されていたがスケールの大きな作品だ。主人公の壱岐正(いきただし)中佐は、瀬島龍三氏(1911年12月9日~2007年9月4日)がモデル。今回のドラマ化は、2年前に瀬島氏が鬼籍に入られたことも切っ掛けになったことであろう。 なお、著者・山崎豊子は瀬島龍三の死に接し、「昭和史の大事な生き証人が肝心なことを語らぬまま亡くなったことは非常に残念、シベリア抑留の歴史的真実をしっかり話すべきだったと思う。」と語っている。

     ところで、「不毛地帯」の主人公・壱岐正(いきただし)の出身地は「山形県遊佐町杉沢 」と設定されている。壱岐正のモデルは瀬島氏であることは有名だが、同氏は「富山県西砺波郡松沢村」の出身である。これを富山県出身とせず、同じ日本海側の山形県遊佐町としたことに、山崎豊子の何らかの意図が伺える。20070905115130
     41年も前に「不毛地帯」の単行本を読んだとき、冒頭に郷里の地名が出てきたので近親感を持って一気に読んだものだ。

     だが、山崎豊子は「何故、遊佐町杉沢を出身地としたのであろうか?」と、当時から疑問だった。
     山崎豊子ほどの作家が、地図を広げて適当に決 め たわけでもなかろう。小説にしろ、映画にしろ、設定や背景から、いろんな思いをめぐらして、見たり読んだりするのが常だし、特に主要人物の出身地は、その人物の生い立ち、性格や生活環境まで背負ってしまうように思える。
     著者・山崎豊子さんに確認して見たい話だ。

     きっと、山崎豊子さんもご存じだろうが、遊佐町杉沢には「杉沢比山」という古い舞がある。杉沢には親戚があったので、子供の頃、何度か見に連れて行かれた記憶があるが、当時は退屈なだけだった。ところが、その後、国の重要無形民族文化財に指定されている有名な舞と知った。だからといって、これらのことが出身地とした理由になったとは思えない。単に、寒村のイメージだけなのか。

     遊佐町杉沢村のことは、ドラマ 「不毛地帯」には関係ない話と思うが、山形・庄内の方々は、「読んでから見るか、見てから読むか」はご勝手に。

    杉沢比山連中について」遊佐町教育委員会 青葉信子

    杉沢熊野神社概要】杉沢熊野神社には「杉沢比山」と呼ばれる神楽が伝わっている事が有名な神社です。

    庄内の「重要無形民俗文化財」
    •黒川能(1976年5月4日 鶴岡市黒川 黒川能保存会)
    •杉沢比山(1978年5月22日 飽海郡遊佐町大字杉沢 杉沢比山保存会)
    •遊佐の小正月行事(1999年12月21日 飽海郡遊佐町 遊佐のアマハゲ保存会)

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    2009年10月13日 (火曜日)

    山形県鶴岡の加藤清正の墓

     最近知り合った、熊本県出身の方は、いかにも九州らしい顔立ちと熊本に多い苗字で、清正が広めたと言われるの馬刺しのことなど、熊本自慢を語ってくれた。
     山梨の武田信玄鹿児島県人の西郷隆盛好き、山口県の吉田松陰高知県の坂本竜馬好き、同様に、 熊本県人は間違いなく加藤清正が好きなようだ。
     小生からは、リップサービスとして、熊本と山形・庄内との強いつな00_kuraがりを紹介した。それは、加藤清正の墓が庄内・鶴岡にあることだが、この方も知らなかった。
     清正は1562(永禄5)年、秀吉と同じ尾張中村に生を受けた。幼名が虎之助。5才の時、母は秀吉の母と従姉妹であった縁から秀吉のもとへ預けられた。15才で元服、170石を与えられ、20才で初陣を飾った。歴史上有名な賤ヶ岳の合戦では、片桐且元、福島正則らと共に七本槍に数えられた。この戦いで300石を加増されて出世街道をいく。天正15年に九州遠征で大活躍し肥後(熊本)の地25万石を貰う。

     関が原の戦いでは徳川側に付き、旨く切り抜けた感があったが、加藤清正が慶長16年(1611)50歳で死去すると清正の子・忠広が10歳余りで家督を継いだ。
     しかしながら、寛永8年(1633)外様大名である清正の嫡子・忠広が、熊本54万石をいわれなき理由(単に秀吉寄りだったとの理由らしい)で改易の憂き目にあい、扶持1万石に減俸され、庄内藩酒井家預けとなった。
     加藤忠広は、庄内に配流が決まった折、徳川幕府に知れぬよう父・清正の遺骨を密かに熊本から持ち出し、母と共にその菩提を庄内の地で弔ったとされる。加藤忠広親子には、庄内藩では異例の配慮をしている。丸岡の城跡に忠広と生母正応院の為の住居と御家来衆の長屋を新築し住まわせ、嫁を娶ることも許されている。

     その子孫が鶴岡界隈の加藤姓といわれ、その一人は、冨士酒造株式会社 社長 加藤有倫 :鶴岡市大山3-32-48. TEL:0235-33-3200. http://www.e-sakenom.com/である。衆議院議員の加藤紘一氏も末裔のうわさがあるが真偽のほどは知らない。

     加藤清正の墓は山形県鶴岡市丸岡町の内36「天澤寺」にある。
     私は一度だけ墓参りしたことがある。

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    2009年10月12日 (月曜日)

    東大和の戦災建造物

     東大和のイトーヨーカドーの裏手に東大和市文化財史跡・戦災建造物で、米軍機からの空襲による銃弾痕も生々しい建物がある。「旧日立航空機株式会社立川Dscn3625場変電所」だ。この一帯は、敗戦後、米軍に接収され米軍立川基地「通称・ 立川ベース」に勤務する米軍兵士らの宿舎として利用されていた場所で、通称「大和ベース」と呼ばれた一角にあった。私は返還前、「大和ベース」内の米軍人用レストランに親戚が勤めていたので、ここのビフテキやウィンナーを何度もたらふく食した数少ない日本人の一人だ。断っておくが、「大和ベース、立川ベース」との呼び方は、この基地関係者の呼び方で、付近の住民がどのように呼んでいたかは知らない。

     米軍立川基地関連施設は1973年から段階的に 日本政府に返還Photo_2 され1977年に全ての敷地が全面返還された。この「大和ベース」も昭和48年6月30日に返還され、学校施設、公園、マンション施設、警視庁グランドなどと幅広く利用されているが、「立川工場変電所」(通称 「瓦斯電」)だけは、時が止まったような景観を残している。この場所は、都立公園として模様替えする段階では取り壊される運命にあったが、貴重な戦災建造物を保存し、次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の熱意で保存する運びとなったものだ。この建物では、米軍飛行機からの機銃掃射で110余名の方々が死亡している。ただ、この場所を心霊スポットと呼ばれていることは、余りにも不謹慎だ。

     東大和市文化旧日立航空機株式会社立川工場変電所
     この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。北隣にあった設備で受電した66、000ボルトの電気を3、300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆Dscn3623 撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
     都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。          平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会

    下段の地図は旧日立航空機株式会社立川工場変電所

    東大和市体育館の直ぐ南側の建物

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    2009年10月11日 (日曜日)

    うまさギッシリ新潟・庄内

    Photo  「うまさギッシリ新潟・庄内」。10月1日上野駅で、「新潟デスティネーションキャンペーン」の開幕を記念して、オープニングセレモニーが開催されたことが新聞に載った。

    開催期間:2009年10月1日~12月31日。開催エリア:新潟県全域・山形県庄内エリア
    「うまさぎっしり新潟」http://www.niigatadc.com/Dc1
    「食」の魅力を中心に「来てよかった、また来てみたい」と思っていただけるように、新潟県・山形県庄内エリアに、多くの皆様からお越しいただき、各地域でのおもてなしやイベント列車の旅で新潟・庄内の新しい魅力を発見していただきます。という謳い文句だが、今一つ、庄内のアピールが不足している。

     ただ、この新潟と庄内がタイアップした企画は大いに評価できる。その理由は、なんといっても歴史的にも地理的にも結びつきが強いからだ。北前船で人・物の往Nihonkai来が盛んだったのだ。簡単に言うと、山形県は庄内地方と内陸地方に別れるが、この二つの地域は朝日連峰に遮断され、近年まで人の交流は殆どなかった地域だ。それが幕末、庄内藩が力を失うと、新政府軍に一番先に寝返った「山形藩」が、その功から「山形」の地名が前面に出ただけだ。庄内の人達にとって、「山形」の地名は屈辱と捉える人が今も多いのだ。
     いずれ、「道州制」が取り入れられるだろう。その際は、「日本海州案」もぜひ検討して欲しい。「日本海州案」(又は日本海沿岸州案)は、「東北六県州」案からの離脱でもある。

     庄内地方が山形県に編入される経緯は、明治2年の廃藩置県に始まる。まず今の庄内地方は「大泉県」と呼ばれた。そして「酒田県」に変更され、明治8年には「鶴岡県」となる。理由は知らないが、もてあそばれた感じだ。そして、とどめは、明治9年に「山形県」に吸収合併されたことが、屈辱的歴史のはじまりだ。

     近年、中国、ロシアの発展は著しくは、更に朝鮮半島の雪解けが始まれば、貿易・物流の一層の拡大が予測され、日本海側が表玄関として重要視される時代の到来は必至だ。海に面した地の利から大陸棚等の海洋資源を含め、大きなメリットが期待されるのだ。
    日本海州案」」(又は日本海沿岸州案)の展望を簡単にまとめれば、
    ●日本海に面した地域と、同じ価値観、一体感を共有できる。
    ●日本海に面した、良港を持つ地域として発展が予測される。
    ●日本海沿線を往来する、道路網、新幹線整備が期待される。
    ●海を持つ地域として、海洋資源、観光価値は無限に広がる。
    ●日本海文化圏として、誇りと使命感の回復が期待される。
    早い話が、デメリットを探す方が困難だ。

     反して、東北州案の場合、庄内の価値、役割はどの程度期待されのか。庄内と太平洋側地域と価値観・一体感を共有出来るのか。仙台や山形、盛岡などの陰に隠れ、更に存在の薄い地域に成り下がるように思えて仕方ない。

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    2009年10月10日 (土曜日)

    刺青が一生消えない理由

     のりピー関連から、一時期、刺青の報道が多かったが、そこから日本人の刺18青に対する一般的な感情を知ることができる。
     そして、刺青は一生消えないものであり、入れるからには相当の覚悟が必要であると知ることができた。

     刺青が一生消えない理由は皮膚の構造にある。
     一番上が表皮、中が真皮(しんぴ)、内側が皮下組織。
     そして、表皮と真皮が触れあう部分は細胞分裂が活発で、分裂した細胞は上に移動して、概ね3週間で表面に出て角質層の細胞に変化する。そして垢やふけになって剥がれ落ちる。
     消えないのは、この「真皮(しんぴ)の部分が刺青と深く関係している。
     真皮は表皮を支え栄養分を蓄え皮膚全体の張りを与えているが、実は刺青はここに色を刺し入れて、着色しているから色がとれないことになる。
     小生は谷・根・千で有名な下町で仕事をしていた昭和40年代、刺青を入れる場面を見学したことがある。褌一本になった男が、割り箸を口にしてうつぶせになり、筋彫りされている段階あったが、キュキュと刺しを入れるたびに唸り声を上げていた。
     不衛生で、みっともないものだった。07

     ただ、刺青をその筋では「がまん」と呼ぶことは理解できた。
     また、「くりからもんもん」とも呼び、略して「もんもん」ともいうが、胸で左右に割れているのを「胸割り」と呼ぶ。
     刺青を入れる順序は、まず、筋だけ彫り、次にボカシを入れ、次第に薄くなっていく様子を「あけぼの」という。
     時には筋彫りだけで中断した男を銭湯で良く見たことがあるが、その状態を「すじ彫り」といい、それは痛さで中断したか、金が無かったかだが、「すじ彫り」をヤクザ者が嫌う理由でもある。 

     刺青の呼び方も、江戸時代は「ほりもの」と呼ばれ、明治に入り「刺青」と言うようになったらしいが、最近では「分身」、「彫りもの」、「入れ墨」、「刺青」、「タトゥー」など色々のようだ。ヤクザ間では今も、「ガマン」、「もんもん」が多いように思われる。
     なお、最近では「タトゥー・マシーン」という機械彫りが一般的のようで、入れ方も随分変化したようだが・・・・。

     最後に、普通の感覚で生活している日本人が、刺青をしている人に持つ一般的感情を列挙しておく。
    ■普通の会社に就職できない。隠しても発覚すると解雇される。
    ■公務員は絶対になれない。その理由は自分で考えて欲しい。
    ■公衆浴場、公営プール等は利用禁止の場所がほとんど。
    ■生命保険の加入に影響。黙っていると規約違反で保険額に影響。
    ■家族も、付き合いの中で肩身の狭い思いをする。
    ■加齢とともに色は褪せ、シワ、弛みで無様になる。
    ■結婚相手が刺青を入れていると、聞くだけで反対される。
    ■無理に結婚しても、その後、親戚関係の交際は遠慮される。
    ■友人もいつか離れて行く。珍しがった友人も刺青を入れる行為の意味を知るからだ。そして、その種の人間関係でしか生きられないことになる。

     入れるからには、それなりの覚悟が必要だ。
     一時の流行や友人関係で入れると一生負い目を感じてしまうだろう。
     世間の目は厳しい。
      ※「文身」(ぶんしん)」と呼ばれたのは古く、日本書記にも記されている。

     また、「入れ墨」と書くのは、刑罰として罪人の腕に数本の輪を彫りこんだ場合。江戸時代は、江戸払いなどの付加刑が付いた。よって、「入れ墨」と呼んだり書くと更に印象が悪くなる。

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    2009年10月 9日 (金曜日)

    仕事着はユニクロ

     気がついたら、仕事着はネクタイと靴以外、下着や靴下まで全てユニクロ商品になっていた。今日の自分の服装を価格に直すと、ネクタイが約1万円のものだが、ズボン、ブレザー、ワイシャツが合計で約1万円、つまりネクタイ一本とほぼ同額だった。実Photo_2に安あがりな服装だ。

     ユニクロ商品は質の割りに価格が安く、更にファッション的な要素が強く、中高年でも文句ない製品と思う。時には親父同士も服装の話になることがあるが、全てユニクロと聞いて皆驚いている。

     ただ、服装は裸のボディの上に羽織るもの、つまり、元々の体型がメタボやガリ(痩せ)では、どんなブランド服で固めても大したことはない。当面は、ユニクロファッションのイメージを壊さない体型を維持したいものだ。因みに、男で服装センスの良い人は仕事のセンスも良い、女性の服装センスの良い人は料理上手だ。いずれも、コーディネートが大切だからだ。このことは、男女いずれに対しても褒め言葉として使える。

     ユニクロの商品で最初に身につけたのは、6・7年前だがワイシャツだった。ワイシャツは、通常センチ単位で細かく売られていて、サイズを合わせ易くなっている。S、M、L、LL等と大まかに区分けされたサイズのワイシャツには最初から目をやることはなかった。

     ところが、ユニクロの店頭でワイシャツの「Mサイズ」が首周り40センチ、袖の長さ83センチと表示してあったことを知った。実は、このサイズが自分の体型に丁度なのだ。もし、これが合致しなかったら、他の物も着ていなかっただろう。なお、日本人の体型はJIS規格で、標準体型が決められ、標準体型も定期的に見直さPhotoれている。「S=スモール=小さい、M=ミディアム=普通、L=ラージ=大きい」と区分けされ、Mの普通サイズに対しての表現で、標準は時代で変化するのだという。ワイシャツのユニクロサイズは下段に載せるのが、サイズが合えば間違いなくラッキーと思い利用を奨める。

     ユニクロ商品で数年使ってのお奨めは、ワイシャツの他には、ジーンズ、ヒートテックの下着類と思う。このユニクロが、最近特に元気がいい。本物を見極める目は、日本の消費者は相当のものだ。

     ユニクロhttp://www.uniqlo.com/jp/、「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」(UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE)を開始。後にユニクロへ改称。ユニクロは「ユニークな服の倉庫」の略だ。 現在ユニクロのショップは、国内に約750の店舗を展開中だという。親会社は、株式会社「ファーストリテイリング」、経営者は柳井正代表取締役会長兼社長だ。

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    2009年10月 8日 (木曜日)

    江戸の護りは庄内藩・新徴組

     この項の記載は、息子が「庄内藩江戸屋敷」があった場所の隣に勤めていることにある。これも何かの縁であろう。少しは郷里のこと、庄内藩のことに関心を持っ Dscn3651て欲しいものだ。 

     京都守護職に就いた会津藩の元で活躍したのが「新撰組」。江戸市中取締りに就いた庄内藩の元で活躍したのが「新徴組」(総勢約169名)だが、新徴組も新選組も、山形県庄内町(旧立川町)出身の清河八郎が結成した「浪士組」が母体だ。つまり兄弟組織なのだ。

     JR飯田橋駅から徒歩数分、千代田区飯田橋1-9-7先、目白通りの歩道上に、「新徴組屯所跡」の碑がある。かつて、徳川四天王・庄内藩、酒井左衛門尉忠発(ただあき)17万石の江戸屋敷があった近くだ。 
      幕末、江戸の治安が悪化すると、庄内藩は江戸市中警護の主力として「新徴組」を当てた。「新徴組」は関東近辺で募集した「浪士組」Photoが前身で江戸の地理や事情に詳しく、その任に向いていた。                                                    庄内藩預かり「新徴組(しんちょうぐみ)」の活躍を江戸の人々は、
    「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」、「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」、「カタバミはウワバミより怖い」(カタバミは酒井家の家紋) などとうたわれた。会津藩預かり「新選組」が京で活躍している頃、  庄内藩預かりの「新徴組」もまた江戸で活躍していたのだ。Sakai

     しかし歴史は大きく動いた。幕府と薩長との対立が激化した慶応3(1867)年12月25日、  庄内藩の薩摩藩邸を焼き討ちが引き金になり戊辰戦争が始まる。続いて起きる「鳥羽・伏見の戦い」では、幕府軍は薩長連合軍に惨敗し、将軍は恭順。幕府軍が敗北すると「新徴組」は庄内藩士と共に庄内へ帰国。庄内藩に編入された新徴組隊士は湯田川の旅館民家37軒に分宿、隼人旅館を本部として部隊を編成した。再編した新徴組は 慶応4年7月20日付で編成された庄内藩兵第四大隊に付属、秋田・矢島藩との戦い「椿台の戦い」等に従軍するなど、新政府軍相手に奮戦するも、最終的に庄内藩も降伏することになる。

      明治期に入り、庄内藩士約3,000人は松ケ丘の荒れ野開墾事業に着手、新徴組も参加するが、「新徴組」は関東周辺の出身者が多く、慣れない土地での開墾生活は苦痛を強いられ次々に庄内から脱走。明治14年7月当時、開墾事業に着手していた名簿には、元新徴組の隊士はわずか11名しか記載されていないという。(※このDscn3655項目は関係資料から引用)。

     「新選組」に比べ「新徴組」は知名度が低く、いずれ歴史から消え去る運命にあるのか。わずかに「新徴組屯所跡」の碑から往時を忍ぶが、事情を 知る方も関心を払う方もいないようだ。二合半坂と目白通りの間に新徴組の屯所跡があった場所だ。

    佐藤賢一の新徴組にリンク(庄内の幕末が良く分かります)。

    地図は、「新徴組屯所跡」の碑がある千代田区飯田橋1-9-7周辺です。

    「新撰組の歌」を載せておきます。

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    2009年10月 5日 (月曜日)

    「祗圓精舎」の鐘は鳴らない

     昨日、平家物語の「祗圓精舎」のことに触れたが、この祇園精舎の鐘は鳴らないという情報があるので、ここに記しておく。(「知って得する雑学」から引用)Map  

     平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とあるが間違いだという。
    「平家物語」を気にしたことのない人でも、この下りだけはご存じではないかと思う。実は、この言葉は間違いのようだ。「どこが間違っているのか。」、それは、「祇園精舎」は、インドの舎衛城のスダーッタという大金持が寄進した精舎です。この精舎(出家修行者が住む寺院・僧院)には、お釈迦様も何度か泊ったことがあるとされ、その年代もほぼハッキリとしており、お釈迦様の生年月日は、紀元前566年頃だから、その頃のようだ。

     ところが、この時代のインドにはまだ「梵鐘」はなかったことが、インド古代史研究者達の考証によって明らかになったという。「梵鐘」がなければ、鐘の音を聞くことは出来ません。よって、「諸行無常の響き」などあるわけがないのです。それでは「平家物語」の作者は、何をもとにして有名な言葉を冒頭にもってきたのでしょうか。

     それは、唐代の進宣が著わした「中夫舎衛国祇園寺図経」に、次のようなエピソードによったのではないかとされています。祇園精舎の西北の角には「無常院」と名づけられた病僧の療養所があり、その「無常院」の四隅には頗梨(はり)の鐘があって病僧の命が、まさに終わろうとする時、その鐘が自然に鳴り出して「随行無常、余生滅法、生戚戚巳、寂滅為楽」のの四句からなる偶(げ)を説きだす・・・・・といったエピソードですが、これをもとにして「戮園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」が創作されたのではないか、とされているという。

    んー。分かったようで分からない。「祇園精舎の鐘の声」を覆すには、もっと調べる必要がある。

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    2009年10月 4日 (日曜日)

    秋の夜長は「平家物語」

    「平家物語」http://www.st.rim.or.jp/~success/heike_index.html 
    巻第一「祇園精舎」は特に有名だ。あまりにも最近の世相を語っているようで面白い。もっとも、人の世の出来事は、今も昔も、限りない人の欲から生まれた事象が殆どで、どんな立派な口実を付けても変わることはない。

     祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。奢(おご)れる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。猛(たけ)き者も遂には亡(ほろ)びぬ 偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。遠く異朝(いちょう)をとぶらへ(え)ば、秦の趙高(ちょうこう)・漢の王莽(おうもう)・梁(りょう)の周伊(しゅうい)・唐の禄山(ろくさん)、是(これ)等は皆旧主先皇(きゅうしゅせんこう)の政(まつりごと)にしたがは(わ)ず、楽しみをきは(わ)め、諫(いましめ)をも思ひいれず、天下の乱れむ(ん)事をさとらずして、民間の愁(うれ)ふ(う)る所を知らざッしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。近く本朝をうかがふ(う)に、承平(しょうへい)の将門、天慶(てんぎょう)の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、是等はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まじかくは六波羅の入道(にゅうどう)前(さきの)太政大臣、平(たいら)朝臣(あっそん)清盛公(きよもりこう)と申しし人の有様(ありさま)、伝へ(え)承(うけたまわ)るこそ、心も詞(ことば)も及ばれね。

    【口語要約】
     この世に永遠なるものなどない。世の中はたえず変わっていくもの。そのように祇園精舎の鐘は響いている。権勢を誇る者もやがては滅んでゆく。ましてや贅沢三昧に酒色に夢中になる者の、そうした人生は長く続かない。それは全く、最もな事であり、春の一夜の夢と同じだ。まさに風に漂う塵のようなものだ。・・・・中略・・・・・近くは日本を見れば、承平の乱で平将門が世を乱し、天慶(938~947-承平の後、天暦の前の朱雀・村上天皇の代)の純友、康和(1099~1104-承徳の後、長治の前で堀河天皇の代)の義親、平治(1159~1160-保元の後、永暦の前で二条天皇の代)信頼など、傲慢な心や荒々しい行動は、いろいろ様々であった。最近の清盛という者も奢りや高ぶり、そしてその圧政は想像できない程で、筆舌につくしがたいほどに凄まじいものだ。

     秋の夜長には、時にはいにしえの文章に触れるのもいいものだ。

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    2009年10月 3日 (土曜日)

    「単純接触効果」とは

     前回「メガネの21」の紹介の項で、「職場恋愛~結婚の奨め」に関して紹介したので、これを心理学からも勉強しておきたい。まずは、心理学でいう「単純接触効果」は、繰り返し接すると好意度や印象が高まるという”くり返しの出会いの効果”であるOnet 。つまり、同じ職場で男女が接触していれば、ルックス等の表面的な魅力より、内面的なものに大きな魅力を感じるようになるという効果だ。
     「第一印象が悪い」、「外見が今一」、「口下手」等の劣等感があっても、内面をみせてチャンスがあるということだ。男同士でも、「第一印象はあまり良くなかったが、話してみたらいい奴じゃない」、ということも良くあることだ

     「単純接触効果」は、1968年、アメリカの心理学者、ロバート・ザ イアンスが論文にまとめ知られるようになった。何度も見たり、聞いたりすると、次第によい感情が起こるようになってくる。たとえば、よく会う人や、何度も聞いている音楽は、好きになっていく。
     これは、見たり聞いたりすることで作られる潜在記憶が、印象評価に誤って帰属されるという、知覚的流暢性誤帰属説で説明されている。また、潜在学習や概念形成といったはたらきもかかわっているとされる。図形や、漢字、衣服、味やにおいなど、いろいろなものに対して起こる。広告の効果も、単純接触効果によるところが大きい。CMでの露出が多いほど単純接触効果が起きて、よい商品だと思ったり欲しくなったりするのである。(百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

     次に、社内恋愛の経験者に、2008年5月オリコンが行った社会人対象のアンRケートでは、メリットは「いつでも近くにいられる」という回答が一番多いという。■社内恋愛のデメリットの1位には、
    ○別れる事になった場合「その後の仕事に影響が出ないか心配」。毎日顔を合わせることから「気まずくなりそう」。
    ○男性では彼女から「行動を監視されている気がする」。
    ○女性では「会社に発覚した時の事が心配」といった意見がある。
     これは、「どうしても恋人同士という目で見られてしまう」ということから、周りに「あまり知られたくない」と思う女性が多いようだ。中には「相手を好きな人が他にもいて、恋のバトルに発展する」こともありそうだ。という。

     また、社内恋愛のメリットとして、■性格や人柄をいろいろな角度から観察できる。■話題に困らない。■デートの時間を合わせやすい。■忙しくて会えなくても理解してもらえる。■毎日会える。■仕事のモチベーションがあがる。などのメリットがあるという。

     

    Canvas

    上の表は2008年5月オリコンが社会人対象のアンケート結果。

     私もこれらの心理を応用して、結婚前に一度くらい経験したかったが、残念なことだ。だからといって、今、経験したらそれこそ事件だ。
     ただ「単純接触効果」には異論もあって、いつも接触していると、どんどん嫌いになるタイプもいるから、この効果も単純ではないと思っている。

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    2009年10月 2日 (金曜日)

    社内結婚率6割の会社

     社内結婚率6割の会社があるとして、9月29日(火)スーパーJチャンネル「テレビ朝日」で広島「メガネの21」が紹介された。
    住所:広島県広島市西区己斐本町2-18-8URL:http://www.two-one.co.jp/a21/
    メガネの21」創業者は平本清氏自身だが肩書きは専務だ。

    メガネの21」のことは、以前「カンブリア宮殿」(テレビ東京系)でも紹介されていた。News200907291113161
    ■会社にお金は残さない。社員とお客に還元する。ボーナス500万の社員もいる。
    ■社員が株主。銀行から金は借りない。
    ■社長は名誉職として交代制。
    ■つがい制度(職場恋愛~結婚の奨励)。
    ■ムダを省くため管理職は置かない。
    ■情報を社内ネットで公開し人事評定から「悩み相談」までこなすという。
     とにかく徹底的に風通しのいい職場づくりをして、社員のやる気を引き出している。
     今回「テレビ朝日」で紹介されたことは、社内結婚を奨励する「つがい制度」だった。
     例として、ある女性社員が同僚に、同僚社員の「○○さんがステキ」という話を聞いた社員は、直ぐに、平本専務に報告する。すると「あの二人なら似合いでは」と、平本専務は早速、二人が交際出来るようにし向けるという。そして、社員同士で夫婦になると、二人で店を持つことができる。また「夫唱婦随の商売は必ず成功する」という。平本専務が社内結婚を薦める理由は、経営上のことだけではなく、若い頃は将来に不安を持っていて、「会社を経営するようになったら、まず、社員を幸せにしよう」、と思っていたからだという。つまり、「社員の幸せを追求したら、社長も成果主義も不要になった」と・・・・。

      近年、男女の機会平等が進み、あらゆる職場で女性の比率が高くなっているが、必ずしも社内結婚の率は上がっていないという。社内恋愛のデメリットには、別れる事になった場合、その後の仕事に影響が出ないか心配。毎日顔を合わせることから「気まずくなりそう」。
     男性では彼女から「行動を監視されている気がする」などの意見があるというが、このような弊害を払いのけて、「メガネの21」の平本専務は自らキューピット役を演じている。とにかく素晴らしい。

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