カテゴリー「15 戦争記録「ビアク島」」の5件の記事

2014年12月27日 (土曜日)

「ビアク島からの生還」13_14_15_16_17_18

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊
 
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5

 この戦争体験記「ビアク島からの生還」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長「渋谷惣作」の実録です。今回は「13 白い犬(幻を見る)14 捕虜になる 15 米軍野戦病院16 帰郷(遊佐町~野沢) 17 戦友の実家 18 あとがき
 元・遊佐町議員議長石垣祐治氏の寄稿文まで全て掲載。
 数年前にネット配信を中止していたが、ねずさんこと小名木善行さんが 「ビアク島の玉砕戦 」のタイトルで紹介されていたことを知り再配信した。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1467.html

13 白い犬(幻を見る) 
 「俺は必ず生きて帰り、この惨状を祖国に伝えよう」と決意し立ち上がった。
 その時であるスピッチに似た白い小犬が50メートル程先を走っているではないか。
「この辺りに部落でもあるのか」と思い、その方に歩いた。
犬は山の木立をぬって走る。犬が見えなくなった所まで行くと、又、犬の尻尾が見えた。
 こんなことを幾度も繰り返し、何日犬の案内で歩いたか分からないが、広い原っぱに出た。そこは軍属が自活のために作った農場だった。
  小さなトマトが鈴なりに実を付けていた。夢中で食べた。
 食べながら辺りを見渡すと小さな小屋があった。
 恐る恐る近付くと人が居た。  
 一瞬びっくり、相手もびっくり、お互いに日本兵と分かると笑顔になった。
 「何中隊だ」と尋ねる。
 「歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵だ」と名乗った。私も同様に名乗った。
 初めて出遭った二人は、これ迄の出来事を色々語り合った。
 苦しみは分かち合うことで半減するというが、今の二人はそれであった。
 「俺達は、何処に養子に出ても勤まるな」等と久々に笑いが出た。
 又「どんなに肉体的苦しみには耐えることが出来ても、孤独には耐えられないことが分かった」などと語り合った。
 それからは同じ苦しみを知る友を得た喜びに、勇気百倍の心境であった。
 以後、泉田源吉上等兵(岩手県鳥海村出身)とは捕虜になるまでの約1か月間行動を共にした。
 二人は疲れ果てやせ衰えていた。
 ただ若さが持つ生命力だけを頼りに生きていた。
 それにしても、あの「白い犬」はどうしたのだろう。
 以来見かけることはなかったが、私は今でもあの「白い犬」は粕谷達の化身だったと信じている。

14 捕虜になる
 昭和19年10月始めのことだった。
 歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵と私は、栄養失調でやせ衰えた体で発電所のゴミ捨て場を目指していた。
 6尺棒にもたれつき中風の人が歩くような二人に、後方から「ヘィ・ヘィ」と敵兵の甲高い声がした。
 驚いて立ちすくんだ。
 戦う気力も、走って逃げる体力も残っていなかった。
 二人は重病人が支えられるように簡単に捕まりジープに乗せられ、いつか私がパンを盗みに入った発電所に連れて行かれた。
 発電所の一室で椅子に座らされ、銃を構えた四人の敵兵に囲まれ黙っていた。
 当時の軍人は「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」と教えられ、捕虜になるくらいなら潔く死ぬことを美徳とされていた。
 しかし動物同様の生活を余儀なくされ、軍人としての誇りも人格も失った今この時に、
それを期待することは無理なことであったと思う。
 我々がいる部屋に、黒々とした頭髪の日本人の顔だちをした体格の良い青年が入って来た。
 米軍の通訳であった。
 まず我々二人に、「長い間ご苦労だったね」と労いの言葉を掛けて来た。
 何年間も荒々しい軍隊言葉に馴染んでいた我々にとって、通訳の日本語は初めて耳にする優しい言葉であった。
 まず名前を書かされ、「所属部隊は」「兵隊に来て、家庭では扶助料を貰っているか」
 「島には何人位の日本兵が残っているか」等と聴取された。
 私は「他に日本兵は見ていない」こと等を説明した。
 通訳の青年も自己紹介した。
 「父は青森、母は京都生まれです。名古屋に住んでいましたが、ハワイに移住したそうです。私はハワイの日系二世で、戦争開始と同時に徴用され戦地で通訳をしています。」
「私には祖国が二つあると思っています。」「いずれが勝っても負けても辛い立場です」と語った。
 私は無言のままうなずいた。戦争がもたらす悲劇にはこのような所にもあることを知った。通訳は重ねて言う、「あなた方の体が元に戻るには、2・3年は掛かるね」。
その同情の言葉に頭が下がった。
 事実、体力に自信が持てるようになるまでに、それから約3年の歳月を要した。

15 米軍野戦病院
 5日間位して、我々二人はビアク島の飛行場からニューギニア島の、ポーランジーに移されることになった。
 簡単な診察を受け、更に飛行機でオーストラリアの、ブリスベン町に連れて行かれた。
 今度は全身をくまなく診察され看護婦二人の付き添いで、ヘイという町の陸軍病院に列車で行き入院させられた。
 白い敷布の上にゴムに似た感触の敷布を敷かれ、その上に寝かされた。
 お湯で体を拭いてもらい、更に白い粉でマッサージをしてくれた。
 終わると「ミスター渋谷、ノーめし」と言われ、今日は食事がないことを知らされた。
 その時、「渋谷、渋谷」と呼ぶ声がした。
 誰が呼ぶのかと回りを見渡すと病室には、20台位のベットが並んでいた。
 起き上がり、声の方のベットに歩み寄った「誰だ」と尋ねると「粕谷だ」と応えた。
 粕谷は地雷で戦死したのにと思ったが、同じ中隊には「粕谷」姓は二人いたことに気付いた。 「辰治か、良く生きていたな」と抱き合った。
 粕谷辰治一等兵(山形県温海出身)は4か月前、病に倒れた佐藤中隊長の看病を頼みジャングルに置いてきたのであった。
 「生きていて良かったな」と言っては男泣きした。
 「佐藤中隊長はどうした」と聞くと、マラリアと下痢で死んだと言う。
 中隊長は「渋谷達は必ず探して帰って来る」と信じ、けっして動かなかったと言う。
 最期まで我々を信じて死んだいった佐藤中隊長を思うと、胸の詰まる思いがした。
 同じく中隊長に付き添っていた加藤友治兵長は、水を汲みに行ったまま帰えらなかったこと、粕谷自身も一人になり山中を彷徨中捕虜になったこと等を一気に説明した。
 私も密林の中で道に迷い、何日も探し回ったこと、他の四人も次々に戦死し一人ぼっちになったこと等を話した。
 泣きながら語り合う二人に、隣のベットの人まで一緒に泣いてくれた。
 翌日からは、食事を与えられた。お粥を少量から与えられ、普通食に戻るのまで15日を要した。
 満足な食事を取ったのは、何か月ぶりか、生きていることを味わいながら頂いた。
 米軍の我々に対する扱いは全体的に親切であり、度量の大きさを実感した。
 衛生兵であった私は、日本軍の野戦病院も知っていたが、医療設備をはじめ何もかも上回っている
 米軍の施設に、勝ち目のない戦であることを感じとった。
 この米軍陸軍病院に入院したのは、昭和19年10月10日のことだった。
 日本兵の入院患者は、我々を含め19名、退院は昭和19年12月26日であった。
 退院後はニューギニア島ポーランジァの収容所に移され、特別養生棟に入れられた。
ここには、約1千40名の日本兵がいた。
 殆どが、ニューギニアや周辺の島々で捕虜になった者で、皆痩せこけていた。
 収容所仲間とも徐々に親しくなり、日本軍の苦戦の状況、特にニューギニア周辺の島々では、殆どの日本軍は全滅していることが分かった。
 はっきりと「日本は負ける」と言う者も居た。
 しかし、このような言葉は、当時禁句であったが、私も同意見だった。
 捕虜生活は、帰国する昭和21年3月末まで、約1年5か月間続くことになった。
 その間、私は大工の腕を生かし、「木工班」で玩具作り等して、一日3ペンスを貰った。
 この収入で、収容所仲間にタバコや歯磨き等を買ってやり、喜ばれたものだった。
 又、米国本土から取材にきて、「PX」という名の画報に、我々木工班の仕事振りが、写真入りで掲載されたこともあった。私も写っていた。
 昭和20年7月23日、私は満23歳の誕生日を、ニューギニア島ポーランジァの捕虜収容所で迎えた。
 二〇歳で出征し4年目、歳月の流れの早さをしみじみ感じていた。
 捕虜に、米軍から戦況を伝えられることはなかったが、終戦のことはうわさで聞こえてきた。
 広島、長崎に新型爆弾原爆が落とされたこと。
 本土でもかなりの被害があること等は、それとなく置いてあるアメリカの新聞や雑誌で知ることが出来た。
 この頃には、祖国のこと、郷里や家族のことまで心配する余裕が出てきた。
 帰還出来る日は近いと確信していた。

16 帰 郷(遊佐町~野沢)
 昭和21年1月ころ、帰国の噂が流れた。
 しかし、なかなか日程までは分からずに3月に入った。
 3月4日の点呼の時、「直ぐに帰国の準備をするように」との指示に、皆小躍りして喜んだ。
 身の回りは、いつ帰国しても良いように整理しておいたが、いざ帰国となると、今までの苦しかったことが走馬灯のように思い出し、この地も思い出深いものに思えた。
 迎えに来た船は、「第一大海丸」であった。
 この船は、まずオーストラリアのシドニー港で、アッツ島(昭和19年5月29日玉砕)の残   留兵を乗せ、次に我々が居る、ポーランジァのフンボルト湾に立ち寄ったのであった。
 昭和21年3月4日、第一大海丸は我々1千40名の日本兵を乗せ、祖国に向けて出航した。
 ドラの音が高らかに鳴り響き、ニューギニア島を後にした。P_001
  戦友の顔が次々に浮かんでは消えた。
 島影が見えなくっても、何時までもその方向を見ていた。
 そして、出征からの4年半、余りにも失ったことが多かったことばかりを考えていた。
 祖国に向かう航海は順風満帆であった。
 南方に向かう時は、何時、魚雷攻撃や空襲があるかと、緊張の連続の船旅であったが、終戦から半年を経た今は、すっかり平和を取り戻した大海原であった。
 それにしてもあの大兵団、大船団が1年程度で消えるように全滅してしまうとは・・・・
 この戦争とはなんだったのだろう。
 凄惨さと虚しさだけを残したこの「戦争」と言う二文字を、どう理解すれば良いのか、
 私のような一兵卒には整理も説明もつかなかった
 昭和21年4月3日、約1か月掛けて浦賀港に入港した。
 入港してから半日もしてから上陸した。浦賀に上がった我々は、士官学校跡に2~3泊してそれぞれの故郷に向かった。
 帰り際に支給された物は毛布を3分の1に切ったもの1枚、更に、我々東北出身者にはカンメンポウ(食パン)2袋、北海道出身者には白米3合とカンメンポウ3袋を支給された。
 その支給品を毛布に包み縄で縛り列車に乗った。列車の窓は破れて窓から乗り降りする人もいる。
 列車内では朝鮮人の横暴な振る舞いが目に付いたが、戦地帰りの我々はじっと耐えるだけだった。
 負けた国の悔しさが込上げてきた。
 戦地に向かう前と比べ、人々の動きしぐさに明らかに変化を感じとれた。
 顔からは笑顔が消え、歩く姿からは活気を失っていた。
 列車は、いよいよ羽越線に入り日本海沿岸を走り始め、見覚えのある景色が広がって来た。私は海寄りの席に移り、一人で座りながら久しぶりに見る日本海の景色に見とれた。
祖父の生家、府屋駅近くの海沿いの村、中浜も、以前と変わらぬ様子に安心した。温海あたりまで来ると車内もユッタリしており、車内では母の歳に近い女性達が、懐かしい庄内なまり言葉で会話を始めた。
 いっそう故郷が近いことが嬉しく思えた。
 そのうち列車は庄内平野に入り、周りには田植え前の田園風景と、遠くには残雪を残した鳥海山がはっきりと見えてきた。
 生家の野沢村は、鳥海山の麓である。
 あの「ビアク島」でのことを思えば、二度とこの山を見れるとは思ってもいなかった。
 鶴岡、酒田を過ぎ鳥海山はどんどん大きくなり、私は駅に着くのを待ちかねて立上がり出入口で山を見ていた。
 列車はゆっくりと遊佐駅にすべり込んだ。

 昭和21年4月6日午後3時丁度、郷里の遊佐駅ホームに降り立った。
 昭和17年11月30日この駅を一人出発し、4年半ぶりにひっそりと一人帰って来た。
 まるで浦島太郎の心境であった。
 まず、駅員が女性二人であったことに驚き尋ねてみると、戦争で男手が不足し女性駅員を採用するようになったと教えてくれた。しかし、駅も町並みも鳥海山も、どこもかしこも変っていない。本土空襲のことで心配していたが、まずは安心した。
 ゆっくりと駅前広場に出ると人の目が気になり、店先の窓ガラスに姿を写して自分の服装などを見回して見た。
 小豆色のシャツに赤色の捕虜ズボン、荒縄で縛った小荷物、髭は伸び放題、髪は肩まで伸びている。このままでは家に帰る気になれず、遊佐駅前の「石川床屋」に入った。
 すると、客の爺さんが話し掛けて来た。
  「どっちから来たでー」と言う。一目で帰還兵と分かったのであろう。
 私は「南方のニューギニアから、今帰って来た。」と答えた。
 爺さんは「ホホー良く帰って来れたのー」と感心してくれた。
 遊佐町袋地の、佐々木久三郎のお爺さんだった。
 「石川床屋」さんに、「どうぞ」と言われ、椅子に座り頭にバリカンを入れられたが、金は全く持っていないのに気付いた。
 どうするかと考えてたが、正直に「今、戦地から帰ったばかりで金を持っていない、明日持って来るから」とお願いした。
 石川さんは、「いいよ、いいよ、今日はサービスだ。長い間ご苦労さん」と言ってくれた。今思うと「面付けない」ことであったが、以来、私はこの石川床屋は行きつけの床屋さんになった。
 頭もきれいになり、母の従兄(野沢生まれ)が居る駅前の「大和屋」に顔を出した。
 「いま帰った」と玄関で挨拶すれば、「ホッホー」と驚いているばかりであった。
丁度、野沢本家「松の助」の母さんも来ており、野沢まで一緒に帰ることにした。
野沢の家までの3~4キロ位の道のりを、二度三度と座り込み休み休み歩いた。
 女の足にもついて歩けない、自分の体力が情けなかった。
「やっばり弱ってるんだのー」と言われた。4月6日午後5時すぎ、4年半ぶりに我が家に着いた。
 屋敷の入り口に立つと、母「鉄江」がサツマ芋の苗床を作っているのが見えた。
「今帰った」と声を掛けると、「惣作か、ホーお前、良く生きて帰って来れたのー」ただ驚くばかり、足元を何度も見ては、足が付いていることを確かめていた。
 この時のことは、後々まで笑い話になったが、私が生還することはすっかり諦めていた様子だった。0271
 母は手荷物を私から取って家に入った。
 祖父母も家にいた。
 タ食時には家族全員が集まり、ささやかな歓迎を催してくれた。
 周囲に身の危険を感ぜず、気を遣わずにする食事は久し振りだった。
 帰ったら、あれも話そう、これも話そうと思っていたが、何から話せばいいか分からなかった。弟や妹の成長ぶりには驚いた。
 逆に家族から私を見れば、その変化にも驚いたことであろう。
 私も20歳で出征し、幾度も死線を乗り越え生還した時は25歳近くになっていた。
 更に、容貌を変化させていたのは、栄養失調で60数キロあった体重は半減し30数キロ、まるで骨と皮の状態であった。

17 戦友の実家
 家に帰り、気持ちが緩んだのか翌日に少し熱が出た。
 三日熱マラリアである。熱が上がり悪寒が激しく、震える病気である。
 妹達が付きっきりで看病したらしく、気が付いたら二人とも枕元にいた。
 余りの熱と上言に驚いたのは親達で、「せっかく帰って来たのに、ここで死なれては可愛そうだ。」と言いながら「村上医者」を呼んだそうだ。
 40度の高熱が続き顔は真っ赤になっていたという。
 三日熱マラリアという病名のとおり、3日も経ったら熱も下がり平常になった。
 油汗を流し上言まで言っていた病気が嘘のように治った。
 祖母が声を掛けて来た。
 「お前はずいぶん上言を言ってたが、粕谷って何処の人だ」と言う。
 「そうだったのか」と思った。
 粕谷博は、最後まで一緒にジャングルを共にしたが、最期は目の前で地雷で戦死している。私の生還の陰には、戦友の死という切ない事実があり、どのように粕谷の実家に報告しようかと、ずうーと悩んでいたことだった。それが上言になったのであろう。
 あの時、発電所に行き地雷に触れることが無かったら、一緒に郷里に帰り、本当の兄弟のように付き合えた男だった。
 「俺だけ帰って来た。」等と、どうして粕谷の実家に行けよう。
 しかし、祖父母に「早く行った方がいい、だんだん行きにくくなる」と諭され、妹二人に引かせたリヤカーに乗り、約6キ口離れた上藤崎の粕谷の家に向かった。
 せめて、戦死した際、持参軍票に包んだ小指の爪を遺品として持参したかったが、
 捕虜になったとき、所持品は全て没収されてしまっていた。
 粕谷の両親に、事の次第を話した。
 きっと息子の生還を期待していたろうに、私に最期の様子を聞いて、きっと無念だったに違いない。
 しかし、額きながらも気強く話しを聞いてくれた。
 粕谷の母が「不思議なことがあります」と教えてくれた。
 「4月7日夜は、障子の戸がサラサラ音がし、なぜか博が帰って来るような気がした」、
「ついさっきは、玄関で「オー」と博の声がしたので玄関を見たが誰も居なかった。
驚かすつもりで隠れていると思い、玄関に出て「博、博』 と呼んだ。」と言う。
 これらの出来事は、日にちと言い、その時間といい、私が上言で粕谷の名前を呼んでいた時間であり、又、私がリヤカーで粕谷の家に向かっている時間である。
思えば、山中で虫の息の粕谷を抱き「お前は藤崎だな、一緒に帰るぞ」と何度も叫んだ。
粕谷はただ首を縦に振るだけだったが、私に自決を思い止まらせ、以来、その魂は私に付いて来て守り通してくれたのだと思った。
 そう言えばあの時の「白い犬」は粕谷の化身だったのか。
鈴なりのトマト畑に私を案内し、泉田源吉上等兵と出会わせたことも、みんな粕谷の御霊のなしたものだった。と私は信じている。
 私は毎年9月の粕谷の命日には、実家を訪れ仏壇にお参りをしている。
 しかし、位牌には「昭和19年6月没、粕谷博之霊位」とある。
 公報は、何を根拠にその日を戦死としたか知らないが、戦死したのは、昭和19年9月上旬であり、最期を看取ったのは私である。

18  あとがき
  この手記の元となった記録は、ビアク島から帰還後、5ヶ月位たち、やっと生気を取り戻した昭和21年夏頃に記録したものです。(下段に一部ご紹介)
忘れないうちにと、出来る限り正確に記録したつもりです。
これを久しぶりに読み返すと当時のことが、昨日のことのように蘇って来たのです。
 あの頃は、まだ記憶に新しいうちに、正確に書き残しておきたく、次々に思い出される苦しみの数々や上官や戦友の姿、そして戦場の悲惨な状況を、脳裏に浮かぶがままに記録したものでした。
その断片的な記録をつなぎ合わせて整理したのが、この記録です。
今思えば、戦友らの名前等を、もっともっと記憶しておき記録しておけば良かったのにと思っていますが、出来る限りの名前を記載してあります。
 もっとも、読み返すと稚拙な内容ですが、
この記録により、少なくとも私しか知らない戦友の最期の様子を、遺族の方々に伝えることが出来るものと思いますし、又、何かのご縁でこれを読まれた方々には、その当時の20歳前後の若者が、奇しくも遭遇してしまった戦争のことを、多少でも知って頂きたいものです。

■第36師団224連隊第1中隊所属
                    元・遊佐町議員議長  石垣 祐治
 第36師団、通称「雪部隊」は、東北六県出身者を基幹とする部隊で編成されていた。
 したがって、朴納で粘り強い東北人特有の性格を持ち、戦闘においては勇猛果敢、しかも困難に絶える強靭さを有する精鋭なる師団として軍部に認められていた。
 隷属部隊として222連隊(主に岩手県出身者)、223連隊(主に秋田県出身者)、224連隊(主に山形県出身者)の3個連隊に加え、特科部隊が配属されていた。
 山形県出身の渋谷惣作氏が、大部分が岩手県出身者の222連隊に配属されたのは、職業としていた大工の腕を見込まれ、工兵隊という特科部隊に配属されていたからと思われる。そして、ニューギニア島北西部に位置するビアク島派遣となることは、運命というものであろう。
 さて師団の隷属部隊であった歩兵第222連隊(連隊長・葛目直幸大佐)及び直轄部隊の一部は、「ビアク島」派遣ということになり、昭和18年12月24日、洋上において師団長の指揮を離れ、ビアク島に上陸、第2軍の指揮下に入る。
 その数約一万人であった。
 しかし、米軍も戦略的にも要衝にあるビアク島を黙って見てはいなかった。
 大飛行場の建設に適し、日本軍陣地を攻撃できる好位置にあることに着目したマッカーサーは、日本軍上陸の約5か月後の昭和19年5月27日、ついに米軍1個師団で「ビアク島」に上陸を敢行、激しい戦闘となり、昭和19年7月2日には連隊長の葛目大佐が自決 して、終戦まで生存せる者僅か1パーセントに満たない88名、正に生き残った者は奇跡であった。南浜のリーフの島「ビアク島」で、米軍との間に死闘を繰り広げた1万有余の日本軍将兵、その大部分が還らざる人となったが、わずかな生存者の一員として、ひっそり復員した渋谷惣作氏、戦後半世紀を経た今日、その感慨はいかばかりなものであろうか。
 願わくば、今後益々長命を保たれ、平和の守護神として我らを見守られんことを切に願望する。

|

2014年12月26日 (金曜日)

「ビアク島からの生還」9-10-11-12

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊
  http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5_2

この戦争体験記「ビアク島からの生還」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長「渋谷惣作」の実録です。
 今回は「9:ジャングルから野戦病院へ10:工兵中隊の全滅
           
11:ジャングルの彷徨            12:戦友の死

9 ジャングルから野戦病院へ
  我々は、夜になっても洞窟から外に出ることが出来なかった。
 敵は海岸沿いにテントを張り、何台も高射砲を取り付け始めていた。
 他の部隊はどうなっているのか、特に、工兵中隊の仲間はどうしているのか気になった。洞窟の中から時々外の様子を伺いながら、3日目を迎えた。
 体に入れるものが水だけのせいか、皆下痢に苦しんでいた。P_71
 仲間の救援は望めず、いずれ敵に発見されるか餓死すると判断した我々は、一か八か洞窟を出て、ジャングルから迂回し、工兵隊がいる洞窟に向かうことにした。
 洞窟の上は崖になっており、裏手はジャングルの小高い山になっていた。
 我々は3人一組で、裏手のジャングル内に一旦退却し、別々に約2キロ離れた工兵中隊の本隊で合流することにした。
  同年5月29日午後は、外から聞こえて来る銃声もなく、浜辺も静かな様子なので、鎌田分隊長は、門山政明上等兵に外の様子を確認して来るように命じた。
 瓦礫の山になった洞窟を走り出た門山上等兵は、直ぐ外の様子を確認して戻り「誰もいないです」と押し殺した声で応えた。直ぐ鎌田分隊長は立ち上がり、「これからは3人一組で行動する。何処に行くにも離れるな・・・・・」と繰り返し、ジャングルの山に駆け登った。それが鎌田分隊長達との最後の別れでもあった。
 私と門山、瀬戸山の3人は、最後に崖をよじ登った。
 しかし、あとわずかで登りきろうとした時、敵兵に発見され背後から機銃掃射を受けた。瀬戸山がやられた。我々は、瀬戸山を引きずりながら、必死になって登り切った。しかし、腹部貫通でどうにもならず、自決用の手榴弾を瀬戸山に渡して門山の後に続いた。
 あとは腹をすかしていたことも忘れ、懸命に逃げた。
 二人は、ジャングルの中を二昼夜さまよい野戦病院にたどり着いた。
 米軍の攻撃に備え野戦病院を、ジャングル奥地に移したことは知っていたが、その野戦病院に偶然たどり着いたのである。私と門山は、4・5日ぶりに食べるお粥に涙した。我々は怪我と下痢で衰弱し切っており、その日は野戦病院の世話になることになった。
 この頃、工兵中隊の本隊も全滅の危機を迎えていた。000000009869
 ここで、田村洋三著「玉砕・ビアク島」に、工兵中隊に関し記載されている箇所をそのまま抜粋する。
 「6月31日は須藤第三大隊による白昼戦が主で、午前9時に迫撃第三中隊の千田小隊と吉本小隊はマンドン付近の敵迫撃砲陣地に、同10時ごろ配属の工兵中隊(佐藤長平中隊)の沢田小隊と第三六師団海上輸送隊の辛川小隊はふただびマンドン付近に、正午ごろには亀井第十中隊の宮坂小隊がイブディ付近に、それぞれ攻撃を加え相当の戦果を挙げた。」
 と唯一工兵中隊に触れている。Biak_map_2
  部隊本部の命令受領者であった松田軍曹、高橋澄上等兵が、部隊本部のある「西洞窟」に行ったが共に戦死したとの報を知り、私は野戦病院から工兵中隊本部に向かった。
 工兵中隊本部に、ジャングルを抜けてようやく辿り着き、上官に簡単にこれまでの状況を説明した。そして、敵上陸から5日目にして、工兵中隊で生存が確認出来た者は百名足らずであったことを知った。
 約2百30名の工兵中隊は、半数以下となっていたのである。
 本隊と合流し半時も経たないうち、「中隊長から戦死した松田軍曹、高橋澄上等兵に代わって、渋谷兵長と大屋軍曹は、中隊付命令受領者として申告するように」と下命された。
 さっそく連隊本部のある西洞窟に、中隊付命令受領者として申告に向かった。
 この頃から約一か月間、私は中隊付命令受領者として、「西洞窟」や中Nisi_image1隊本部がある洞窟で殆どを過ごすことなる。又、衛生兵を兼ねていた私は、負傷兵の看護を担当していたが、十分な医療設備や医薬品がある訳でなく、目の前で次々に苦しみながら死んでいく仲間を何人も看取ることになった。
 屍は埋葬する余裕も体力も無く、ただ洞窟から引きずり運び出し、その辺りに野晒しにした状態であった。工兵中隊がほぼ壊滅したのは昭和19年6月末、敵がキャンプ地としていたマンドン攻撃であった。洞窟に運び込まれた負傷兵から、工兵中隊・荒井平八郎小隊長の戦死の状況を伝えられた。
10 工兵中隊の全滅 
 敵は樹木の上にやぐらを組み、機関銃を据えて雨嵐のように撃って来たという。
 二日間の攻防も空しく、荒井平八郎小隊長は「中隊長殿、荒井小隊前進不可能」と叫んだ。
 その声に中隊長は「馬鹿者、突撃・突撃」と軍刀を振り上げ、怒鳴った。
 仕方なく前進する工兵隊は、機関銃の格好の餌食となり、バタバタと倒れ全滅した。
 しかし、その後方にいた中隊長は死を免れたという。
 何とも割り切れないことである。
 この激戦の中には、私と同期生の酒田市飛島勝浦「なごし旅館」の分家にあたる、小隊長当番兵、鈴木芳郎上等兵がいたが、頭部貫通で即死した。
 この戦いから数日後の、昭和19年7月2日、葛目部隊長(当時・大佐53歳)は自決し、その後は本国との通信は途絶し、我々は死を待つだけの部隊となった。
 岩手県一の関出身の、当時当番兵だった上関義一軍曹は、自決当時を述懐し、葛目部隊長は、副官と旗手の久村少尉と支隊本部付きの崩市太郎曹長を側に呼び、上関には「長い間お世話になった。君は必ず生きて帰り、四国高知(長岡郡)の実家にこの事を伝えてくれ」と話し、副官には「部隊長自決のことは誰にも知らせるな、以後の戦闘はゲリラ戦に転換するように」と指示、旗手の久村少尉には、「軍旗を焼いて敵には渡すな」等と言い残したという。
 軍旗は、天皇陛下から各連隊ごとに直接手渡されたものであり、それを敵に渡すことは、どんなことがあろうとも許されることは無かったのだ。また、部隊に万が一の場合は焼却する建前であり、これを奉焼(ほうしょう)と言い、奉焼した部隊長は責任をとって自決することが不文律であった
 葛目部隊長自決の日を境に、連隊本部からの命令は全く無かった。
 それからは生きている者同士、ジャングルの中を彷徨い歩くだけだった。
 敵に出会えば交戦し、その度に仲間は減っていく。
 今度こそ自分の番と幾度も死を覚悟したが、幸か不幸か生き続けた。
 昭和19年7月中旬頃、生き残っていた工兵中隊は26名、無傷の者はたった8名であった。
 我々、工兵中隊最後の戦闘は、昭和19年7月中旬頃と記憶している。米軍が、爆弾で壊れた飛行場整備に、戦車を先頭にトラックが骨材を満載して来るところに、生存者26名で肉弾攻撃を仕掛けたのである。我々は、攻撃直前に一升瓶に半分ほど残った酒を全員で飲み交わし、敵の戦車やトラックに蹄型式地雷を踏ませて爆破攻撃するために、飛行場に通じる道路脇のジュングル両側に潜んだ。しかし、一斉の攻撃もたいした戦果を上げることはできず、戦車やトラックの上から機銃掃射を受け、戦友はバタバタ倒れた。
 我々は死に場所を求めていた。(●はここで戦死)
 ここで当時の生存者と、肉弾戦参加者を記憶の限り記述する。
○ 佐藤長平中尉(士官候補生、大正10年生まれ、福島県国見町出身)
● 近藤   軍曹(青森県出身)
● 米谷仁吉兵長(秋田県出身)
○ 加藤友治兵長(秋田県出身)
○ 渋谷惣作兵長(山形県出身)・・生還
● 小原俊郎上等兵
● 滝島   上等兵
○ 阿部文治上等兵
● 大平盛雄上等兵(岩手県出身)
○ 千葉幸一一等兵(岩手県一関出身)
○ 粕谷(生還後三浦姓)辰治一等兵(山形県温海町出身)・・生還
○ 粕谷 博一等兵(山形県遊佐町藤崎出身)
● 安藤嘉吉一等兵
● 下坪清太郎一等兵(岩手県出身)
● 水平正治一等兵
○ 熊谷正蔵上等兵(岩手県花巻出身)
あと10名の氏名は分からない。
 このとき、安藤嘉吉一等兵は、私の直近に居たが戦車砲を直撃され、一瞬にして消えるように吹っ飛び戦死した。
 私も敵に約20メートル先から機銃掃射され、咄嗟に倒木の陰に身を潜めたが、その倒木は木片が砕け散るように粉々になりながらも我が身を守ってくれた。敵が通り過ぎてから弾痕を確認すると、倒木が無ければ間違いなく5~6発は私に命中していた。
 結局、この肉弾線で18人が戦死し、生存(○印)は中隊長以下8名だけであった。
 ビアク島上陸当時、工兵中隊は約230名余いたのである。 
 私は、またも、幸か不幸か生き続けた。
 この頃、阿部春治兵長は捜してもいなかったが、既に捕虜になっていたことは後に分かった。
 なお、米軍はほぼビアク島を占領すると、直ちに飛行場の整備に着手していた。
 我々が上陸以来3ヶ月以上かかって、人馬を使って造った約1キロの滑走路であったが、米軍はたったの数週間でブルドーザーを何台も使い、更に鉄板等を効率よく使い、3倍以上の長さに整備したのである。この辺りにも、彼我の戦力差の大きさを、思い知らされたものだった。

11 ジャングルの彷徨 
 工兵中隊約200名は、とうとう8名に減ってしまった。
 その名は
 ○佐藤長平 中尉・中隊長(福島県国見町)
 ○渋谷惣作 兵長
 ○加藤友治 兵長
 ○粕谷辰治 一等兵
 ○粕谷 博 一等兵
 ○千葉幸一 一等兵(岩手県一ノ関市)
 ○阿部文治 上等兵
 ○熊谷正蔵 上等兵
 生き残った我々8名は、来る日も来る日も山中を彷徨した。
 すでに、部隊などと呼べる姿ではなかった。さまよう目的は、単に食べ物捜しであった。
「衣食足りて礼節を知る」と言うが、今の状態は浮浪者以下、いや人間以下であった。
軍隊は、規律正しく整然と行動している時こそ強さと頼もしさを発揮するが、これを失った時は、余りにも浅ましく醜いものと思えた。
 我々は、今日を生きるようとする本能だけで彷徨する動物であった。
 異常な飢餓状態は、例外なく人間を獣に変えてしまうことを我が身を持って体験したのである。
 昭和19年7月23日、私は満22歳の誕生日をビアク島のジャングルの中で迎えた。
 既に戦火は止んでいたが、米軍は敗走する日本軍を見つけるため、明るい内は島内をくまなく捜し回っていた。
 我々は昼は山中に隠れ、夜だけ行動した。
 ここで私達が、何を食料にしていたかを説明しておく。
 ビアク島には、野生の椰子の実やマンゴー、サンゴヤシの新芽、バナナの根(大根のような味)等が、季節に関係なく植生しており、これらを手当たりに食べた。
 甘いものばかり食べると、無性に塩分を欲した。
 海水は島周辺にいくらあっても、海岸線は何処も敵がテントを張っていて昼間は行くことが出来なかったが、夜、暗闇にまぎれて海に出て海水を飲んだ。
水筒にも海水を入れておいた。
 海岸には、敵味方の腐乱した遺体が無造作に散乱し、その近くには無数の魚貝が集っていた。
 つまり、遺体は魚貝のえさになっていたのである。
 しかし、背に腹は代えられず暗闇に紛れて浜辺に出て、種々の貝を捕り、よく食したが決まって下痢をした。出来れば、焼くか煮て食べたいところだったが、火を使うことは出来なかった。
 煙が立ち敵に発見されるおそれがあったのだ。
 戦友らの名誉のために付け加えておくが、帰国後、特に帰還兵は飢餓に耐えられず、戦友の人肉を食した等の批評をされたことがあったが、そのようなこと、あり得ないことである。当時の我々軍人に、そのような発想は生まれもしないし、また、南国の気候は、遺体を1日もしないうちに腐敗させていたのだ。
 食糧調達にはこんなこともあった。
島北部、ソリド部落にはソリド川が流れており、その周辺に現地人が耕作するタロイモ畑があった。
 そのイモ掘りを計画した。つまり泥棒である。
 ところが出発の日に、佐藤中隊長が高熱を出したのでジャングルの木陰に草を枕に寝かせ、加藤友治兵長と粕谷辰治一等兵を看病のため残し、我々5人で出発した。
 この5名は
    ○ 渋谷 惣作 兵長 
    ○ 粕谷  博 一等兵
    ○ 千葉 幸一 一等兵
    ○ 阿部 文治 上等兵
    ○ 熊谷 正蔵 上等兵
 であった。
 鬱蒼とし、昼なお暗いジャングルの中を、衰弱した体を6尺棒で支えよたよた歩き続けた。帯剣も帰路の目印に、木の皮に印を付けるときや、芋掘り等に使う道具に化していた。
原住民の通る道は歩くことは出来なかった。既に原住民は敵方に宣撫され、日本兵を発見し米軍に報告すると褒美を貰っていたのだ。
 我々5名は道無き道を、帯剣で目印に木の皮を剥ぎつつ、ただ黙々と歩いた。
 藤つるや木の根につまずきながらも歩くこと二日間、ようやく目的の畑に着いた。
 月明かりを頼りに、帯剣でイモを堀り生のまま食べ、又、掘り続けていたら夜が明けた。
山の中に隠れて一眠りし、中隊長達の所に戻ることにした。
 衰弱し切った体には沢山のイモは背負えず、皆適当な量を背負い、又、木に付けた目印を頼りによたよた歩き始めた。
 皆何を思っているのか、父母・兄弟あるいは妻子のことか。
この先どうなるのか明日をも知れない命に、いつも思うことは祖国のことばかり、悔しさと寂しさが交差し、泥と汗にまみれた頬に涙が伝う。
 時おり、猿の鳴き声がジャングルの静寂を破る。
 「キキ」「ツツ」と、甲高く鳴きながら木から木へと身軽に伝う猿達を羨ましく思う。
 この島には私が見た限りでは猿が一番大きな動物であり、人を襲う猛禽類はいなかったことが幸いした。派手な色彩の極楽鳥は良く見かけ、食べ物にしたかったが、とても捕まえられるものではなかった。
 島内のいたるところに激しい戦いの跡が残っていた。
 散乱する戦友の屍辺りには、血なまぐさい空気が漂っていた。
 南国の暑さで腐敗も早く、既に白骨と化したものも多い。
 そっと手を合わせつつ、明日の我が身の姿を想像した。

 ジャングルを一日中歩き続け夜になった。
 遠くに明かりが見えて来た。
 粕谷博一等兵が確認して来て、「敵がテントを張っている。通り抜け出来ない。」と言う。
その地点を迂回しようとしたが、元の道に戻れない。完全に道に迷った。マラリヤ熱を出す者も出てきたが、お互いに助け合いながら山草、木の実等を食べながら毎夜歩く。
 そのうち、阿部上等兵の様子がおかしくなった。
 「俺の指9本しかない」とか「豆腐を食いたい」等と言い出す。
 「阿部どうした」と聞いても、ニヤニヤ笑っているだけ、何の手当てもしてやれずに、一眠りしていたら死んでいた。
 それから10日もたったろうか、今度は熊谷正蔵上等兵が動けなくなった。
 ボスネックの裏山の小さな洞窟で看病したが、2日目で死んだ。
 空腹と疲労とマラリヤ熱が重なり、皆倒れて行く。ついに3人になった。
    ○ 渋谷 惣作 兵 長 
    ○ 粕谷  博 一等兵
    ○ 千葉 幸一 一等兵
  残った三人を見れば、私が一番体力を残しているように思えた。
 私は決心した。
 「夕方暗くなり始めたら、食べ物を探して来るからお前達は、イモでも食っていろ。」と言い残し、現地人から手に入れた背負い籠を背に出発した。
 私は敵から、食糧を奪って来ることを計画したのである。
 目指した所は、米軍の屯舎内にある火力発電所であった。
月明かりを頼りに発電所に接近すると、ゴーゴーと発電音が高鳴っていた。
 背負い籠は近くに置いて宿舎の床下に潜り込んだ。5~6の警備兵しかいないことが分かった。
 床下に2~3時間潜み、敵兵が寝静まるのを待って、食堂に侵入し食パンをあるだけ盗んだ。 満月が青白く輝く夜であった。敵陣の食料とは言え、多少の良心の呵責を覚えながらも、皆が喜ぶ姿を思いつつ急いで戻った。
 3人とも久しぶりの食べ物に舌つづみを打った。
 粕谷博が声をかけて来た。
 「渋谷、俺の家は下藤崎の西遊佐小学校の角から3軒目だ。帰ったら遊びに来てくれ、今日のお返しをたっぷりするぞ。」、
 「ああ行くぞ。」と生返事をすると、千葉幸一も「そのときは豆腐をたらふく喰いたいな。」と話しに加わってきた。
 帰還できるあてなど全くない現状を、皆認識しながらの、夢のような会話であった。
 そのうち白じら夜が明けて来た。
 我々は朝日を眺めながら、今日も生き延びたことを、確認しあっていた。
12 戦友の死 
 米軍上陸から約三か月が過ぎ、昭和19年9月に入っていた。
  この頃には、日本兵の姿を見掛けることは全く無かった。
 この島には生き延びている日本兵は、我々しかいないのではないかと思うくらい、静かであった。
 その頃の我々の姿を説明する。
 私は昭和19年2月15日付で兵長任命以来、バリカンを頭に入れてなく髪は首筋まで伸び、髭は伸び放題、猿より男振りは悪い。軍服も汚れに汚れ、たまにスコールが降れば雨水で洗ったが、浮浪者よりみすぼらしい。
  栄養不足で痩せこけ、手足の骨が浮いている。
わずかに軍人と分かるのは、軍帽と腰の帯剣だけであった。3人共似たような格好である。夜は食糧探し、明ければ洞窟に潜み、祖国の話しや身の上話し、最後はやはり食い物のことである。
 これまでも草や木の実は勿論、ネズミにヘビ、トカゲ等々何でも食った。
 そのうち、二人は以前に盗んで食べた食パンの味を思い出したのか、「渋谷、三人で発電所に行こう」と言い出した。私は、前回余りにも恐ろしい体験をしたので行く気になれなかったが、空腹に負け、いつしか発電所近くに来ていた。私は道を知っているので先になって歩いていたが、粕谷がどうしたわけか横道に入って行った。
 と、そのとき粕谷が草むらに敷設した地雷の線にひっ掛かったのだ。
 粕谷の直ぐ近くで一瞬青白い煙が「ボッー」と上がった。
 私は「地雷」と叫んで伏せたが、立って逃げた二人のすぐ後で「ドカーン」と爆発した。
 千葉幸一は即死。粕谷博は虫の息だった。 
 私は粕谷の頭を膝に抱き、「粕谷頑張れ、藤崎に一緒に帰ろう。頑張れ。」と何度も繰り返したが、首を縦に振り頷くが言葉に成らない。
 腹部貫通と大腿部盲貫の重傷である。
 どうすることも出来ず30分程で死んだ。
 粕谷博の実家は、山形県遊佐町上藤崎、私の実家の野沢から約6キロの村だった。
 私は二人を並べて寝かし、草を被せた。
 とうとう一人ぼっちになった。
 爆発音で敵が様子を見に来る恐れがあったが、直ぐには立ち去りがたかった。
 草を分けては二人の顔を何度も見た。祖国に帰り、やりたいことが一杯あったであろう。
 幾度も激しい砲弾をくぐり抜け、飢えや寂しさと戦いこれまで生きた延びた二人とは、
是非、一緒に帰還したかった。良き戦友として、生涯の付き合いになったであろう。
 一人になった私は、どうすれば良いか分からなかった。
 私も自決しようと思った。
 そう思うと親、兄弟、親戚のこと、恋しい人のこと、次から次へと浮かび、直ぐには決心が付かないまま浅い眠りに入った。
 うとうとしては目が覚め、又、死ぬぞと思った。
 隣には粕谷と千葉の亡骸があった。
 一緒にここで眠るのが自然と思えた。
 このまま生き延びるより死ぬ方がずっと楽であり簡単に思えた。
 しかし、じっと二人を見ていると、二人は「生きて帰えろ、郷里にこのことを伝えてくれ、お前しかいないじゃないか。」と言った。
 言ったように聞こえた。
 夢か現実(うつつ)か分からない妄想の一夜は続いた。
 小鳥のさえずりで目が覚めた。朝日が昇りジャングルに命の息吹がまた蘇った。
 いつに無く、草木も動物も生き生きして見えた。
 今度は、何としても生きて祖国に帰り、この惨状を伝える必要があると決意した。
 私は、二人の亡骸に近寄り、二人の小指の爪をかじり取り、軍票(軍が発行した紙幣)に包んだ。

|

2014年12月25日 (木曜日)

「ビアク島からの生還」5-6-7-8

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊~
  http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5_3

 この戦争記録「ビアク島からの生還」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長「渋谷惣作」の実録です。
 今回は「5:ビアク島上陸  6:連日の空襲  7:米軍上陸  8:地獄と化した洞窟

5 ビアク島上陸
 昭和18年12月25日、我々は目的地のビアク島東南沖に到着した。
 丁度引き潮で、一キロ近くも潮が引き、波も静かな南海の孤島であった。
離れて眺める島は、エメラルドグリーンの海に浮かぶ緑に覆われた美しい島でMapoceania111_2ある。船を接岸する港はなく、島から随分離れた所に停泊する。
 さっそく、我々より早く上陸している、「海軍陸戦隊・暁部隊」の船舶工兵一個小隊による上陸用大型船艇で上陸作業が開始された。兵士・軍属約1万2千名の上陸はその日の夕方までかかり、食糧、弾薬等の荷降ろしは相当日数を要し、海上からは、連日クレーンの音が響いていた。
 ビアク島は、ニューギニア島西北部のチェンドラワシ湾に浮かぶ、二等辺三角形を左に傾けたような形をした島で、南北約20キロ、東西約12キロ、一周約60キロ、島の周りは珊瑚礁で囲まれ、砂浜には椰子の木立が豊かに茂り南国情緒が豊かであった。
 この島は赤道直下にしては住み易い方なのか、原住民パプア族も海岸沿いに海上に張り出した丸太小屋に住んでいた。
 男はふんどし、女は腰蓑を巻きつけた裸に近い格好であった。
 心配していた原住民の抵抗は全くなかった。
 また、島内の至る所に鍾乳洞があり、後に空襲時の避難や物資の保管場所、更に兵士の宿舎代わりになった。食糧となるバナナ、ヤシの実、パパイヤ等の南方の果物も豊富と聞いてはいたが、精々原住民の人数に丁度程度の収穫量であり、一度に一万人以上の兵士が上陸したのであるから、我々兵士の腹を満たすことはなかった。
 それにしても、ビアク島の原住民パプア族に対しては、食糧の確保をはじめ、随分生活を脅かしたことであろうが、当時の我々には、原住民のことまで思いやる気持ちを持ち合わせていなかった。
 我々の上陸地点はボスネックという港だった。
 港といっても、現地人がカヌーの出入りに使用する程度の、小さな入り江であったが、上陸用大型船艇を使っての上陸には一番適している所で、後に米軍もこの地点から集中的に上陸してきた所となった。
 我々「工兵隊木工班」10名は、ボートに乗り換え一足先に上陸し、葛目部隊長が休む小屋造りに取り掛かった。
 二間に三間の小屋である。その日のうちに完成させた。
 我々木工班10名は、翌日からも野戦病院をはじめ、兵士の宿舎等を次々に造り続け、大工の技術は最大限に利用された。
 次は、道路作業を開始し、ボスネック港からマンドンまでの約2キロの道路は19年2月頃までに造り終えた。
 これと並行して、ジャングル内を縦横に切り開く道路構築と飛行場工事に取り掛かり、工兵中隊(約2百30名編成)の3個小隊のうち、1個小隊は道路、2個小隊は飛行場を担当した。 
 我々、工兵中隊は昼夜の別なく働き続けた。
 又、この作業には全部隊から、将兵の別なく加わり、突貫工事で19年4月頃までに造り終えた。全ての工事が終了の日、全部隊を完成したばかりの飛行場に集め、葛目部隊長から訓辞があった。 
 「この編成を以て米英に当たるならば、米英ごときは一蹴である。」と繰り返し、爛々と輝く目で語った様子を今も脳裏に焼き付いている。
 第222連隊1万2千有余の将兵は、心ひとつになっていた。

6 連日の空襲
 昭和19年3月ころ、部隊運用に幾らか余裕があったのか、我々第一大隊・第二中隊の工兵中隊第三小隊は、澤田少尉の指揮で約20日間、ビアク島の隣Mapoceania2島「ヤーペン島」に道路工事に行ったことがあった。
 この島には、日本の看護婦訓練所があり、看護婦が60人もいた。ここで看護教育を受け、各地の野戦病院等に送られるのであろう。 
 若い女性の身ながらご苦労なことと思った。
 昭和19年4月17日(この日、サルミに米軍上陸)、ヤーペン島からビアク島に戻ったところ、丁度、ボスネック沖には駆逐艦一隻と輸送船二隻が入いっており、我々工兵隊も直ぐ荷降ろしを手伝った。ところが、正午近くになり、今にもスコールが来そうな天候を恨めしく思いつつ、見上げた空の雲の切れ間からロッキード戦闘機が急降下し、私の足元数メートル付近に機銃の弾痕を残して上昇した。
 二回に渡り機銃掃射を受けた。こちらも艦上から砲撃したが何の効果もなく、私の目の前で、作業中の兵士30余名の死者が出た。
これが我々がビアク島に来て最初の敵機飛来による被害であった。
 その日、米軍は、ビアク島に程近いサルミに上陸し、拠点固めをしていたのであった。空襲はこの日を境に連日続くことになり、更に日を増して激しくなる一方となった。
 ビアク島に米軍が上陸する、昭和19年5月27日まで約40日間は、毎日3回は定期便のように、40機前後で飛来し、爆撃を続けたのである。
一回に平均40機とし、一日に3回、つまり120機が飛来する計算になる。
 爆弾投下数も、「コンソリデーテット重爆撃機B24」一機に爆弾4発を積めば120機で480発、40日間で1万9200発の爆弾投下数であり、驚く数字である。我々は空襲のたびに、近くの洞窟に避難したが、至近に爆弾投下されたときは洞窟内が大地震のごとく揺られ、鍾乳石が砕けて落下した。
 この爆撃は30から40分続くのであるが、皆息を沈めて敵機が去るのを待つだけであった。島中の至る所に、爆弾による大きな穴が開き、滑走路は埋めても埋めても爆弾にやられた。
 当時の日本軍はブルドーザーなどはなく、我々兵士がスコップで埋めていたのである。形のある建物もすべて姿を消し、上陸当時、海岸線に美しく茂っていた椰子の木立も、爆弾で鉈で削られたように倒れ、ヤシの実などは全くなかった。更に、人的被害も大きく、爆風による戦死者を含め、マラリア、デング熱等の病気で、米軍が上陸するまでの間に、工兵中隊では四分の一の兵士が既に戦死していたのである。

7 米軍上陸
  同年5月24日、警戒中の哨戒機から、「空母二隻を含む、連合艦隊がビアク島方向に進行中、数日中に到着の予定」との報を受けていた。いよBiak_map_2いよ決戦の日が近いと感じた我々は、全員それぞれの陣地で戦闘準備についた。
 私は、鎌田分隊長の指揮で、ボスネック港近くの鍾乳洞に入っていた。この洞窟の入口は、縦横約2メートルあり、横穴を降りるように進むと瓢箪のように広く、奥行きは30メートル位で、5~60人は十分入れ、南国の暑さを凌ぐには格好の場所でもあった。
 尚、工兵中隊の本隊は、我々がいる洞窟からは約2キロ離れたマンドンに近い洞窟を拠点としていた。このボスネックの洞窟には、工兵隊の兵士は15名が入っていた。
 記憶のある名は、
 鎌田 分隊長
 米谷仁吉 上等兵(秋田県出身)
 晴山 兵長
 熊谷正蔵 上等兵(岩手県花巻出身)
 鎌田 伍長(岩手県出身)
 渋谷惣作 兵長(山形県遊佐町出身)
 藤巻二郎 一等兵、
 瀬戸山晴治 一等兵(岩手県出身)
 門山政明 上等兵(山形県松山町出身)
 他の6名は思い出せない。
 我々は長期戦を考慮し、木の枝や草等を洞窟に持ち込み思い思いの場所に寝床を造っていた。下は凸凹し、けっして寝やすい場所ではなかったが、草木でベットを造り工夫していた。
 工兵隊にとって、こんなことはお手の物だった。
 この洞窟に入り三日たっても敵は現れず、「米軍は我々を怖れて、ビアク島には来ないよ」、「戦艦大和も応援に来るらしいぞ」などと、未確認の饒舌を言う者もおり、一時的にも安堵した空気が流れ、酒を酌み交わす者もいた。
 しかし、運命の日は確実にやってきた。
 昭和19年5月27日の朝、米山仁吉上等兵が「顔を洗いに行こう」と私を誘ってきた。
 洞窟を出ると、雲一つない澄み切った青空が広がり、南洋の朝日は眩しく美しかった。二人は椰子の木立の浜辺を歩きながら、引き潮の岩間から湧き出る真水を探していた。すると、遥か沖合に数10隻の船を発見した米谷が、「渋谷、我が軍も海軍記念日を期して攻戦に入るのかなー」と話しかける。
 「海軍記念日」が制定されたのは、明治38年(1905年)5月27日、日露戦争の戦局の打開を目指し旅順港を封鎖されて身動きのとれないロシア大平洋艦隊を救出するために派遣された、当時最強と言われたロジェストウェンスキ-提督率いる、ロシアバルチック艦隊と日本海軍が対馬沖の日本海で遭遇。
 2日間に亘る壮絶な砲雷撃戦の末、旗艦「三笠」に座乗する東郷平八郎元帥率いる帝国海軍連合艦隊が3隻を残しすべて撃沈。残る3隻もすべて捕獲するという大戦果を挙げた。この結果、ロシア海軍は事実上崩壊し日露戦争は一気に終結に向かったものであり、この大勝利を記念して5月27日を「海軍記念日」と制定されたのである。

  私も今日は「海軍記念日」だったことを思い出し、沖合に視線を移せば、アオキ島の手前に黒々と船が見える。
  「どれが大和かな」と私も思いつつ、まだ歩き続ける二人を驚かせたのは、「ドドーン」という一発の砲音であった。それでもまだ、味方の演習かなと思いながら、立ち止まり見ていると、戦艦上から「パパッ」と赤い火花がはじけたと思うや、「ドドーン」と響き、空気を引き裂くような唸りを上げ、大きな砲弾が島に飛んできて大地を揺るがした。
 二人は「敵襲」と叫びながら全力で洞窟に向かった。
 昭和19年5月27日、午前4時30分頃のことであった。
 その後は数秒たりとも絶え間ない艦砲射撃が、正午頃まで続いた。
 我々のいる洞窟は上陸目標地点の正面に位置しており、近くには何発となく砲弾が落ち、その度に洞窟が崩れ落ちる恐怖感が我々を襲った。
 米軍は上陸に備え、徹底した艦砲射撃を行い日本軍の動きを制すると共に、戦意を奪う作戦をとったものと思う。
 事実、米軍は各地の上陸作戦でも、「空襲」、「艦砲射撃」、そして「上陸」というパターンを踏み、自軍の犠牲者を最小限にする作戦を展開していた。

8 地獄と化した洞窟
ボスネック港付近は、兵員揚陸艇や水陸両用上陸戦車を上陸されるには格好の場所であった。しかし、我々がいる洞窟はこの港から約百メートルの地点にあり、上陸すれば一早く発見される場所でもあった。一旦は、工兵中隊の本隊がある洞窟に退避を試みたが、艦砲射撃の物凄さに断念した。
 後は銃を構えて敵を迎え撃つ態勢を取った。
 運を天に任せるよりなかった。
 艦砲射撃は正午すぎにおさまり、いよいよ敵は兵員揚陸艇や水陸両用戦車で大挙して上陸してきた。
今度は激しい機関銃音であった。
 洞窟から出て迎え撃つにしても、あまりにも多勢に無勢であった。
 その日の午後二時頃と思う。
 洞窟の入り口方向から戦車のキャタビラ音が聞こえた。
 いよいよ来たぞと思うや、「日本兵隊、居るか」と呼ぶスピーカーの大声にびっくりし、銃を入り口方向に構えた。米軍の通訳の声であった。
 この時、恐怖感に追い討ちをかけるような大声に驚いたのか、戦友の一人が反射的に  
「居ます」と返事し、入口方向に歩き始めたのだ。
 全員がこれで最期かと覚悟したその瞬間、鎌田分隊長は、「だめだ、やれ」とドスの効いた声で藤巻一等兵に顎で命じた。
 戦場において、「だめだ、やれ」とは、このような場合、仲間でも殺せとの暗黙の言葉であった。藤巻一等兵は、帯剣を抜きながら素早く接近し、やむ得ずその兵を犠牲にした。
 これが、戦場の厳しい掟であった。
 遺族の方々も、まさか仲間に殺されたとは、思ってもいないだろう。
 まもなく否応なしに、敵に殺される運命にある仲間を、このように殺害する必要があったのかと、今思うと何とも情けないことである。
 それから間もなく、今度は入口方向から「ゴトン、ゴトン」とドラム缶が転がるような音がした、と思うや、一気に火の手が上がった。
 洞窟は一瞬にして火の穴と化した。 
 ガソリン入りのドラム缶数個を投げ込まれ火炎放射機で点火されたのである。
 さらに続いて、耳をつんざく衝撃音が洞窟内に走った。
 我々の止めを刺すかのごとく、戦車砲から入口目掛けて5~6発の砲弾が撃ち込まれたのである。
 この強烈な衝撃で、洞窟内の岩盤が崩れ落ちた。
 火炎と砲弾の攻撃に加え、岩盤の崩壊に私は死を覚悟した。
皆、耳を押さえながら、火炎で赤く照らされた洞窟の奥深くまで引き下がり、幾らかでも火の手から遠ざかった。
 それでも洞窟内の温度は焦げつく程に上昇し、汗はだくだく流れ、酸素も欠乏し呼吸困難に陥った。
 いつしか私は倒れていた。
 どの位、気を失っていたか分からないが、虚ろな意識の中で、冷たい水が顔を濡らしていることに気が付いた。
 岩盤の切れ間から冷たい水が流れ出ていたのだ。
 手のひらで隠れる程の小さな流れが、僅かに空気を運び私を救ったことが分かった。呼吸が楽になると思い切りその水を呑んだ。
 「恵みの水、救いの水」と思い涙が溢れた。
 あの時の水の味は今も忘れられない。
 洞窟内部は、まだゴーゴー音を出してガソリンが燃えていた。
 私は「おーい、こっちに来い。水が流れているぞ。」と叫んで戦友を呼び寄せ
 「水に鼻をくっつけろ、呼吸が楽になるぞー」と教えた。
 生きている者は皆、腹這いになって鼻を水につけていた。
 暫くして火の手も衰えると、また洞窟内は薄暗くなった。
 敵は全滅したと判断したのか、この洞窟には再び攻撃して来なかった。
 鎌田分隊長は、突然「生きている者名乗れ」と声を張り上げた。
 薄暗い洞窟の中でそれぞれ名乗った。
 9名残っていた。 
 いや9名も生き残ったのは、不思議な状況であった。
 もう最期かと諦め、入口近くで酒やビールを呑んでいた古兵達は、突然の火炎に巻き込まれ一瞬にして死んでいたのである。
 当然、入口近くに積んであった食糧は全部焼け焦げていた。
 缶詰をはじめ、カルピスや酒等も沢山あったが何も残っていなかった。
 これが米軍上陸一日目の出来事であった。
 それから3日間、我々は洞窟の水だけで過ごした。

|

2014年12月24日 (水曜日)

「ビアク島からの生還」序文・前書・入隊

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊~
  http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5_4

 この戦争記録「ビアク島からの生還 」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長渋谷惣作の実録です。
 今回は「序文・1:まえがき・2:入隊そして出征・3:北支より南方へ・4:輸送船団
  地獄のニューギニア戦線・ビアク島
   
序文
 太平洋戦争における最大の激戦地と言われる、現在はインドネシア領「ニューギニア・ビアク島(Biak_New-Guinea)に一兵卒として派遣され生還した、山形県遊佐町野沢出身の「渋谷惣作」の戦争体験記です。Kokubo_ken
 ビアク島戦は「絶対国防圏の天王山」と位置づけられ、ミッドウェー戦やガダルカナル島戦以降劣勢に回った日本軍が起死回生を図るため、当時、装備・兵の士気ともに日本軍最強師団と言われた、青森、岩手、秋田、山形県の東北健児で編成された陸軍36師団(師団長・田上八郎中将、参謀長・今田新太郎少将)・歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)3,815名を中心に、海軍陸戦隊1,947名、後方支援部隊約7千2百名を合わせ、約1万3千名の守備隊が派遣されました。 
 222連隊のビアク島上陸は昭和18年12月25日、そして、米軍第41歩兵師団約3万名がビアク島に上陸を開始した日は、5か月後の昭和19年5月27日(海軍記念日)の早朝のことでした。陸軍最強を誇る222連隊の善戦により、飛行場占領の予定が大幅に遅れた米軍は、第34歩兵連隊を追加投入、第41歩兵師団長ホレース・ヒュラー少将を解任し、第1軍団長アイケルバーガー中将が直接作戦指揮を執ったと言う。この不撤退の米軍に対し、222連隊等の将兵は応援の無きまま約1か月間、ビアク島を死守すべく勇敢に戦いましたが、88名(0.6パーセント)を残し全滅しています。Newimage_top_map_5
 後に、「北のアッツ島、(戦死2,638名、生還27名)、南のビアク島」と評され、壮絶な玉砕の島として、それぞれ戦史に名を残していますが、本土から食料、弾薬等の補給を絶たれた日本軍の南海の孤島での戦闘が、いかに激しく厳しいものであったかは、この生き残りの数字が裏づけています。生還された方々も、年々減少している今日、「記録を残すことは、生き残った者の使命と思い、生き恥を忍んで記録します。」と、思い出される限りの、戦友や上官の名前を上げて当時の様子を克明に語っています。  尚、著者が所属していた「第222連隊・第一大隊・第二中隊「工兵中隊」(当時230名余)からは3名生還していますが、親交深かったお二人も鬼籍に入られ、工兵中隊が全滅していく様子を知る者は只一人となっております。(著者は平成18年死去) 
 日本軍がニューギニア島を、南太平洋戦域の重要拠点にすべく進攻を開始したのは、昭和17年3月頃であった。当時、この辺りの島々には、オランダやイギリスの部隊が僅かに駐屯していたが、日本軍は時の勢いに乗じ、戦闘を交えることなく、これら駐屯部隊をハエを追い払うように、次々と占領していった。
 更に、マノクワリには二ユーギニア軍政府が設置され、民間産業団体による資源調査隊も送り込まれていた。
 日本国は、この島を南太平洋戦線の重要拠点にすべく計画していたのである。
 私が属する、当時、装備・兵の士気ともに、日本軍最強といわれた陸軍歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)3,815名を中心とする約1万余名が、ニューギニア島北部のチェンドラワシ湾に浮かぶビアク島に増援部隊として派遣されたのは、昭和18年12月25日のことであった。 

1 まえがき  
 ビアク島の守備は、我々、歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)に加えて、海軍第28根拠地隊約2千名(司令官・千田貞敏)の、計約1万2千800名で、万全の備えと大本営は判断していた。
 だが、連合軍も黙ってはいなかった。Map_21
 昭和18年2月、ソロモン地域のガダルカナル島を反抗の拠点とした米軍は、まず、ブーゲンビル、ラバウルを陥落させ、昭和18年9月には、ニューギニア島フィンシュハーフィンに米軍が上陸、昭和19年3月にはポーランジアに、更に昭和19年4月にはアイタペに上陸を許し、徐々にビアク島に迫って来たのであった。
 そして、昭和19年4月17日から、ポーランディアを拠点にしてビアク島に連日空爆を行った後、同年5月27日、米軍第41歩兵師団等が、数万名の兵力でビアク島上陸を敢行したのである。我々守備隊も、夜襲と突撃を繰り返し、米軍を未曾有の苦戦に陥れる健闘をしたが、米軍をはじめとする連合軍の後から後から追加支援される圧倒的物量戦の前に、全滅(80名生存、生存率0.6パーセント)したのである。
 なお、葛目直幸連隊長は昭和19年7月2日自決、
 奇跡的に生きている我々も、殆どが負傷又は食糧不足で衰弱しており、望郷の念は強くとも撤退する術も無く、ただ情ない姿でジャングルを逃げ惑うだけの部隊となった。
 後は生恥を晒すも、死ぬも運命だった。  
 後に記録で知ったことであるが、我々が「第四航空軍」のために造ったビアクの飛行場は、この方面の制空権確保上、極めて重要だったと見え、大本営も南方基地では唯一奪回を試みた島であった。これを「渾作戦」(こんさくせん)と称し、風雲迫るビアク島救援のため、増援部隊送り込み作戦が何度か敢行されていた。
 なお、この作戦は、この後に続く「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)と連動しており、国家の存亡をかけた極めて重要な作戦であった。
 第一次・第二次作戦は失敗、そして第三次作戦は、当時の最強戦艦「大和」「武蔵」が率いる大艦隊による増援部隊の輸送作戦だった。しかし、作戦敢行中、連合軍がサイパンに上陸したとの報に、大本営はサイパン重視と判断、全艦隊をUターンさせサイパン救援を命じたのであった。
 つまりビアク島、いや我々は祖国に見放なされ、あとは悲壮な絶望的状況下で、死を待つだけの部隊となったのである。 
 私は絶海の孤島で、極限状態に置かれた人間の行動と心理、特に生への執着、望郷の思い等を恥を忍んで赤裸々に述べるとともに、戦友・上官らの最期の様子等を、記憶の限りここに記述しておく。
 戦後60年を経た今日、命長らえている者の使命と思いつつ・・・・・・・・・・
2 入隊そして出征0000s_011
  大正11年7月23日生まれの私は、昭和17年7月で二十歳(はたち)の誕生日を迎えた。 
 当時私は、15歳から大工職の弟子として、札幌の大工棟梁の伯父方(母の妹の嫁ぎ先)で修行中であったが、一旦、郷里の山形県遊佐町野沢に帰省し、徴兵検査にも甲種合格し、入隊の日を待っていた。 
 この当時、徴兵期間は20歳から約2年間で、日本国男子として生を受けた者の義務として誰もが、その任期を全うすることを当然と受け止め、誇りとしていた。又、この兵役を終えて始めて一人前の男として認められるような風潮が、国民の間に定着していた。
 昭和16年12月8日、真珠湾奇襲によって勃発した、太平洋戦争に対する国民の認識は甘く、私が入隊する頃の新聞等で伝えられる戦況は、勝利に継ぐ勝利であり、押せ押せの必勝ムードであった。
 後に、戦況が不利に転じたと言われる昭和17年6月のミッドウエー海戦を始め、昭和17年8月にはじまるガタルカナル島戦等、南方各地の日本軍の戦いも、新聞やラジオでは、「敵に甚大な損害を与えた」と伝え、神国日本の勝利は間違いなく、今年中にも米軍は降伏するであろうと楽観視していた。
 当時の国民には、正確な情報、厳しい戦況は全く伝えられていなかったのだ。    
 私の周囲の戦争感覚も、「戦地に行くことはいい経験になる。お国のために手柄を立てて来い。」等と、軽い感覚で日常の話題にしていた。その根底には、「日本は絶対に負けることはない」という潜在意識があったからと思う。
 我々の世代は、そのような教育を受けて育っていた。 
 入隊する時も、家族からは「初年兵が直ぐに戦地に行くことはないだろう」等と言われ、私もちょっと出かける程度の、軽い気持ちで実家を出発した。
 野沢の村はずれ(現在・バス停付近)では、親戚一同や村人面々の歓送行事が催され、「お国のために頑張って参ります。」などと慣れない挨拶をさせられ、遊佐駅まで単独で歩いて向かった。
 1942年、昭和17年11月30日のことであった。 
 岩手県盛岡市に所在する「北部第21部隊・盛岡工兵隊」に、我々初年兵250名が入隊したのは、昭和17年12月1日朝8時であった。
 薄暗くどんよりとした空に、冬の北風が冷たく頬をよぎった。早速、皺だらけの軍服に硬い軍靴を支給され、格好だけは陸軍軍人に仕上げられた。
 戦地・北支から派遣された教官は、高八掛(たかはっけ)少尉、藤原准尉、菅野軍曹、近藤軍曹の4名であった。
 まず教官を囲んで記念写真を撮り終えると、これからの軍隊生活の注意・指示を受けた後、営庭や練兵場、内務班等に案内された。
お客さん扱いはその日だけであった。
 翌日からは、軍人勅諭の座学、軍事教練や敬礼の仕方、掃除、洗濯、食事当番など、朝から寝るまで目の回る忙しい日が続いた。
 初年兵の中には、秋田県出身の相撲力士十両の「清風」という人もいた(後に二ユーギニアで戦死)。P_001
 あっという間に一週間が過ぎた。
 夕方の点呼で、「明日、正午戦地に発つ、全員、今夜中に準備するように」と教官から命令を受けたのである。この俄の命令に皆、言葉にならない忙しさで出発準備を開始した。
 消灯まで出来ない者には初めて教官のビンタが飛んだ。
 わずか一週間の訓練で、戦地に向かう戦友の面相は語るに語れないものがあった。誰もが家族との面会は勿論、手紙を書く余裕もなく、盛岡駅から臨時列車で出発した。
 車窓に映る街並みもいつしか東京、大阪、広島と過ぎ去り、一路、北九州・下関を目指しているが、車内の兵士は皆口数が少ない。
 胸に去来するのは両親や兄弟か、それとも好きな人のことか。
 心細さと不安だけの二十歳の旅立ちであった。       
 列車は二昼夜かけて下関に到着、その日の夜には下関港から出航する。たいして大きくもない船に押し込められ、皆座ることも出来ない。前の者は、後の者の膝に座る等折り重なるように押し込まれ、5~6時間も波に揺られて釜山港に着いた。更に、休む暇もなく列車に乗り込むと、教官達は、「ここはもう戦場だ」と態度を一変させ、我々初年兵に緊張感を与えた。
 列車の中は軍隊生活一色となり、教範を勉強したり、言葉も軍隊語となった。
 教官達も何が気に入らないのか、遠慮なくビンタが飛んだ。
 そして、いつしか列車は、満州に入いり、更に三韓を越えて北支に入り、山西省太原を過ぎ、心縣、楡次を経由し、路安の柴防村に駐屯した。
 野戦であり、どこへ行っても宿舎はテント張りであった。
3 北支より南方へ
 
昭和18年1月頃と思う。
 私は、第一大隊・第二中隊(中隊長佐藤長平中尉、福島県国見町出身)第三小隊の教育班に配属された。
 第三教育班は15名の班だった。
三か月の教育期間も終わり、全員一等兵に昇進した。昇進して間もなく「十八春太行作戦(じゅうはっしゅん・たこうさくせん)」に出動することになった。路城作戦、佛山のP_hokusi_1_2戦闘など、山西省の八路軍(中国共産党が抗日のため創設したうち、華北主力の軍)討伐の戦いで二か月間も掛かった戦闘であった。
 昭和18年4月頃であった。
 北支の梅雨は早く毎日のように雨に打たれた。雨が10日も続いたために「定史村(ていしそん)」の橋が流された。我々工兵隊木工班は、その橋掛け作業に従事する。昼夜の連続作業で、命綱を頼りに濁流と闘いながら働いた。
 ちなみに、軍隊における工兵隊の任務は、交通、築城、架橋、爆破、兵舎造り等々と広く、戦場においては、歩兵・砲兵そして工兵は地上戦の最低限の組み合わせとされた。 
 特に、工兵は特殊技術を要する集団であり、“戦場の技術者”と呼ばれた。
 日本陸軍の歌「工兵」では、
P_hasi 「道なき方に道を付け、敵の鉄道撃ち毀ち、雨と散り来る弾丸を、身にあびながら橋かけて、我が軍わたす工兵の、功労何にか譬ふべき」と歌われた。
 私は、15歳から5年間、札幌の叔父方で大工職の弟子入りをしており、「工兵隊の木工班」10名のうちの一人として、その技術は最大限に発揮する必要があった。
 10名のうち、大工経験者は8名であった。
 その頃、我々に南方行きの報が流された。
 しかし、南方のどの辺りに派遣されるのか我々一兵卒は全くわからなかった。
 昭和18年2月、ガダルカナル島を完全に手中にした米軍は、この島を反攻の拠点とし、マッカーサー大将(後に元帥)の陸軍と、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将(後に元帥)率いる海軍が二手に分かれて侵攻が開始された。
 マッカーサーは、ブーゲンビルからフィリピン方向に、一方のニミッツはマキン島、タラワ島、サイパン、硫黄島へと飛び石作戦で兵力を北上させ、制空権、制海権を伸張しつつ、大々的反攻を繰り返し、日本本土攻撃を目指したのである。
 米軍は、この侵攻作戦を車の両輪にたとえて「カートホイール作戦」と呼んでいた。 
 なお、この陸海両総司令官の二人三脚はそのまま終戦まで続いた。
 メンツの主張や縄張り争いが多かったという帝国陸海軍と違い、米陸海軍の息はぴったり合っていた。 
 さて、昭和17年4月18日「連合艦隊司令長官・山本五十六大将」の戦死後は益々その勢いを増し、ニューギニア、ソロモン地区の占領地域では、連行軍の猛攻撃に敢え無く次々と奪回され、日本軍は玉砕・敗走を重ねていたのである。
 大本営は、昭和18年9月30日「今後採ルヘキ戦争ノ指導ノ大綱」(絶対国防圏構想)を設定し、その防衛圏維持のため、既に満州等に配置されていた部隊を、南方に転用する方針が決定していた。
 この方針により、猛部隊として勇名を馳せた関東軍をはじめ、我々が所属する第36師団に南方派遣の白羽の矢が放たれたのである。
 第36師団3個連隊は、
 青森・岩手・秋田・山形の東北4県出身者を中心に編成され、「朴訥で粘り強い性格でありながら、戦闘においては勇猛果敢、困難に耐える強靭さを持つ、日本軍最強の師団」等と、今となっては、少しも有り難く無い評価を受けていた。
 事実、私が参加した幾多の戦闘においても連戦連勝、不敗を誇り、敵陣にもその名を轟かせていた。
 因みに、36師団は、
◎歩兵222連隊「弘前編成、秘匿名・雪3523部隊、連隊長・葛目直幸大佐」3815名
◎歩兵223連隊「秋田編成、秘匿名・雪3524部隊、連隊長・吉野直靖大佐」
◎歩兵224連隊「山形編成、秘匿名・雪3525部隊、連隊長・松山宗右衛門大佐」
の3個連隊であった。
 いよいよ、南方行きの日がやって来た。
 山西省を馬糞の臭いが残る貨物列車で転々と南下する。食事時は大変な込み合いで、各地区の兵站分より配られる飯盒を両手に、食事当番は忙しい。馬糞臭い貨車の中の食事は、戦地だからこそ辛抱出来たことである。
 南京、上海、砲台、北ウースン(上海呉松)と各地を転々としながら江湾港に着いたのは、昭和18年12月に入っていた。すぐにも、通称名「雪師団」軍属合わせて5・6万の大兵団は、江湾港で数十隻の輸送船に分乗する。
 そして、護衛の駆逐艦等とともに一路南方目指して、太平洋の荒波に乗り出して行った。
 翌日夕方に台湾高雄に入港し、停泊すること二泊。入港と同時に港近くの銭湯に行った。久しぶりの風呂に皆生き返った顔付きであった。
 その後、パジー海峡を4・5日かかって、フィリピン島マニラに入港した。
 マニラでは一週間も停泊し、更に南下し、フィリピン島中部のセブ島に停泊し、我々工兵隊木工班10人が上陸した。目的は、南方に着いてから兵舎作りの参考にするため、島民の住居等を何軒か見学させて貰う。
 木工班10名のうち、大工経験者は8名だった。  
 戦地ではどこに行っても、なにかと建築作業が伴い、大工経験者はいろなん面で重宝がられたものだ。見学を終えると直ぐ乗船し、更に南下を続け、着いて分かったがミンダオ島であった。
 半日位して又出発。昭和18年12月21日、最後に補給のため立ち寄った島はハルマヘラ島だった。補給を終えると再び南下を続けたが、ここまで来ても、何処へ行くのか我々一兵卒には一切知らされていなかった。
4  輸送船団 
 いよいよ、最前線の危険地帯に入ったことは、廻りの空気で読み取れた。
 空からは哨戒機が絶えず周辺海域を警戒し続けていた。一発の魚雷で幾万の戦友が死ぬかも知れない命懸けの船旅である。事実、当時の輸送船団の幾つかは、魚雷攻撃や空爆により目的地に到着することなく全滅していた。
 戦況が悪化した昭和19年代にはその頻度を増し、若い兵士達が全く戦わずして、海の藻屑と消え去ったのである。  
 その同胞は、幾十万名を数えたであろう。
 現在の平和時、時折起こる災害や事故による犠牲者の比ではない。
 桁が違う。ここで、当時の船団の様子を説明する。
 第36師団、通称「雪部隊」は、軍属合わせて5・6万の大兵団である。これをニューギニア方面の増強部隊として一度に輸送するのであるから、それはそれは大変な船団である。兵員を乗せた輸送船約十数隻、食糧に武器弾薬等を積んだ貨物船数隻に、護衛として駆逐艦一隻、掃海艇二隻を含め、ざっと数えただけで30隻を越す船団に加え、空からは、哨戒機2機に護られて、南方海域をひた走るのであるから一見勇壮たるものである。
 しかし、視線を輸送船内に戻せば、兵隊の扱いは酷いものであった。
 「第一に軍馬、第二に物資、第三に兵隊」と言われ、兵隊は物資や馬より下に扱われていたのである。当然、私が乗っている輸送船も物資を満載した上に、定員の5倍以上も乗せており、狭い船内は足の踏み場もないほど兵隊で溢れていた。畳一枚に4~5人当たりが押し込められ、精々座るのがやっとで、船酔いする者も多く、あちらこちらで吐いている者もいて船内は異様な臭いがした。さらに、南方に向かうに連れ気温が上がり、船内は蒸し風呂のような最悪の環境になり、不衛生極まりなく、否応なしに我々の体力を消耗させていた。
 食事をするにも大小便するにも大変な苦労であったが、それでも皆「これも、お国のためだ」と割り切った。 もっとも、一兵卒が文句を言えるような時代ではなかった。私は、輸送船団の中央を行く「健和丸」という名の輸送船に乗っていた。
 5千トン位の当時にすれば相当大きな船で、葛目部隊長も乗船していた。
 船団は、魚雷による被害を最小限にするため、決して一列にはならなかった。船舳を右に左に変えて蛇行しながら進み、これが船酔いを倍加させ我々を苦しめた。駆逐艦と掃海艇は輸送船団の周囲を廻り、哨戒機一機は常に前方を警戒し、又、一機は船団上空を旋回し警戒していた。
 この一見勇壮たる船団は、南進する当時の日本軍の勢いを象徴しているようであり、まさかこの大兵団が数か月後に全滅するとは、誰も夢だに思ってもいなかった。
 この大船団も、12月21日最後の泊地、ハルマヘラ島を出港して一夜明けた「昭和18年12月25日」早朝、辺りを見渡すと「健和丸」「辨加拉(べんがる)丸」「御月丸」の三隻になっていた。これが、ビアク島上陸の葛目連隊長率いる兵団(秘匿名「雪第三五二三部隊」)であった。
 他の船団は、ニューギニア島北部のサルミ(昭和19年5月17日米軍上陸)に向かったことは、後に知ったことである。
 師団命令は、
 「歩兵第222連隊は第三六師団の指揮を離れ、第二軍直轄のビアク支隊となり、主力をもってビアク島、一部をもってヤーぺン島要地を確保し、来攻する敵を撃破すべし。師団司令部はニューギニア本島サルミにあり
であった。
Mapoceania111

■「ビアク島からの生還」5:6:7:8  に続く
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/5-4ab1.html

■「ビアク島からの生還」9-10-11-12
  http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-8b38.html

|

2014年12月23日 (火曜日)

「ねずきち」さんに感謝したい。

 今日の「天皇誕生日」によせて、天皇陛下は、先の戦争で300万人を超える人々が犠牲になったことに、「その人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課せられた義務であり、後に来る時代への責任である」とのお考えを示された。
 さて、昨日22日は、人気ブログ「ねずさんのひとりごと 」を書いている、ねずさんこと小名木善行=小名木伸太郎さんが、ユーチューブで語っていたことをご紹介した。
 「ねずさんのブログはこちら」→http://nezu621.blog7.fc2.com/  
 常に日本の素晴らしさを広めている方で、ブログの内容は右に出る人はいないと思われるほど素晴らしい。
 あらためて同氏のブログをチェックしていると0000s_011
 山形県遊佐町出身・渋谷惣作著の「ビアク島からの生還」を元にして、2012年03月27日「ビアク島の玉砕戦 」と題して配信されていることを知った。数年前、わけあって配信を中止したが、明日から原文を再度、このブログ上でご紹介したいと思っている。
 天皇陛下の「残された私どもに課せられた義務・・・・・・」という重い言葉が胸に刺さった。
 
------------------------------------------------
ビアク島の玉砕戦
   http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1467.html#more
 ビアク島の玉砕戦について書いてみようと思います。
 ビアク島の戦いは、後に「北のアッツ島(戦死2,638名、生還27名)、南のビアク島(戦死12,347名、生還86名)」と称された壮絶な玉砕戦です。
はじめに、東京新聞に以前掲載された記事をご紹介します。
~~~~~~~~~~~
【友思い涙「証人」の孤独】東京新聞 社会部 加古陽治
平成17年10月2日記事
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/P_25_shinbun_kigi/shinbun_kigi.htm
病院の廊下の億で、車椅子の老いた男は何度も泣いた。
そのたびに顔がくしゃくしゃになった。0000000sousaku_kigi
昭和19(1944)年5月、米軍の上陸で激しい戦闘の舞台となったインドネシア・ビアク島。
一万二千余の日本兵の命を呑み込んだこの「死の島」から奇跡の生還を果たした元陸軍兵長、渋谷惣作(山形県遊佐町)にこの夏、会った。
その体験を語る口調は訥々(とつとつ)としている。
だが戦友の悲惨な死にふれるたびに、顔をゆがめて泣くのだった。
「渋谷、水くみに行こう」
昭和19年5月27日、歩兵第222連隊工兵中隊(盛岡編成)の一員としてビアク島に渡った渋谷は、夜明け前、戦友に誘われボスネック地区の洞窟(どうくつ)を出た。
沖合に浮かぶヤーベン島が見えないほどの大艦隊が海を覆っていた。
「どれが大和かな」・・味方と思ったら、号砲が鳴った。
「敵襲!」
大声で叫び、洞窟に戻った。
艦砲射撃が鎮まると米兵が大挙して上陸。午後になると洞窟の近くにきた。
「ニッポンヘイタイいるか」
なまりのある声で米軍の通訳が呼んだ。
「はい、おります」
ひとりがそう応じ、出て行こうとした。
「やれ」
すかさず小隊長が部下に命じ、仲間に帯剣で刺された兵士は絶命した。
しばらくすると、洞窟にドラム缶が投げ込まれ、火を放たれた。
「中は真っ赤で・・・。とてもとても・・・。もうぜんぜん分からない。意識をなくして、倒れたところが川だった。それで息ができた」
ゴーゴーと火が燃えさかる。
しばらくして意識を取り戻した渋谷は叫んだ。
「この川の水に顔つけれ。息継ぎが楽だぞ」
いまも忘れない、おいしい水だった。
水だけで過ごし、三日目に外に出た。
野戦病院で一服し、大洞窟にある司令部に合流した。
整備した滑走路は、米軍の手に落ちていた。
渋谷たちの任務は、それを使わせないための肉弾攻撃。
歩兵も工兵もなく突撃させられ、そのたびに十人、二十人と死んで行った。
「いよいよ、今日は俺の番だかのって思うだけ・・・」
七月にはいると、支隊長葛目直幸中将が自決し、島での組織的戦闘は終わった。
それで渋谷らは、死に場所を求めるように戦い続けた。
同月末、工兵中隊の残存兵で米軍の車列に最後の攻撃を仕掛け、渋谷ら9人だけが生き残った。
あとはただ、生きるための戦いだった。
トカゲやネズミがごちそうだった。
人肉を食べた者すらいたという。
屈強だった若者は、そこまで追いつめられていた。
(※ねずきち注:あとに引用しますが渋谷さん本人の手記には、この人肉食のことを明確に否定した文章があります。おそらくここは記者か編集部が筆を走らせたものだろうと思います)
部隊はバラバラ。極限の飢餓状態。
食料を盗もうと、三人で米軍施設に近づいたとき、地雷にやられた。
ひとりはほぼ即死。
同郷で親しかった一等兵の粕谷博も虫の息だった。
「おれと一緒に帰るぞ」
「うん」
「おめえ、(遊佐町)藤崎のどの辺や」
「学校から三軒目や」
それが最後の会話になった。
夢の中で二人の爪を噛み切り、軍票につつむ。
戦友の死の証だった。
気がつくと近くに白い子犬がいる。
ついて行くと畑に出た。
夢かうつつか、小さなトマトが鈴なりになっている。
「博が助けてくれた」
そう思い、夢中で食べた。
■ ■ ■
昭和19(1944)年10月、渋谷は米軍の捕虜になり、命を永らえた。
工兵中隊254人のうち、生き残ったのは三人だけだった。
だが彼には戦後、新たな闘いが待っていた。
あれだけ過酷な戦場に身を置いたのに、軍歴が少し足りないからと恩給ももらえない。
あまりにも悲惨な体験談を、地元の人たちは疑いの目で見た。
渋谷の脳裏には、いろり端の光景が刻まれている。
「村の人が逃げて帰ってきたと後ろ指をさす」
「戦友と一緒に死ねば良かった」
「おれはビアクでえ何人も殺しているし、死ぬのは怖くない」
何度もそんな場面が繰り返された。
「いま思えば戦争後遺症だった」と家族はいう。
「誰も信じてくれねえ」
渋谷は戦場の記憶を封印した。
家族と戦友だけが例外だった。
今年(平成17年)7月、久しぶりに記憶の糸をたどってくれた渋谷は、最後に吐き捨てるようにつぶやいた。
「もう戦争には行かない」
約一ヶ月後の8月18日、21世紀までひとり人生を生き抜いた工兵中隊「最後の証人」は、83年の生涯を閉じた。
戦友に61年遅れの死だった。
~~~~~~~~~
ビアク(Biak)島は、インドネシア、パプア・ニューギニアの北西部に位置する小さな島です。
大東亜戦争当時、日本はこの島に飛行場を建設しました。
昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦に敗れた日本にとって、この島は、絶対的国防圏保持のために阿南惟幾大将をして「航空母艦10隻に相当する」といわしめたほどの重要拠点でした。
ビアク島に派遣されたのは、支那北部で転戦し、連戦連勝を挙げていた陸軍歩兵第222連隊(秘連隊長葛目直幸大佐)の3,815名を中心としたビアク支隊です。
海軍からも第28根拠地隊(司令官千田貞敏少将)率いる約1,947名が派遣されました。
この島には陸海合わせて、計12,433名の守備隊が派遣されましたが、戦闘員は陸海合わせて4,500名だけで、残りは飛行場の建設や、その他の作業集団でした。
冒頭にご紹介した新聞記事の渋谷惣作(しぶやそうさく)さんは、陸軍の工兵隊員として、この戦いに参加された方です。
お生まれは大正11(1922)年、山形県遊佐町野沢のご出身です。
氏は、15歳で大工の見習いに出られ、昭和17(1942)年12月、20歳で徴兵を受け、岩手県盛岡市の「北部第21部隊・盛岡工兵隊」に、250名の仲間たちとともに配属になったのだそうです。
渋谷さんの回顧録には、当時を振り返って次の文章があります。
~~~~~~~
当時、徴兵期間は20歳から約2年間で、日本国男子として生を受けた者の義務として誰もが、その任期を全うすることを当然と受け止め、誇りとしていた。
兵役を終えて始めて一人前の男として認められるような風潮が、国民の間に定着していた。
~~~~~~~
徴兵に出ることを誇りとしていた当時の気分が伺えます。
このあたり、韓国での徴兵が嫌で日本人になりすます昨今の在日韓国人とはずいぶん違います。
昭和18年12月25日、日本の1万2000名はビアク島に上陸しました。
そして約4ヶ月をかけて島を整備し、飛行場を建設しました。
渋谷さんの手記には、飛行場が完成した日のことが書かれています。
~~~~~
全部隊を完成したばかりの飛行場に集め、葛目部隊長から訓辞があった。 
「この編成を以て米英に当たるならば、米英ごときは一蹴である」
と繰り返し、爛々と輝く目で語った様子を今も脳裏に焼き付いている。
第222連隊1万2千有余の将兵は、心ひとつになっていた。
~~~~~
明るい南の島の太陽のもと、完成した飛行場を前に、葛目連隊長と支隊のみんなの汗にまみれた喜びと決意の笑顔が目に浮かぶようです。
けれど出来たばかりのその飛行場に、米軍のロッキード戦闘機が飛来します。
昭和19年4月中頃のことです。
米戦闘機は、二度にわたって機銃掃射を行い、またたくまに作業中の兵士30余名が亡くなります。
そしてこの日を境に、米軍が島に上陸する5月27日までの40日間、米軍機は毎日やってきました。
それも一日3回、判で押したようにやってくる。
飛来するのは、毎回40機前です。
そして毎回、爆弾を落として行きました。
投下された爆弾は、40日間で約2万発に及びます。
島のいたるところが穴だらけになり、美しかった海岸線のヤシの木々もことごとく爆弾によってなぎ倒されてしまう。
みんなで作った飛行場も穴だらけにされてしまう。
穴だらけでは、飛行場が使い物になりません。
ですから米軍機が去ると、みんなでスコップで穴を埋めました。
土方仕事の中で、何が辛いといって、この穴埋め、穴掘り作業ほど辛いものはないのですね。
腰や腕に負担がかかる。
しかも作業は危険と隣り合わせです。
また米軍が爆撃にやってくる。
滑走路には遮蔽物がないのです。
爆風による戦死者も後を絶たない。

重労働でくたくたになり、弱った体に、さらにマラリアが襲いかかります。
こうして、米軍が上陸するまでの40日間に、渋谷さんの工兵中隊では四分の一が既に戦死してしまわれていたそうです。
そして5月24日、警戒中の哨戒機から無電がはいりました。
~~~~~~
空母二隻を含む、連合艦隊がビアク島方向に進行中、数日中に到着の予定
~~~~~~
島では、全員が戦闘配備につきます。
そして運命の5月27日がやってきました。
午前4時、沖合の艦隊から、猛烈な艦砲射撃が始まりました。
間断なく撃ち込まれる艦砲射撃は、約8時間続き、地上にあるすべてを破壊しつくします。
そして昼から、揚陸艇や水陸両用戦車で次々と上陸してきました。
上陸した米軍は、揚陸艇から降りるとすぐに、陸に向けてめちゃくちゃに機関銃を撃ってきます。
後ろから続く上陸部隊を守るためにです。
まさに物量にものをいわせた作戦です。
港に近い洞窟には、戦車を先頭にやってくる。
洞窟に向かって、まず日本語の通訳が「日本兵いるか」と声をかけます。
洞窟内部に日本兵がいようがいまいが、次の米軍の行動は変りません。
洞窟にガソリンのたっぷりはいったドラム缶を投げ入れる。
火炎放射器でこれを爆発させ、洞窟内を焼き払う。
さらに後方から戦車で砲弾を洞窟内に撃ち込む。
洞窟内に入って来て戦果を確認、ということはしません。
その必要がないほど、徹底的に焼き払い、砲弾で吹き飛ばしたのです。
これによって海岸線付近の洞窟に陣取った守備隊は、ほぼ壊滅してしまいます。
後方の洞窟にいたビアク支隊は、それでも飛行場を守ろうと、くりかえし肉弾突撃を敢行しました。
けれど米軍は、櫓(やぐら)を組んだ上から機関銃で掃射を浴びせ、その都度、日本側は死傷者を増やします。
6月27日には、ビアク支隊が本拠にしていた西洞窟も米軍に制圧されました。
7月2日、葛目支隊長が自決されます。
この時点で、残存人員は1,600名余りとなったビアク支隊は、おのおのジャングルに散り、敵と出会えば交戦するというゲリラ線に突入しました。
米軍は、日中活動します。
敗走する日本軍を見つけるためです。
島中を探しまわった。
日本は、昼は山中に隠れます。
そして、夜だけ行動した。
上の新聞記事に、そのときの様子として次の文章があります。
~~~~~~
あとはただ、生きるための戦いだった。トカゲやネズミがごちそうだった。
人肉を食べた者すらいたという。
屈強だった若者は、そこまで追いつめられていた。
~~~~~~
この記述は、おそらく記者か編集者が、故意に筆を走らせたものでしょう。
渋谷さんご自身の手記には、人肉食など「していない」と明確に書かれています。
原文そのままでご紹介します。
~~~~~~~~
昭和19年7月23日、私は満22歳の誕生日をビアク島のジャングルの中で迎えた。
既に戦火は止んでいたが、米軍は敗走する日本軍を見つけるため、明るい内は島内をくまなく捜し回っていた。
我々は昼は山中に隠れ、夜だけ行動した。

ここで私達が、何を食料にしていたかを説明しておく。
ビアク島には、野生の椰子の実やマンゴー、サンゴヤシの新芽、バナナの根(大根のような味)等が、季節に関係なく植生しており、これらを手当たりに食べた。

甘いものばかり食べると、無性に塩分を欲した。
海水は島周辺にいくらあっても、海岸線は何処も敵がテントを張っていて昼間は行くことが出来なかったが、夜、暗闇にまぎれて海に出て海水を飲んだ。

水筒にも海水を入れておいた。
海岸には、敵味方の腐乱した遺体が無造作に散乱し、その近くには無数の魚貝が集まっていた。

つまり、遺体は魚貝のえさになっていたのである。
しかし、背に腹は代えられず暗闇に紛れて浜辺に出て、種々の貝を捕り、よく食したが、決まって下痢をした。
出来れば、焼くか煮て食べたいところだったが、火を使うことは出来なかった。
煙が立ち敵に発見されるおそれがあったのだ。
戦友らの名誉のために付け加えておくが、帰国後、特に帰還兵は飢餓に耐えられず、戦友の人肉を食した等の批評をされたことがあったが、そのようなこと、あり得ないことである。
当時の我々軍人に、そのような発想は生まれもしないし、また、南国の気候は、遺体を1日もしないうちに腐敗させていたのだ。
(中略)
この島には私が見た限りでは猿が一番大きな動物であり、人を襲う猛禽類はいなかったことが幸いした。
派手な色彩の極楽鳥は良く見かけ、食べ物にしたかったが、とても捕まえられるものではなかった。
島内のいたるところに激しい戦いの跡が残っていた。
散乱する戦友の屍辺りには、血なまぐさい空気が漂っていた。南国の暑さで腐敗も早く、既に白骨と化したものも多い。
そっと手を合わせつつ、明日の我が身の姿を想像した。
~~~~~~~~
渋谷さんが手記で明確に否定し、また他のインタビューでもやはり否定している「人肉食」について、なぜ東京新聞の記者が冒頭の記事で「食べた」と記述したのかは不明です。
ただひとついえることは、このビアフの戦いに限らず、どの戦地にあっても、飢えとマラリアと敵弾の恐怖が続く毎日の中にあってさえ、日本人には戦友の肉を食うなどということは、その発想も行動も、皆無だったということです。
だからこそ、多くの将兵が飢え死にしたのです。
出征前、体重60キロあった渋谷さんは、捕虜になって体力を回復させ、帰国した時点で体重が38キロに減っていたそうです。
捕虜になり、医療を施され、食事面でもそれなりの待遇を与えられた後でさえ、その体重だったのです。
ジャングルで徘徊していたときには、もっと痩せ細っていたことでしょう。
そこまで追い込まれながら、人としての誇りや尊厳を失わない。
そして戦友の遺体を見かけたら、そっと手を合わせる。
それが私たち日本人です。
渋谷さんの体験記に、上の文に続けて、ちょっとスピリチュアルな出来事が書かれています。
感動的なお話なのでご紹介します。
渋谷さんは、このとき、千葉さん、粕谷さんと三人で行動しています。
ほとんど幽鬼のような姿です。
腹が減ってどうにもならない。
そこで三人は、米軍の建設した発電所に、パンを盗みに入ります。
~~~~~~~~~
そのとき粕谷が草むらに敷設した地雷の線にひっ掛かったのである。
粕谷の直ぐ近くで一瞬青白い煙が「ボッー」と上がった。
私は「地雷」と叫んで伏せたが、立って逃げた二人のすぐ後で「ドカーン」と爆発した。
千葉幸一は即死。
粕谷博は虫の息だった。
最期まで行動を共にした「千葉幸一」
私は粕谷の頭を膝に抱き、「粕谷頑張れ、藤崎に一緒に帰ろう。頑張れ。」と何度も繰り返したが、首を縦に振り頷くが言葉に成らない。
腹部貫通と大腿部盲貫の重傷である。
どうすることも出来ず30分程で死んだ。
粕谷博の実家は、山形県遊佐町上藤崎、私の実家の野沢から約6キロの村だった。
私は二人を並べて寝かし、草を被せた。
とうとう一人ぼっちになった。
爆発音で敵が様子を見に来る恐れがあったが、直ぐには立ち去りがたかった。
草を分けては二人の顔を何度も見た。祖国に帰り、やりたいことが一杯あったであろう。
幾度も激しい砲弾をくぐり抜け、飢えや寂しさと戦いこれまで生きた延びた二人とは、是非、一緒に帰還したかった。
良き戦友として、生涯の付き合いになったであろう。
一人になった私は、どうすれば良いか分からなかった。
私も自決しようと思った。
そう思うと親、兄弟、親戚のこと、恋しい人のこと、次から次へと浮かび、直ぐには決心が付かないまま浅い眠りに入った。
うとうとしては目が覚め、又、死ぬぞと思った。隣には粕谷と千葉の亡骸があった。
一緒にここで眠るのが自然と思えた。
このまま生き延びるより死ぬ方がずっと楽であり簡単に思えた。
しかし、じっと二人を見ていると、二人は「生きて帰えろ、郷里にこのことを伝えてくれ、お前しかいないじゃないか。」と言った。
言ったように聞こえた。
夢か現実(うつつ)か分からない妄想の一夜は続いた。
小鳥のさえずりで目が覚めた。朝日が昇りジャングルに命の息吹がまた蘇った。
いつに無く、草木も動物も生き生きして見えた。
今度は、何としても生きて祖国に帰り、この惨状を伝える必要があると決意した。
私は、二人の亡骸に近寄り、二人の小指の爪をかじり取り、軍票(軍が発行した紙幣)に包んだ。
「俺は必ず生きて帰り、この惨状を祖国に伝えよう」と決意し立ち上がった。
その時である。
スピッチに似た白い小犬が50メートル程先を走っているではないか。
「この辺りに部落でもあるのか」と思い、その方に歩いた。
犬は山の木立をぬって走る。犬が見えなくなった所まで行くと、又、犬の尻尾が見えた。
こんなことを幾度も繰り返し、何日犬の案内で歩いたか分からないが、広い原っぱに出た。
そこは軍属が自活のために作った農場だった。
小さなトマトが鈴なりに実を付けていた。
夢中で食べた。
食べながら辺りを見渡すと小さな小屋があった。恐る恐る近付くと人が居た。 
一瞬びっくり、相手もびっくり、お互いに日本兵と分かると笑顔になった。
「何中隊だ」と尋ねる。
「歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵だ」と名乗った。
私も同様に名乗った。
初めて出遭った二人は、これ迄の出来事を色々語り合った。
苦しみは分かち合うことで半減するというが、今の二人はそれであった。
「俺達は、何処に養子に出ても勤まるな」等と久々に笑いが出た。
又「どんなに肉体的苦しみには耐えることが出来ても、孤独には耐えられないことが分かった」等と話し合った。
同じ苦しみを知る友を得た喜びに、勇気百倍の心境であった。
それから、泉田源吉上等兵(岩手県鳥海村出身)とは捕虜になるまでの約1か月間行動を共にした。
二人は疲れ果てやせ衰えていた。
ただ若さが持つ生命力だけを頼りに生きていた。
それにしても、あの「白い犬」はどうしたのだろう。
以来見かけることはなかったが、私は今でもあの「白い犬」は粕谷達の化身だったと信じている。
~~~~~~~~~
渋谷さんは、そのあと泉田さんとともに米軍に捕まり、療養を受け、一年半後、日本に復員し、実家に帰ります。
そこで、マラリアの熱が出た。
~~~~~~~~
家に帰り、気持ちが緩んだのか翌日に少し熱が出た。
三日熱マラリアである。
熱が上がり悪寒が激しく、震える病気である。
妹達が付きっきりで看病したらしく、気が付いたら二人とも枕元にいた。
余りの熱と上言に驚いたのは親達で、
「せっかく帰って来たのに、ここで死なれては可愛そうだ」と言いながら「村上医者」を呼んだそうだ。
40度の高熱が続き顔は真っ赤になっていたという。
三日熱マラリアという病名のとおり、3日も経ったら熱も下がり平常になった。
油汗を流し上言まで言っていた病気が嘘のように治った。
祖母が声を掛けて来た。
「お前はずいぶん上言を言ってたが、粕谷って何処の人だ」と言う。
「そうだったのか」と思った。0271_2
粕谷博は、最後まで一緒にジャングルを共にしたが、最期は目の前で地雷で戦死している。
私の生還の陰には、戦友の死という切ない事実があり、どのように粕谷の実家に報告しようかと、ずうーと悩んでいたことだった。
それが上言になったのであろう。
あの時、発電所に行き地雷に触れることが無かったら、一緒に郷里に帰り、本当の兄弟のように付き合えた男だった。
「俺だけ帰って来た。」等と、どうして粕谷の実家に行けよう。
しかし、祖父母に「早く行った方がいい、だんだん行きにくくなる」と諭され、妹二人に引かせたリヤカーに乗り、約6キ口離れた上藤崎の粕谷の家に向かった。
せめて、戦死した際、持参軍票に包んだ小指の爪を遺品として持参したかったが、捕虜になったとき、所持品は全て没収されてしまっていた。
粕谷の両親に、事の次第を話した。
きっと息子の生還を期待していたろうに、私に最期の様子を聞いて、きっと無念だったに違いない。
しかし、額きながらも気強く話しを聞いてくれた。粕谷の母が「不思議なことがあります」と教えてくれた。
「4月7日夜は、障子の戸がサラサラ音がし、なぜか博が帰って来るような気がした」、
「ついさっきは、玄関で「オー」と博の声がしたので玄関を見たが誰も居なかった。
驚かすつもりで隠れていると思い、玄関に出て『博、博』 と呼んだ」と言う。
これらの出来事は、日にちと言い、その時間といい、私が上言で粕谷の名前を呼んでいた時間であり、又、私がリヤカーで粕谷の家に向かっている時間である。

思えば、山中で虫の息の粕谷を抱き「お前は藤崎だな、一緒に帰るぞ」と何度も叫んだ。
粕谷はただ首を縦に振るだけだったが、私に自決を思い止まらせ、以来、その魂は私に付いて来て守り通してくれたのだと思った。
そう言えばあの時の「白い犬」は粕谷の化身だったのか。
鈴なりのトマト畑に私を案内し、泉田源吉上等兵と出会わせたことも、みんな粕谷の御霊のなしたものだった。と私は信じている。
~~~~~~~~~
渋谷さんの手記は、いま、ネットで全文をお読みいただくことができます。
少し長いですが、ご興味のおありの方は、是非、ご一読ください。

【ビアク島からの生還】
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/index.htm
ビアク島で日本軍が建設した飛行場は、米軍に占領され、約3倍の長さの巨大飛行場に生まれ変わりました。
そして「モクメル飛行場」と改名され、その後オーストラリア空軍に移管されています。他の戦線と同様、ビアク島でも、いまだ多くのご遺骨が放置されたままとなっています。
民間の遺骨収集団の努力により、これまでに回収されたご遺骨は約1000柱です。
島には、まだまだ多くの私たちの同胞の御柱が眠っています。
映画「凛として愛」で、故・泉水監督が語られた言葉が蘇ります。
~~~~~~~~~
戦争に負けたのは仕方がない。だが
日本人は戦いに敗れても誠実さが必要だった。
日本という国に、祖国に尽くした幾百万の英霊に、幾千万の先人に
愛をこめて感謝を捧げるべきであった。
…が、果たせなかった。
多くの日本人が裏切った。
戦勝国による一方的な東京裁判が開かれる中で、
戦後の荒廃した日本に、赤旗がなびき、社会主義思想が広まり、
戦勝国による一方的な裁判が開かれる中で、
日本の近代史は偽りに満ちた悪意のもとに
大きく書き替えられていった。

私たちの国には
明治維新以来
幾度かの困難に敢然と立ち向かった
日本民族の不屈の歴史があります。
たった一つしかない命を国家に
同胞に捧げた凛とした真実の歴史があります。
六十数年前、日本はアメリカを始め世界百十数国を相手に大戦争をした。
しかし、その戦争は、国家国民の安全と平和を護るため、アジアの安定を築くため、世界の平和を請い願ったものであることに間違いなかった。
戦場に出ていった将兵は、みな、同じ考えであり、力の限り、彼らは戦った。
だが、こと志しと違い、戦いに敗れたことで日本の掲げた理想は実ることはなかった。
日本は敗れたままでいる。
平和を享受する現代日本から遠く離れた異国には、未だ収拾されない将兵の遺骨が山野に埋もれている。
いつになったら日本は、戦いに散った将兵を暖かく迎えてくれるのだろうか… 。
全国民が祈りを捧げてくれるのだろうか。
靖國神社に祀られる246万6千余柱の英霊は、未だ侵略戦争の汚名を着せられたままでいる。
かつて、南方の島々で戦った日本軍に援軍は来なかった。
ならば、今から援軍を送る。日本を変える援軍を送る。
あなた方の真実を、痛みを私たちは伝えていきます。

|