2017年3月26日 (日曜日)

天皇と他では「格が違いすぎます」

 昨日25日に、昭和天皇「海に入るまで濁らざりけり 」と題して、この歌Photo_2は昭和天皇ご自身の決意のほどを歌ったものだと記述しましたところ、県民から不満と思われるコメントをいただきました。
 まず最上川は、米沢市の西吾妻山「火焔の滝(「ひのほえのたき」か「かえんだき」)」を源流とし、酒田で日本海に注ぐまで、置賜~村山~最上~庄内と県内全域を通過することから、かつての舟運交易当時から県民の生活と密接に関わってきました。源流から海に注ぐまで229kmの長さは日本7位ですが、年を通して流れる水量はトップクラスとされ、その理由は、この地域は雨量が多いことの他に、上流にダムが無いことと聞いております。両岸まで満々と流れる水量と急流から、今も「最上川の舟下り」は観光の目玉して人気を集め、訪れる人々を魅了しています。
 そして、多くの歌人も最上川の流れに感銘した歌を残しております。
広き野を ながれゆけども 最上川  うみに入るまで にごらざりけり』昭和天皇
「五月雨を あつめて早し 最上川」(松尾芭蕉)
「暑き日を 海に入れたり 最上川」(松尾芭蕉)
「つよくひく 綱手と見せよ 最上川 そのいな舟の いかりをさめて」(西行)
「いな舟も のぼりかねたる 最上河 しはしばかりと いつを待けん」(藤原嗣房)
「最上川  岸の山群 むきむきに 雲篭るなかを 濁り流るる」(若山牧水)
「ずんずんと 夏を流すや 最上川」(正岡子規)「
「最上川  いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ」(齋000004藤茂吉)
 など、失礼ながら、昭和天皇の他にも著名な方々の歌を列挙しましたが、その殆どは、単に最上川の情景を歌ったものであり、昭和天皇のそれとは格の違いが一目瞭然で素人でも気が付きます。
 終戦間もない昭和22年8月15日、天皇として地方巡幸のおり、酒田市に再び行幸された際に、山形県上山市出身の斎藤茂吉が、「海に入るまで濁らざりけり」の表現に、「実際は降雨が続いたりすると、物凄い流れに変わり、濁流滔々として天より来るの趣がある」と講じると、陛下は少し顔を引き締められたと紹介しました。この歌を詠んだ17歳の若き皇太子当時の想いは、これから天皇としての在位の折々には、戦争の戦禍や震災の被害などを含め困難な場面に幾多遭遇しても天皇として「心を濁られせずに歩んで行こう」と、最上川の悠久の流れを眺めつつ決意されたことを「うみに入るまで にごらざりけり」と表現されたものと受けて止めております。
 よって、齊藤茂吉先生の「濁ることもある」との講釈は余計なことだったのです。

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2017年3月25日 (土曜日)

昭和天皇「海に入るまで濁らざりけり」

  『廣き野を  ながれゆけども 最上川 うみに入るまで   にごらざりけり』Photo
 この歌は、昭和天皇が17歳の皇太子当時、大正14年(1918年)10月14日に山形県酒田市に行啓された際に、庄内平野を悠々と流れる最上川の情景を詠まれた和歌(御製歌)を、昭和57年3月31日、「山形県民の心を歌ったものだ」と受け止めて「山形県民の歌」に制定されました。
 その後、昭和22年8月15日、今度は天皇として酒田市に行幸され、再び日和山に立たれました。このとき、上山市出身の斎藤茂吉が短歌について御進講され、茂吉が「海に入るまで濁らざりけり」の表現に、「実際は(最上川は)降雨が続いたりすると、物凄い流れに変わり、濁流滔々として天より来るの趣がある」と講じると、陛下は少し顔を引き締められたようだっというエピソードがあります。つまり、「海に入るまで濁らさりけり」は申しまでもなく比喩的表現であり、昭和天皇は、最上川の流れを自分の人生に例え、「崩御のその日まで濁らずにいたい」と決意したものと受け止めています。
  昭和22年8月15日と言えば、その2年前の「終戦の詔勅(現代文)」で、
 「宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって海外に出て他国の主権を奪い領土を侵略するがごときは元より余の志すところではない。--中略---敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、幾度も罪なき民を殺傷し、。--中略---この上、なお交戦を続けるであろうか。遂には、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、更には人類文明そのものを破滅させるに違いない。」
 と呼び掛けられました。Photo_2
 つまり昭和天皇は、濁りも偽りもない言葉で、「白人から植民地にされた東アジア全域の安定を希求したものでも侵略の意思などない。しかし、敵国は国際法違反の原子爆弾を使用しては人類の滅亡させるに違いない」、だから仕方なく負けたことにすると語った想いと重ねております。
 しかし、未だに日本は侵略国家の汚名を着せられ、それを日本人の多くも厚く着込んでいますが、開戦を決意した昭和天皇が自らが侵略を否定していることを確認したいものです。昭和天皇が、開戦目的としたアジアの植民地解放は、終戦まで既に7か国を独立させ、その後も、日本が現地国民に武器を与え訓練指導した独立軍が、再び植民地を奪いに戻った白人軍と、互角以上に戦いを続けました。昭和天皇が崩御された後も、東ティモールが2002年(平成14年)2002年5月20日に独立して、アジア地域は全て独立を勝ち得ています。これらから、プロイセンの将軍クラウゼヴィッツが、「戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる」と「戦争論」にある言葉と共に、昭和天皇の「開戦の詔勅」と「終戦の詔勅」にある偽りない言葉を思い出しています。

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2017年3月16日 (木曜日)

「ルイス甘糟」の酒田の足跡

 先般、49日の法要で帰省した際に、酒田市内の曹洞宗(開祖・道元、承陽(じょうよう)大師)のお寺に立2017315__2_2ち寄り、お坊さんとお話しする機会がありました。話しは、檀家制度や宗門改め、更には、庄内地方の隠れキリスタンの取締りなどにおよびました。酒田市内では西高辺りに処刑場があったことや、鶴岡には「鶴ヶ岡髪谷地刑場」や「鶴ヶ岡大山刑場」があったことのウンチクを語りますと、お坊さんも「かつて、庄内にも隠れ切支丹がかなり多かった」ことなどを語りはじめました。
 事実、江戸時代初期には、庄内藩でも1626年に200人以上の切支丹が追放され、1629年5月9日(寛永6年3月17日)に鶴ヶ岡髪谷地刑場で9人、酒田刑場で10人、鶴ヶ岡大山刑場で5人が、火あぶりや斬首によって処刑されたとの記録があります。
 忘れてならないのは、1629年1月12日、米沢で処刑された53人の切支丹の一人が「ルイス甘糟」こと甘糟右衛門信綱のことです。
 「ルイス甘糟」の父は、上杉二十五将の一人甘糟景継で1593(文禄2)年から1598(慶長3)年まで酒田・亀ヶ崎城の城主を務めており、次男の信綱も土地勘があったはずです。そして、「ルイス甘糟」は1610(慶長15)年ころ江戸で洗礼を受けた後に、仙台藩や米沢藩の重臣になりますが、仙台に立ち寄った宣教師たちに、酒田にも行くように助言しており、この時期が庄内地方にキリスト教が広まった時期なのでしょうか。
 これらの情報は、亀ヶ崎城跡 | 山形 | 史跡案内 | 天上の青からです。http://historicsite.tenjounoao.waterblue.ws/tohoku/yamagata/yamagatahs33kamegasakica.html
 なお、「ルイス甘糟」の父・甘糟景継が城主を務めた亀ヶ崎城跡地は酒田東高校が建てられています。また、かつての宗門改めでは、お坊さんには、檀家を訪問した際でも挨拶なしで真っ直ぐ仏壇に向かい、仏壇辺りにキリスト教に関係する十字の位牌や掛け軸、置物が無いかなどをチェックする権限があったそうです。
 今年は1517年の「ルターの宗教改革」から500年です。宗教改革から約30年後の1549年に、カトリック教会の宣教師ザビエルが宣教を開始しており、「以後よく(1549)広まったキリスト教」と記憶していますが、このように生きた勉強も大切と思います。
禅(道元禅師) + 日本語字幕
   https://youtu.be/PcoNpB4zG3o
  Image2Image4

山形県・酒田や鶴岡の処刑場: 多摩湖畔日誌

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2017年3月 5日 (日曜日)

アマハゲがユネスコ遺産登録候補

 日本全国津々浦々の村々では、神社・仏閣などを中心に、何らかの祭Image2_2礼や文化が息づいているものです。これは、日本が神代の昔から途切れることなく延々と続く証であり、その土地土地の誇りでもあると思います。
 さて、外務省と文化庁はユネスコ無形文化遺産に山形県遊佐町の「小正月行事(アマハゲ)」や「男鹿のナマハゲ」、「能登のアマメハギ」など全国8カ所の行事を「来訪神 仮面・仮装の神々」として推薦すると発表しました。
  遊佐のアマハゲは、女鹿、滝ノ浦、鳥崎の3集落で継承され、既に国指定重要無形民俗文化財に指定されています。実Image2は、「女鹿(めが)」には親戚がありまして、先月の帰省の際にも立ち寄って情報を得ていたことでしたので、嬉しく思っているはずです。
 なお次いでながらご紹介しますが、
 女鹿の北部には三崎公園がありますが、かつての戊申戦争当時の「三崎峠戊辰古戦場」でした。ここは、秋田と県境で官軍(亀田藩)と「庄内藩」の最後の戦いとなった場所です。1868年(慶應4年)7月13日~16日まで、亀田藩等官軍と三崎峠において戦闘が勃発し多数の戦死者を出しました。しかし、この三崎峠で戦死した庄内藩兵の遺体は、見せしめのために引き取ることを許されず長年放置されていたのです。そしてImage3、戊辰戦争から50年近く経った大正3年(1914)、ようやく遺骨収集が許されたのですが、4ダース入り大型ビール箱二つが満杯になったと聞きます。拾い集められた遺骨は、この地に埋葬され、この供養塔はその時建てられたものです。このような歴史から、長年、この辺りでは秋田県側とは険悪な状態だったのですが、近年ようやく仲直りの意味で秋田側と「綱引き大会」をやったそうです。
 また、女鹿地区の八幡神社と思いますが、の伝承もあると聞いています。この庄内平野辺りでは「黒川能」や「杉沢比山」が全国に知られていますが、実は戦後間もないころ、東京から大学教授が郷土芸能の発掘調査に最初に訪問したのが女鹿だったそうです。しかし、多忙な時期で女鹿では演じ手を集めることが出来なかったため、「黒川能」を紹介したことがキッカケで、全国的に広まったという裏話しがあります。
子どもの怠け心を戒める「アマハゲ」山形 NHKニュース
  https://youtu.be/QHCyddwnkTI

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2017年3月 3日 (金曜日)

人工知能のカンブリア紀の爆発は

 山形県鶴岡市に所在する「ルネサス エレクトロニクス鶴岡工場」で製造するCMOS0004203200_センサーは自動運転の自動車やロボットの画像センサーなどに使われる世界一の電子の目と聞きました。ここには親戚二人が働いていますので紹介したいと思います。
 人間の五感として、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚がありますが、人間が最も大切とされるのは視覚とされます。それは障害者認定の基準から見ても視覚障害者の等級が高いことでも明らかです。地球の歴史で、約5億4200万年前から約4億8830万年前までを「カンブリア紀」と呼びます。この時代に初めて「眼」を持った生物が誕生したとされ、それまで数十数種しかなかった生物が、突然、1万種も増加したことから「カンブリア紀の大爆発」と呼ばれています。理由は、眼が見えることで捕食活動が楽になり、弱肉強食の世界が激しく加速したことがあると見られています。
  これからも「眼が見える」ことの大切さが証明されています。
 先日、イメージセンサ(撮像デバイス)の埋込フォトダイオードを発明した兵庫県立大学兼ねて静岡大学の特任教授を務める寺西信一さんが、今年の「エリザベス女王工学賞」を受賞すると発表されました。この「エリザベス女王工学賞」は2013年に始まった、まだ3回目の新しい賞で、過去にはインターネットの開発者や「ドラッグ・デリバリー・システム(DDS)」の開発者に贈られているそうですが、三回目にして寺西さんが選ばれたことは凄いことと思います。凄い理由は、AI(人工知能)にイメージセンサ(撮像デバイス)という目を付けることを可能にすることで「AIのカンブリア紀の大爆発」が予想されるそうです。
 具体的には、防犯カメラで不審者を自分で発見したり、自動運転の自動車やロボットの眼として自分で進む方向を判断したり、或いは農作物の良し悪しを選別する眼、攻撃目標を自動的に定める軍事目的などとして、多種多用な目的に利活用の場が広まりそうです。このイメージセンサ(撮像デバイス)を製造している、その一つが、ルネサス エレクトロニクスの鶴岡工場です。

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2017年2月27日 (月曜日)

車の自動運転は楽しみですね!

 最新の「アイサイトVer3」も、吹雪や大雨の中では、作動しないと2017227_image5_3きもあります。
 最近、郷里の遊佐町や酒田市まで、高速道路を利用して往復する回数が増えました。殆どが、関越から日本海沿岸東北自動車道の利用です。車は「アイサイトVer3」を搭載したスバル車で、前面上部には人の目と同じように、左右2つのカメラで立体的に環境を把握する「ステレオカメラ」が取付けられ、前方の車は勿論、歩行者や自転車なども識別して、これらとの距離や形状、移動速度を正確に認識する「運転支援システム」と言われています。
 ドライバーが気付かないうちに自動支援しているスリップ防止や自動ブレーキは勿論、前の車に付いて行く「全車速追従機能付きクルーズコントロール」や走行レーンを読み取ってくれる「アクティブレーンキープ」なども長距離運転には重宝しています。
 ところが、1月下旬に帰省した際、関越トンネルを過ぎた辺りから、前方の視界を遮るような猛吹雪に遭遇したのですが、この「アイサイトVer3」も作動しなくなったのです。吹雪且つ積雪で走行レーンは消えている上、前の車の赤い後部ランプが頼りの厳しい環境での運転でしたが、こんなときこそ威力を発揮して欲しいものです。
 今年2017年中には、「アイサイトver4」搭載の車が発売されるそうで、
 •全車速追従機能と低車速(0~65km/h)での車線中央維持
 •自動車専用道路での渋滞時カーブ追従に対応する、準自動運転「レベル2」相当のようです。また、2020年には「アイサイトver5」も登場の予定で、ステレオカメラに追加して「デジタルマップ、レーダー」を使用することで、「自動車線変更」、「連続レーンキープ」、「•ーブ減速」などの機能が追加されるそうです。
 是非とも、吹雪や大雨でも作動するよう機能を高めて欲しいものです。

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2017年2月23日 (木曜日)

金正男暗殺から半島国家を想う

 「半島国家」は半島の根本は大陸に接している為、大陸側の国家からの侵略から逃げ場がないことに加え、海洋国家からの侵攻の危険性にも晒さMalay_peninsula5れているため、安定しない歴史は世界の何処も共通しているようです。事実、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島のほか、アラビア半島、インドシナ半島、朝鮮半島などの歴史を知れば明白なことです。
 今回は、インドとシナの間の半島だから「インドシナ半島」と呼ばれる地域で、さらに南方に突き出た半島の中の半島である「マレー半島」を舞台に、北朝鮮の「金正男氏暗殺事件」が発生しました。この事件では、マレーシア国家の北朝鮮に対して「駐北朝鮮マレーシア大使を平壌から召還」や、事件に北朝鮮大使館が関係していたことの公表など、強気の対応が注目されています。この強きの対応の背景にも、民族のルツボ「マレー半島」の歴史が関係していると見られます。
  この半島の広さは日本よりやや狭い面積で、人口は約3000万人ですが「アジアの人種のるつぼ」と呼ばれ、マレー系、中華系、インド系を中心とする多民族国家です。「マレー半島」が多民族国家になったのも350年以上の植民地支配が関係しています。それは、植民地支配は「間接支配」が原則とされ、英国や蘭国、仏国などの宗主国が直接支配しないで、隣国やその植民地の少数民族を使って支配することで、白人が直接恨みを買わないようにしたそうです。つまり「マレー半島」のマレー人の支配は、中華系やインド系を奴隷にして支配したのであり、更に、中華系やインド系の奴隷は、朝鮮系を奴隷にしたそうです。今も「マレー半島」のマレーシアやシンガポールで働く売春婦には朝鮮系が一番多いそうです。
 「上には上が、下には下がいて」奴隷の欲求不満のはけ口にしたのでしょうか。00016_24_33

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2017年2月 7日 (火曜日)

将棋とカマンベールチーズ

 趣味に将棋、好物にチーズがありますが、子供当時から夢中だった将棋も、最Image2_2近では、本格的に指す機会は殆どなくなり、パソコンでコンピュータ将棋やテレビで将棋観戦、また新聞の将棋欄で次の一手を予測する程度です。
 最近、将棋の話題が多いようです。
 将棋の漫画が良く売れたり、コンピュータ将棋とプロ棋士の対戦、プロ棋士が対局中にスマートフォンで将棋ソフトを利用した疑惑、そして、昨年末に話題になったのは史上最年少で将棋のプロ棋士になった藤井聡太四段(14)のプロデビュー戦で現役最年長の加藤一二三・九段(76)を破ったことでしょう。
 将棋は手っ取り早く覚える戦法に居飛車の棒銀がありますが、加藤プロImage3は若い頃から今でも棒銀を指す棋風で知られています。更に面白いところは、ダラリと長くの絞めたネクタイと、時おり対局相手の背後に回って盤面を見るクセ、それに、好物のチーズをぱくぱく食べるところでしょうか。よく見ますと、カマンベールチーズのようです。小生も長距離の運転などでは、カマンベールチーズとクラッカー、お茶を車に持ち込み腹の足しにすることがありますので、つい、共通項を見付け笑ってしまったものです。
【将棋】加藤一二三 九段 vs 藤井聡太 四段  
 

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2017年2月 1日 (水曜日)

遊佐町袋地から鳥海山を撮影

 先月1月22日(日)に「バナナマンのせっかくグルメ!!」で、バナナ000000ivqaeij1qマンの日村が遊佐町を訪問して、同町の話題を紹介していました。その番組の中で、遊佐町袋地にギャラリー&ティールーム「翠」を訪ねたことや、その近くの農業用水の溜め池がまだ残っていたことも気になりましたので、所用で帰省した1月29日(日)午前中に、池に映る「逆さ鳥海」の撮影を期待して袋地に向かいました。残念ながら、溜め池周辺は雪が深いうえに、氷が張っていて影鳥海の撮影は出来ませんでしたが、暫く立ち止まって鳥海山を眺めていると、昭和30年代にほぼ終わった「橇木山(そりぎやま)のことを思い出しました。
 「橇木山(そりぎやま)」とは、鳥海山の概ね2号目、3合目辺りの山麓から、毎日の煮炊きから暖房用の「薪」にする木を「橇(そり)」で降ろす作業でした。このImg_6969薪にする樹木は「ブナ科」の「クヌギ」「コナラ」などが殆で、この木の切り出しは、稲の収穫が終わった秋口に、それぞれの村々に指定された山で行っていました。
 そして、各家々で必要な分量を、長さ概ね1m50cm程度に切り倒して積んで置くのですが、当然、雪が積もれば隠れるから、積んだ木の上に長目の棒を差し、目印を付けて置き、そして翌年の鳥海山の天候が安定する1月下旬から2月上旬ころに、これを木の橇でなだらかな斜面を利用して降ろしていたのです。今は、電化やガスが利用され、薪で煮炊きすることは殆どないはずで、もし薪が必要なら道も整備されているし、多少の雪道でも4W車なら簡単に運ぶことが出来るのですから便利なものです。なお、この辺りは「白井新田地区」といい、江戸時代に庄内藩の「白井矢太夫」の指導により新田開発が始まり、岩野集落や藤井集落、金俣集落などが入植されたと聞いています。我が家の曽祖父も明治後期に新田開発を手伝ったそうです。
 「白井新田」の名称は勿論「白井矢太夫」の功績を讃えてのことでしょう。
橇木山(そりぎやま)の思い出: 多摩湖畔日誌

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2017年1月23日 (月曜日)

バナナマンの日村、遊佐町に登場

 1月22日(日)午後6:30~「バナナマンのせっかくグルメ!!」で遊佐町のことが紹介されていました。00banana_tbs
 月光川沿いの映画「おくりびと」の撮影ポイントからの鳥海山も、雲一つない青空をバックにして最高の状態でした。また、袋地にギャラリー&ティールーム「翠」が出来たことや、その近くの農業用水の溜め池がまだ残っていたことも確認しましたので、次回帰省の際は、池に映る鳥海山の撮影に向かいたいと思います。それに、畠中浩哉さん、英里さんご夫婦の自宅付近は見当がつかなかったのですが、いくら丼をタイミング良く準備できたことはラッキーでした。子供のころ、ご飯の白いところが見えないほど、タップリとイクラを乗せて遠慮なく食べたころを、懐かしく思い出しました。
■「今夜食べたくなってきた!! 」
山形県遊佐町の最高級食材に鈴木奈々が悶絶!? 1/22(日)
『バナナマンのせっかくグルメ !』【TBS】
  https://youtu.be/WFpzGOzcMhs

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2017年1月21日 (土曜日)

勉強しよう「戦後日本の左翼史」

 日本人でありながら、日本国家存続と植民地化されたアジアの解放のため00000449134に命を捧げた英霊の方々を「侵略した」「間違いだった」などと平気でバカにする人達がいます。これは全て、占領軍GHQが押し付けた「東京裁判という茶番」を受け入れ、GHQの手先となって、教育、報道、政治、宗教、労働組合、芸術、スポーツ等々、あらゆる手段を利用して、日本国民が刷り込まれてきた結果です。
 第二次世界大戦後は、世界を二分したアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造から、その狭間に位置する日本は東西から自陣営に取り込む工作が激しさを増していました。
 それが1991年のソ連崩壊後は、対立構造が弱まると期待されましたが、なんと靖国問題、慰安婦問題、日本のアジア進出を「侵略」としたりとシッカリと生き残っています。
戦後日本の左翼史
https://youtu.be/_oZnkR7aKVE

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2017年1月15日 (日曜日)

韓国人が世界に誇るべきこと。

 「慰安婦交渉」が暗礁に乗り上げ、在韓大使を引き上げや通貨スワップ中断など41giltokyvl__sx306_bo1204203200__2閉塞状態に陥っていますが、日・韓ともに忘れてならないことを記述しておきたいと思います。
 それは、朝鮮半島の皆さんが長い歴史の中で、一点、世界に誇るべきことは、約24万人の将兵が日本軍軍人として「アジア解放」の為に戦ったことと、多くの英霊が靖国に祀られていることです。韓国が本当に恨むべきは日本ではなく、韓国が長年酷い目に合った、歴代の中国王朝である唐・宗・明・モンゴル人の元、女真(じょしん)族の清からでしょう。更に近年では、毛沢東、スターリン、金日成、李承晩からであり、記憶に新しいことでは、李承晩大統領の命令で惹起された、済州島四・三事件保導連盟事件を始めとする「赤狩り」で、共産主義者100万人近くの同胞が粛清されたことです。
 この粛清の裏では、在韓米軍が操っていたはずです。
 韓国では日本以上に幾多の困難な歴史はありましたが、韓国の近代化は日本の莫大な資本と人材の投与によって成し遂げられたものであり、これを現実として受け止めるなら、反日感情は薄まり、未来に向けた信頼関係も構築されるはずです。
 再度申し上げますが、韓国が世界に向けて誇れることは、日本軍と「アジアの植民地解放」の為に共に戦ったことと、中国に貢女(こんにょ)や宦官を差し出し続けながらも、辛うじて歴史を紡いできたことです。世界の民族の殆どは、「民族ごと奴隷にしたり・されたり」、「民族ごと虐殺したり・されたり」している現実があります。
 それなのに、一つの半島で生き延びている韓国にはシタタカサがあります。
 繰り返しますが、東南アジア諸国の独立は、大東亜戦争で日本軍と共に戦った24万人の朝鮮人将兵の存在を、アジアも韓国も日本も忘れてはなりません。そして靖国には、朝鮮日本兵を含む約2万1000人が合祀され、特攻隊の一員として散った半島出身者約二十名もおられるのですが、韓国では国賊扱いなのでしょうか。
 天皇陛下と韓国大統領が、揃って靖国神社に御参拝される日を夢見ています。
 ※朝鮮半島から日本軍人として志願された人数です

年度 志願者 入所者数 選抜率 志願倍率
1938年 2946人 406人 16.2% 7.3倍
1939年 12,348人 613人 4.9% 20.2倍
1940年 84,443人 3,060人 3.6% 27.6倍
1941年 144,743人 3,208人 2.2% 45.1倍
1942年 254,273人 4,077人 1.6% 62.4倍
1943年 303,394人 6,000人 1.9% 50.6倍

【大東亜戦争】朝鮮人特攻隊員の真実【韓国併合・日本國臣民】   https://youtu.be/yjbRm4891Ls  

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2016年12月30日 (金曜日)

日本が〝心〟という字に見える

知日家韓国人・朴鉄柱氏Image1(大正十一年(一九二二)、釜山生まれ 平成二年一月逝去・六十八歳、
 昭和二十九年五月「日本文化研究所」を設立)
大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。下関の住吉神社に奉職。戦後韓国に帰国。 李承晩大統領の反日政権下にあって苦汁を嘗めさせられる。
(日本の学校を出た者は、「民族反逆者裁判条例」に引っ掛かり追放) 朝鮮動乱を経て、昭和29年5月に「日本文化研究所」を設立。研究主題は
一、日本上代文化の研究
二、帰化文化の研究
三、日本の信仰、道徳等精神文化の研究
同じころの我が国が、敗戦により自国文化の否定、罵倒する言論がまかり通っていたのとは対照的です。その後「日本と韓国」(韓国と日本ではない)という著書を南朝鮮で出版しましたが、「反共法」に引っ掛かり、朴氏は裁判にかけられ、三年半の刑が言い渡されました。著書は全て没収・焼却されました。
【KSM】知日家韓国人 朴鉄柱氏 韓国から日本をながめていると、
日本が〝心〟という字に見える

https://youtu.be/hFe2xkpupBo

 「韓国から日本をながめていると、日本が〝心〟という字に見える。
北海 道、本州、四国、九州と〝心〟という字に並んでいるではないか。
日本はすばらしい。
万世一系の御皇室(御をつけらる)を戴き、歴史に断絶がない。
日本固有の神道が、現在に至るまで相続されており、全体が調和された形でできている。
〝八紘為宇〟という考え方は、日本の大らかさの現れであって、これは積極的に世界に知らせる必要がある。
それに較べて韓国の歴史は、悲惨であって断層が深く、涙なくして見ることはできない。
暗い場所から見れば、明るい所は余計にはっきりと解る。韓国は日本文化の豊かさの中から学ぶことによって、内面的支柱を確立するよう努力したい。」
「韓国の檀君神話といっても、あれは高麗時代、モンゴルの支配下に置かれた時、一然上人が民族精神を振起するためにまとめたもので、高麗神話の性格が強い。ほかに新羅や百済や駕洛にも神話がある。
韓国は、日本のように統一した一つの 神話にはなっていない。
日本神話は、ギリシャやユダヤの神話に較べて明るく、ロマンの香りが高く親しみやすい。
それに日本神話は檀君神話より四百年も前にまとめられた。
私が日本神話に内面的親しみを感ずるのは、日韓は同祖だと信ずるからである。
それは民族学的な立場からも立証できる。韓国は古来から祖先信 仰と自然崇敬の念が強く、山神霊廟があり、それらをまつるために、『鳥居』や『しめなわ』『ヒモロギ』を使ってきた。それに日韓両国には、「白衣」の思想が あった(これらは中国にはない)。
日本の神職は、神に近ずく時には白衣を着る。韓国民も霊廟に参拝する時には白衣を着るし、目上の人に会う時にも白衣を着るのが礼儀となっている。まず自らの身を浄める訳である。」
「第二次大戦後の日韓関係は、李承晩政権の影響もあって、共産主義以上に日本を憎む傾向があった。そのため日韓の氷山の一角を誇大に強調して、隠された部分を見落していた。
お互いの精神的歴史的豊かさを掘り起す努力をしようではないか。そのために日本は自信をとり戻して、おおらかに民族形成の原点に立ち返ってほしい。」
「現在の日本人の自信喪失は敗戦に帰因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後までとり組んだ。それまでの日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。
最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。
〝事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし〟というのが、 開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。
日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。
それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった

日露戦争と大東亜戦争-この二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。」
「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスを始めとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。
戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決る、というのはクラウゼウィツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。
日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、〝聖なる戦争〟であった。
ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐ回復できたではないか。二百数十万の戦死者はたしかに帰ってこないが、しかし 彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである。」

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2016年12月25日 (日曜日)

「新徴組」の女剣士・中澤琴のこと

 ようやく、「新徴組」に焦点を当てた劇が放送されますので紹介0000uaearrしたいと思います。
 新撰組の兄弟組織「新徴組」「に実在した女剣士・中澤琴のことですが、平成29年1月14日(土)[BSプレミアム]で午後9:00〜10:29に「花嵐の剣士~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」が放送されます。
  中澤琴は沼田市利根町穴原出身(旧・利根郡穴原村)、身長は五尺六、七寸(170前後)、目鼻立ちよく面長で美人、男装して京へ上り、江戸市中見廻り、毛利、島津両屋敷の襲撃にも加わり、薩摩屋敷で左足を切られたこともあった。庄内戦でも奮闘し官軍十数人に囲まれたが二、三人を切り伏せ突破、幕末から明治、大正、昭和を生きた。生涯を独身で通し昭和2年10月12日、88歳没とあります。
  徳川幕府が弱体化した幕末期、これを助けるために山形県庄内(今の鶴岡)の志士・清河八郎が結成した「浪士組」を母体に「新撰組」と「新徴組」が誕生し、新徴組の大砲組を母体に「新整組」が編成されています。この「新撰組」は、京都守護職に就いた会津藩の元で活躍したことはご存じの通りですが、江戸市中取締に就いた庄内藩の元で働いたのが「新徴組」と「新整組」でした。幕末の風雲児「清河八郎(本名・齋藤元司)」は、映画や小説ではとかく悪役として登場しますが、司馬遼太郎氏は、「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」と評価しています。
  今も親しみを込めて使われる「おまわりさん」の語源は「新徴組」からですが、
   酒井左衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡
  酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る
 からだそうです。
 なお、天皇皇后両陛下が今年9月12日、旧庄内藩士や「新徴組」が開拓した鶴岡市の松ケ岡開墾場を視察されましたが、このようなことからも注目されるきっかけになったのでしょう。
庄内藩預かり「新徴組」屯所: 多摩湖畔日誌
「新徴組」と山形県遊佐町の関係: 多摩湖畔日誌

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2016年11月24日 (木曜日)

注目の贈り物は全て山形県の企業

 安倍晋三首相は11月17日(日本時間18日)、ニューヨークでトランプ次期大統000082258領と会談した際に、安倍首相がトランプ氏に贈ったのが、「本間ゴルフ」の最高級ドライバーで完全オーダーメードのオンリーワンクラブ「 BERES S-05 5S」(シャフト=ARMRQ∞48)(54万円)だと話題になりました。  「本間ゴルフ」山形県酒田市宮海字中砂畑27-18.  ☎0234-33-7057
 山形産は、これだけではありません。
 2009年12月、米国のオバマ大統領がノーベル平和賞の授賞式でミシェル夫人が身に着けていたのは、エレガントな黄色のカーディガン。この服に使われているのは山形県寒河江市の佐藤繊維が作った糸でした。「夫人がこ000ninaricci_prssrelease091210のカーディガンを着てくれたのは大統領就任式に続いて2度目。愛着を持ってくれていると分かり、本当にうれしい」。佐藤正樹社長は顔をほころばせていました。
  「佐藤繊維」山形県寒河江市元町1丁目19−1 - 0237-86-3136     http://www.satoseni.com/index_j.html  
 また、2013年2月22日日米首脳会談のお土産にオバマ大統領が指名したのは、山形市の「山田パター工房」(社長・山田透)が製造する「山田パター」でした。この「山田パター」は、世界最少スコア「55」をマークしたライン・ギブソン(豪州)が愛用しているとして一躍話題になっていましたが、山000000498田透社長(57歳)が創業して、社長自身が1本1本手作りしている作品だそうです。 「山田パター工房」 〒990-2445 山形県山形市南栄町2丁目13
 電話 023-674-8785. Fax:023-674-8786
 さて次は、安倍首相は出身地である山口県下でプーチン大統領との会談が行われますが、どんなプレゼントを準備するのでしょうか。
これまでは
2013年4月 スキーウエアと板
2014年10月 釣り道具00rian_02361256_hr_ru_l
2015年10月 獺祭(だっさい)(日本酒)と萩焼のぐい飲み
2016年5月 ロシア人宣教師ニコライの日記と双眼鏡
2016年9月 鎧と兜
 が贈られているそうですが、特に話題になった物は聞きません。せいぜい、秋田県の佐竹敬久知事が、2011年3月に東北地方で大規模な地震と津波が発生した際、ロシアが被災地を支援したことへの礼として、秋田犬の「ゆめ」をプレゼントしたことでしょうか。

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2016年11月23日 (水曜日)

渋谷暴動殺人犯の中核派・大坂正明

 この事件は、当時、小生と同じ世代の若者同士が立場の違いから殺害され85e92b7d9aa6d999737b35a9760ec9e9るという、忘れら難い事件であるとともに、45年間も逃亡を続ける容疑者の意地と、逃亡を公然と組織が助ける、或いは助けることが出来る日本の現状に注目しています。
 「渋谷暴動事件 」とは、1971年(昭和46)年11月14日、極左・中核派などが渋谷区で機動隊員を襲撃し、この警備に従事中の関東管区機動隊・新潟中央小隊員の中村恒雄巡査(当時21歳)が殺害されました。当ブログでも2013年2月に「渋谷暴動殺人指名手配犯・大坂正明」と題して配信しておりますが、左の「人気記事ランキング」のとおり注目度が高いページです。
 きっと関係者も閲覧しているはずです。
 この事件で、大坂正明容疑者(67)は45年間も指名手配され続けていますが、警察による捜査は後手後手の印象です。数年前、立川市砂川町のマンション一室の中核派非公然アジトに潜んでいた痕跡があったとの報道がありましたが、今春には、北区西が丘1-20の賃貸マンションの中核派非公然組織「革命軍」アジトに021tnakamura12007年~2008年夏ごろまで潜伏していた形跡があったと報じられていました。以前も、京浜東北線沿線の川口や大宮あたりに潜伏情報があるとのことで、「都心にも埼京線や京浜東北線或いは八高線あたりを利用して普通に出入りしているはずだ」と推測しましたが、ほぼ的中しています。
 また、自転車を乗り回していたとの情報もありますから、年齢の割にはフットワークが軽い初老の男のイメージです。そして、間違いないことは、今も、中核派組織の全面支援を受けて逃走していることです。なお先日、警察庁は「捜査特別報奨金」の対象に指定し、大坂容疑者の逮捕につながる情報に最高で300万円を支払うことを決めたそうですから、協力を得て早く捕まえて楽にしてあげたいものです。
 45年間も逃げ回り、疲れ果てているはずです。
 自首して持病の治療に専念してはと思います。
氏名:大坂正明 Image6_2
生年月日:1949年9月29日
出身地:北海道
身長:178cm位
体格:やせ型
頭髪:ややウェーブ
特徴:面長・色白・やや猫背・右目下に1~2針縫った跡・左目下に小豆大の傷跡・近視
 大坂正明の現在の様子をプロファイリングしていますが変えないことにします。
 顔立ちは年齢相応に変貌しているが、濃い顔立ちの印象は残し、床屋には行かず自分でカットし白髪交じりの長髪。年齢の割りには長身で痩せ型のスタイルを維持。
 日常生活は組織の支援を受けつつ女性と同棲している可能性が高い。
 組織内では、影の指導者層の一人として、組織の活動分析、活動方針などの企画を担当し、最近では、護憲運動や原発反対、米軍基地反対などに力を入れているはず。
■産経ニュース 2016.1.23 09:45更新
   http://www.sankei.com/affairs/news/160123/afr1601230017-n1.html

71年「渋谷暴動事件」 逃亡犯情報に最大300万円(16/11/01)
  https://youtu.be/8FP8sS-lLa4

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2016年11月18日 (金曜日)

全国で使われた「田植型」の発祥地

 山形県飽海郡遊佐町富岡の村外れに昭和3年建立の「田植型之碑」があります。
 JR羽越線の踏切から吹浦方向に向かって、約100メートル地点の右側です。Image8

 この石碑は、田植型を考案して農作業に大きな貢献をした石川治兵衛を称えた記念碑です。この石碑の前の通りは以前は県道でよく通った道でしたが、近所に中学校当時の先生が下宿していたお宅があり、見つからないように急いで通り過ぎていた懐かしい場所です。50数年経った今も、ついアクセルをふかしてしまいます。
 出来れば、写真入りの説明板があるといいですね。モッタイナイ話しです。
 以下は「庄内日報社」や「広報・月光川」からの記事からです。
http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp245.html
 石川治兵衛は嘉永5(1852)年、飽海郡富岡村前田(現・遊佐町)の農家に生まれ、若いころから農家経営を志し、常に農事改良に情熱を傾けた人である。Image3_2
 記録によると、明治初年以前の富岡周辺の田は、やっこ田(軟らかい田)という湿田で、明治15年ころには乾田に改良されたという。その後、明治24年には北野飽海郡長が馬耕術を奨励、福岡県より技術者・伊佐治八郎を招いて乾田馬耕の指導に当たらせている。こうした農事改良に目を開いた富岡の青壮年である石川治兵衛、後藤千代治、佐藤重吉、佐藤百治ら10名が改農社という農事改良グループを結成したのが明治26年のことである。田植えも明治の中期ごろまでは縄を張り、それを基本にするか、または型なしの見当植えで苦労の割に能率の上がらないものであった。その非能率に改農社の人たちが着目したのが田植型考案の端緒となった。その中で特に研究心の旺盛な石川治兵衛がいた。ある日、治兵衛が囲炉裏の灰に転んでいた糸巻き枠を見てふとアイデアが閃き、いろりの灰の上で糸巻き枠を転がしたところはっきり跡がついた。発明とは案外こうした身近なヒントから生まれるものかもしれない。やがて治兵衛を中心に改農社の人たちが知恵を絞って出来たのが田植型の原型である。だがこの型は小さい上に縦の線だけの簡単なものであった。治兵衛らはその後改良を加えた結果、縦横線ともできる大型田植型が完成している。そのころ仲間の中に専売特許という声もあったというが、金儲けのためではないと言って誰でも使えるようにしたという。こうしたことなども農事改良にかけた治兵衛の熱意が込められていたようである。
この田植型は田植え機が導入されるまでの長い間全国に普及し役立っている。

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2016年11月15日 (火曜日)

酒田市豊原の「善治日誌」のこと

 今、大場正己著の『善治日誌』を読む-明治26~昭和9年、山形県庄内平野における一農民の「働き」の31記録を読んでいます。「善治日誌」とは、飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市本楯)の農家、伊藤巳之助(家号勘助)の二男として明治11(1878)年に生まれ、同じ村の後藤丹蔵家に婿養子に入った後藤善治が明治26年15歳から書き始め、1日も休まずに昭和9年までの42年間の長期にわたって書き綴った日記のことです。
 この日記が話題になったのは、昭和30年前後のことだそうですが、小生が知ったのは高校当時の昭和40年代初めに教師から、「日記も長く続ければ、その人や家族だけでなく地域の宝物になる」と「善治日誌」のことを教えられたことからでした。
  再び話題になったのは、「山形県庄内平野における一農民の日誌 明治26-昭和9年」が発刊された昭和52年ころで、豊原の隣村で母の実家・草田の酒田市役所を退職していた祖父から「農林省の人達が大勢で、善治日記の裏付け調査にここにも来たぞ」と教えられたことでした。
  それが先日、妻の叔母の嫁ぎ先の豊原村の後藤家で不幸があり訪問したのですが、なんと、この家が「善治日誌」を書いた善治が婿入りした「丹蔵家」とは知らずにいたのですから浅はかなことです。Img_6788
 なお、『善治日誌』を読むの著者・大場正己氏は「豊原研究会」のメンバー12名のうちの一人で、元釧路公立大学の教授で西東京市にお住まいだそうです。
 農林省農業総合研究所「豊原研究会のメンバー」は、相川良彦、磯辺俊彦、宇佐美繁、宇野忠義、大場正己、金井晃一、金子つる、川口諦、杉山茂、陣内義人、武田勉、豊田隆Toyoharai_mage0145

本楯の『善治日記の世界』: 多摩湖畔日誌Image7Image5Img_6795

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2016年11月 3日 (木曜日)

韓国は罪人を大衆に晒すのが儀式?

 韓国の大統領が、政権末期の恒例行事とも言える側近の不祥事Image1で絶体絶命の矢面に立たされています。そして、朴槿恵(パク・クネ)大統領も、過去の例に倣い「亡命」「暗殺」「死刑判決」「自殺」などの末路が待っているのだろうか。
 さて、10月31日、朴槿恵大統領の古い友人である崔順実(チェ・スンシル)氏が、韓国のソウル中央地検に出頭した様子が繰り返しテレビで流されています。崔順実氏は、嗚咽したように口に手をあて表情をゆがませつつ「死んで償うほどの罪を犯しました」「許してください」などと情けないコメントしたそうです。
 韓国社会では、社会を大きく騒がせた犯罪者や当事者は、反省して憔悴している姿を国民の前に晒すことが、許しを乞う大前提になるといいます。数年前の「ナッツ・リターン事件」でも、当事者の財閥令嬢・趙顕娥(チョ・ヒョナ)被告がやつれ00000259625た姿で、マスコミのカメラの前で国民に謝罪していたことは記憶に新しいことです。
 日本なら、犯罪者には被害者以上?に人権があるという理屈や、犯罪報道が警察・検察の捜査情報に依存しており、「逮捕=犯人」ではないこともある虞から、逮捕直後の容疑者にカメラを向けることに極端に慎重になっている印象ですが、韓国のこの習慣は見習うべきと思います
 まぁ、それにしても韓国の歴代大統領は、「亡命」「暗殺」「死刑判決」「自殺」などの悲しい末路が待っている現実を韓国民はどのように見ているのでしょうか。
韓国歴代大統領憐れな末路の理由?: 多摩湖畔日誌
■韓国歴代大統領のその後
初・2・3大統領 「李承晩」本貫は全州李氏。黄海道
 彼の養子が実の両親を殺害。不正選挙を糾弾されハワイに亡命。そのまま客死。

第4代大統領 「尹譜善」本貫は、海平尹氏。忠清道
 クーデターで退任を余儀なくされる。軍法会議で懲役3年の判決。

第5~9代大統領 「朴正煕」本貫は、高靈朴氏。慶尚北道
 長男が麻薬服用で逮捕される。狙撃事件発生。弾がそれて夫人に命中。死亡。直後、金載圭KCIA部長によって暗殺される。

第10代大統領 「崔圭夏」本貫は、江陵崔氏。江原道B0052821_22524051
 学生デモ等が収まらず、粛軍クーデターを実行。
 結局収まらず、光州事件発生。8ヶ月で退任。

第11・12代大統領 「全斗煥」本貫は、旌善全氏。慶尚南道
 光州事件において反乱首謀罪で死刑判決。後に恩赦。

第13代大統領 「盧泰愚」本貫は、交河盧氏。慶尚北道
 退任後に収賄容疑で逮捕。光州事件の内乱罪も発覚。懲役17年の判決。後に恩赦。

第14代大統領 「金泳三」本貫は、交河盧氏。慶尚南道
 在任中に経済危機に陥りIMFの介入を招く。
 次男は利権介入による斡旋収賄と脱税で逮捕。 

第15代大統領 「金大中」本貫は金海金氏。全羅南道
 光州事件の首謀者として無期懲役の判決。
 息子3人を含む親族5人が金がらみの不正事件

第16代大統領 「盧武鉉」本貫は光州盧氏。慶尚南道
 韓国経済や外交を破綻に追い込んだ終身名誉お笑い芸人。
 親族の不正が取りざたされる中、登山中に謎の滑落死。

第17代大統領 「李明博」本貫は慶州李氏。日本(大阪)
 経済大統領のはずが格差拡大や生活難、就職難を招いた無能売国奴扱いで極めて評判が悪い。退任と同時に逮捕は免れないとの噂。
 国会議員の実兄秘書が逮捕済み。夫人のいとこも逮捕済み。
 本人も土地不正購入の疑惑事件の渦中にある。

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2016年10月 1日 (土曜日)

偶然と言うだけでは説明できない

  昨日9月30日は、Aiphoneでニッポン放送を聞きながら多摩湖の000002_288堰堤を散歩していますと、はるか遠方にスカイツリーを観ることができました。しばし眺めていると、イヤホンから「この放送はスカイツリーから放送しています」と流れたのでした。「偶然もあるものだ」と思いつつ聞いていると、ニッポン放送の周波数に「FM 93.0MHz」が加わり、今日は9月30日は「ニッポン放送 HAPPYFM93の日」と語っていました。建築中のスカイツリーには、仕事で何度か立ち入ったことがあったのですが、一度は上まで登ってみようかと思いつつ帰宅するとと、何と元職場の仲間から懇親旅行でスカイツリーに行こうと誘いの連絡が入っていたのです。
 しかし、今回紹介したい「偶然?」は、この程度のことではありません。
 今年は春先から私ら夫婦の親が揃って介護の問題が発生し、毎月のように二・三泊で帰省しているので親戚・友人らと親交を深める機会も多くなっています。そんな折り、どうしても昔お世話になった女性の安否が気になり、訪問介護をしている妹に「どうしているか調べて欲しい」と依頼したのでした。さっそく、妹は依頼された翌日に訪問したご自宅で、「〇○村に親戚あるそうですね」と質問すると、偶然にも調べて欲しいと頼んだ人の家が親戚で、「その家には、叔母がこの家から嫁いでいるので、〇○さんは私の従姉妹です。」と返答されたから驚いたのでした。更に本当に驚いたのは、その直後、〇○さんの娘さんから「母の〇○は今朝、日本海病院で亡くなりました」という電話が入ったことでした。
 妹は背筋に、その時ぞくっと寒気が走ったそうですが、妹から電話連絡を受けた小生は「きっと、思いは何処かでつながっていた」ことを確信したのでした。
  亡くなる前日、日本海病院には義母を診療のため連れて行ったのですが、そこの待合室から妹に「次回、帰省したら〇○さんに挨拶に立ち寄りたいから調べて欲しい。」と連絡したのであり、その時間は〇○さんが危篤に陥り生死の境にあったのでしょう。
  ただただ申し訳なかったのは、帰京して直ぐの葬儀でもあり、本葬には妹に代理で出席してもらい、「〇○様には、幾多のご厚情をうけながら、ご恩返しもできず痛惜の念もひとしおです」と弔電を打たせて頂きました。今月末に帰省した際は、ご仏壇に手を合わせ墓参りも致し、せめてもの埋め合わせをする予定です。なお〇○さんは、小生が誕生当時から3歳頃まで子守りをして頂いた方であり、アルバムには両親より一緒に写っている写真が多いくらいです。遠い記憶には、屋敷の裏手に赤い鳥居と小さな祠があったなど、その方の家屋敷の様子などがうっすらと残っています。合掌

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