« フィルタ付きアクセスカウンター | トップページ | 餃子の王将の『餃子試食券』 »

2009年9月18日 (金曜日)

酒田の「南洲神社」について

 郷里、庄内・酒田に西郷隆盛を奉った「南洲神社」が、何故あるのかは余り知られていStory02_ph06_2 ない。今回は、なぜ酒田に「南洲神社」があるかと、「西郷南洲遺訓集」についてご紹介したい。

 庄内藩の始まりは、徳川家康の側近「徳川四天王」の一人・ 酒井忠次だ。鶴ヶ岡城には、第3代藩主・酒井忠勝の時に入り、以後、明治にいたるまで酒井家が庄内を治めた。幕末には、庄内藩は、会津藩と並ぶ佐幕派の双壁といわれ、混乱が続く国内の治安維持のため、庄内藩は「江戸市中取締り役」を勤め、鳥羽伏見の戦いの切っ掛けになった「江戸三田の薩摩藩邸焼き討ち」を行い。戊辰戦争が始まってからは、江戸城無血開城、会津落城後も秋田方面や新庄方面で、果敢に新政府軍と戦い続け、藩内に一兵も入れない程、百戦百勝の強さだった。しかし、いかに庄内藩が孤軍奮闘しようと奥羽諸藩は次々と降伏し、勝勢は明らかだった。

 庄内藩は、新政府軍から藩主・酒井忠篤(ただずみ)の切腹を含めた、過酷な条件が提示されることを覚悟しながらも降伏を決定した。庄内藩の降伏を受けたのは、庄内方面司令官の薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)だ。西郷から指示された黒田は、実に寛大な降伏措置を取った。会津の23万石から3万石削減に対し、庄内藩は17万石から12万石に減じただけだった。この寛大な処置に感激した藩主や藩士らは生涯西郷を慕うこととなり、藩主自ら鹿児島の西郷の元へ教えを請いに出向くなど、庄内藩士と西郷の交流は長く続くことになった。

 明治3年には、旧庄内藩から選抜隊70余名を鹿児島へ派遣し3ヵ月間留学させた。明治10年の「西南の役」では、西郷とともに戦った庄内藩士からも戦死者を出したほどだ。以後、賊軍の将となった西郷は官位を剥奪されたが、明治22年2月、明治天皇の大日本憲法発布記念の恩赦により、正三位として名誉回復を果たした。その恩赦運動の中心は庄内藩の人々だったと言われる。西郷隆盛の語録をまとめた「西郷南洲遺訓集」(岩波文庫)は、西郷の著作ではなく、明治3年庄内藩主、酒井忠篤らが鹿児島を訪ね、寝食を共にして直接教えを乞いたときの、西郷の言行をまとめたものだ。この遺訓集は、私がかつて「南洲神社」を訪問した際は無料で頂くことができたが、最近のことは知らない。
   
 荘内南洲会:酒田市飯森山2-304-10 TEL0234-31-2354
http://www1.ocn.ne.jp/~x48ue66i/data/frame.htm

「徳の交わり」説明板から引用
西郷隆盛(南洲)と菅実秀(臥牛)が対話しているこの坐像は、7k 鹿児島武西郷屋敷において両翁が親睦を深め「徳の交わり」を誓いあったことを記念して製作したものである。 庄内藩は戊辰戦争で官軍に激しく抵抗したため厳しい処分を覚悟していたが、南洲翁の公明正大な極めて寛大な処分となった。この南洲翁の大徳に感じ臥牛翁は明治8年自ら旧庄内藩士と共に訪鹿して南洲翁の教えを受け後に、その教えを受けた人達の手記を集め「南洲翁遺訓」を発刊した。旧藩主酒井忠篤公は数名の人を各地に行脚させ全国に頒布した。南洲翁の偉大さに傾倒し生涯のすべてを尽くされた荘内南洲会の創始者である長谷川信夫先生の遺志を継ぎ、今庄内の一角に両翁の遺徳を偲び、不易の教訓である「敬天愛人」の精神を永く後世に伝えるため、有志相諮り浄財を募り対話の坐像を建立した。
      平成13年9月吉日  財団法人 荘内南洲会

 これらのことは、西郷隆盛ファンの方々も殆ど知らないので、教えると感心される。

|

« フィルタ付きアクセスカウンター | トップページ | 餃子の王将の『餃子試食券』 »

10 酒田市の関連情報」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1208592/31459946

この記事へのトラックバック一覧です: 酒田の「南洲神社」について:

« フィルタ付きアクセスカウンター | トップページ | 餃子の王将の『餃子試食券』 »